祭りと演劇 後

「こちらにお座りください。ヴィクトリア様」


 先に行って席を取っていたルーファスとレイモンドが、二人を案内する。


「もうだいぶ人が座ってるね」


 ヴィクトリアは、レイモンドの手を取って席につくと、周囲をぐるりと見渡した。

 『劇』が訪われるということで、広間に設けられた野外ステージには、すでに人が多く集まっていた。

 ルーファスにエスコートされ席についたアルフェリアは、ヴィクトリアを見てにっこりと微笑むと、声を弾ませて言った。


「……良いわね。この、大事にされているって感じ。これなら、私としても貴方を任せて安心だわ」

「任せるって……。アルフェリアと私じゃそう年は変わらないし、そもそも前世も含めれば私のほうが年上じゃ」

「私がちゃんと見とかないと一人でご飯も食べられないような人間は、過去がどうあれ年上とは認めないから」

「う……」


 そう言われては言い返せない。

 ヴィクトリアが視線をそらせば、アルフェリアはまるで、わがままな子供を前にした母親のように溜め息を吐いた。


「私から目を逸らしたって、現実は変わらないわよ」

「だって、私の方が……」

「分かってないわね、ヴィクトリア」

「?」


「私にとっての貴方は、ずっと変わらないって言ってるの。それに、ヴィクトリア・アシュレイ――それが、今の貴方の名前でしょ?」


「……うん」


 自信満々に。けれどどこか、少しだけ偉そうに。

 アルフェリアの言葉に、ヴィクトリアは沈黙の後――頬を染めて小さく頷いた。


(……アルフェリアってなんでこう、いつも私が一番欲しい言葉を、簡単に口にするんだろう?)


 裏表がなくて頼りになる。何があっても、彼女だけは信じていいんだと思わせる。

 それはエイルや、自分を前世からずっと待ってくれていたという魔族の三人とは違う、アルフェリアだけの魅力だ。

 アルフェリア以上に心が強いと思う人を、ヴィクトリアはこの世界で誰も知らない。


(アルフェリア、玉の輿狙ってるってずっと言ってるけど、もしいつか結婚したとしても、アルフェリアが旦那さんを娶るっていうほうが、なんだかしっくりくるんだよね……。玉の輿にのれなくても、アルフェリアなら、自分の道は自分で切り開いていけそう)


 優雅にティーカップを傾けて貴婦人を演じるよりも、寧ろ活発に、男女問わず他人にビシバシ指示を出している姿のほうが容易に想像できる。

 そしてその時は、誰よりもアルフェリア自身が、率先して動いているに違いない。

 アルフェリアの心の強さは、ヴィクトリアにとって憧れだった。


 力や性別は関係ないのだ。

 男よりも男前。

 それが、ヴィクトリアにとっての、アルフェリア・ギルヴァなのである。


「……あ。もうすぐ始まるみたい」


 しかし、当のアルフェリアはヴィクトリアの思いなどつゆ知らず、いつものようにマイペースに、舞台の上を指差した。



「皆々様、今日はようこそお越しくださいました」


 ヴィクトリアがまず注目したのは、舞台の上のその男の、面妖な仮面だった。


 白く塗られたおもての目の下に描かれた涙の絵。

 まるでサーカスの道化ピエロのようなめんをつけた男は、深く一礼すると、笑うような声で言った。


「今日は素晴らしい日です。ご覧ください。この空を! ルクス様の予言通り、雲一つ無い青空です。我らが神を称えるに、今日ほど相応しい日はございません」


 雄弁な語り口はまるで盲目な信者のようであり、しかし人々の注目を一身に浴びながら、一切物怖じしない様は、有能な詐欺師のようでもあった。


「皆さんも勿論ご存じでしょう? ルクス様の数々のご偉業を! 疫病の流行をおさえ、この地を守る者たちを我らに教え、正しき道に導いてくださる。今日この日、我らが平穏な日常を過ごせるのは、ひとえに、ルクス様のおかげなのです!」


 男は自らの手を空に掲げると、まるで彼自身がこれから始まる劇の演者のように、大きな声を上げた。


「空から降る雨。あの雨を蓄えて、食べ物を育てる恵みの大地。その地の上に生きる私達は誰もが、ルクス様の恩恵を得ているのです。我らが太陽。空に浮かぶ輝かしいあの光は、ルクス様のお姿そのもの。この地を照らし、全ての人間に惜しげなく愛を与えてくださる。ルクス様こそ、この地上における唯一の神。我らが讃え、崇めるべき御方なのです!」


 ルクスとは、デュアルソレイユで光を意味する言葉だ。


 だがその神を、空に浮かぶ太陽と重ねて讃えることには、ヴィクトリアはいささか疑問が残った。

 なぜならデュアルソレイユにとって太陽は、恵みの象徴であり強すぎる光でもあったからだ。

 セレネにはないその輝きは、デュアルソレイユの一部の地域において、人が住むことができぬほどの日照りの原因でもあった。


「……おっと失礼。私の話は終わりにして、劇の上演を始めましょう。今日この日、この場所に、お集まりの皆様に、楽しい物語をお届けしなくては。どうか席を立たず、最後までお楽しみください」


 男はそう言うと静かに頭を垂れて、再び幕の向こうへと姿を消した。



 物語を語る声が静かに響く。

 舞台の上に現れたのは、化け物の仮面を被り黒いマントを羽織った男だった。

 

【昔々あるところに、一人の恐ろしい魔王がおりました。魔界セレネをおさめていた魔王は、ある日、この世界にはセレネに似たもう一つの世界、人間の世界デュアルソレイユの存在に気づき、その世界で、人間の少女と出会いました。】


 続いて少女。

 花を抱え歌を歌っていた少女は、魔王に気付いて花籠を落とし、顔を青ざめさせた。


『私に近づかないで!』


 しかし自分を拒否するその少女を、残忍な魔王は追いかける。


【魔法という摩訶不思議な力を持ち、空を飛び石を砕く――強大な力を持つ魔族と比べ、魔法の力を持たない人間は、魔王にはまるで赤子のように見えました。人間の少女は、見知らぬ男に男の登場に慌てました。しかし、そこは、無力な少女。魔王の魔法によって、彼女は抵抗むなしく捕まってしまいました】


『うい娘だ。そうだ。ちょうどいい。お前には私の子どもを産んでもらうとしよう』


 魔王はそう言うと、少女を自分のマントの中に隠した。

 少女と魔王は一度、舞台の後ろに下がる。


『おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!』


 それから少しの間があって、子どもの高い鳴き声が響き渡った。


【それから月日が経って、魔王と少女の子どもが生まれました。しかし、なんということでしょう! 強い力を宿した魔王の子は、その身がこの地に生まれる瞬間に、人間の母の命を奪ってしまったのです。不吉の子。そう。その子こそまさに、悪逆非道なる魔王、『ヴィンセント・グレイス』! 魔王と人間の血を継ぐその子どもは、災いの象徴にほかなりませんでした。残虐なる魔王。ヴィンセントの父は母の死を知りましたが、心を痛めることはありませんでした。】


『ああ、女は死んだのか。まあ良い。私の血を引く子さえ産まれればそれで良い』


 赤子の人形を抱えた魔王はそう言うと、亡くなった少女など気にもかけず楽しげに笑った。


『しかし、子を育てるとは面倒だ。よしよし。良いことを思いついたぞ。この子どもは、人間たちに育てさせよう。母殺しの魔族の子どもを、人間たちがどう扱うのか見てみようではないか』


 魔王は子供を籠の中に置くと、そのまま舞台を去って行く。


【そうして、母殺しの魔王の子は、デュアルソレイユで育てられることになったのです。】


 時は少し進み、舞台はヴィンセントの幼少期へと変わる。

 『ヴィンセント』――黒髪の小柄な少年は、舞台の真ん中で子ども達に罵倒をうけていた。


【魔王の子供の名前はヴィンセント・グレイス。深い夜のような黒髪に、血のような赤い瞳をもったその子どもを、人間たちは受け入れようとはしませんでした。】


『黒髪に赤い瞳! お前なんかが、人間でなんかあるもんか!』

『母殺しの魔族め!』

『お前なんか死んでしまえ!』


 子どもの一人が、蹲る黒髪の子供に石を投げる。

 

『痛い!』 


 石はそのまま『ヴィンセント』にぶつかり、舞台にたった一人残された少年は、まるでもがくように、舞台に爪を突き立てた。


『僕が、僕が、一体何をしたっていうんだ! 僕はただ、この世界に生まれただけ。ただ、それだけなのに。どうしてこんなにも嫌われなくてはならない? 僕は母を知らない。父を知らない。――僕は、愛を知らない。誰も僕に、教えてはくれなかった。誰も僕を、愛してはくれなかった。ああ空よ。大空よ。今その全て、闇に覆われてしまえ。この身を焼き尽くすことが出来ぬ太陽なら、この世界から、僕を消すことが出来ぬなら。火よ消えろ。この世界に僕にさえ、光が降ることを教えるな! 愛をうたう人間よ。その愛が僕に与えられないなら、みんな、みんな、消えてしまえ!』


 しかし、その手は何もつかめないまま――少年は、涙を流しながら天を仰いだ。


【母殺しの魔王の子ヴィンセント・グレイスは、生まれてきたことを憎み、父を、そして人間を憎むようになりました。そしてそんな彼のもとに、魔王は現われて言いました。】


『さあ我が子よ。私がお前の父だ。その顔を見せてごらん』


 魔王は、まるで久方ぶりの親子の再会を喜ぶように手を大きく開いた。

 黒髪の少年は、父である魔王に抱きつくように駆け寄って、その心臓に剣を突き立てた。

 そして少年は父のマントを剥ぎ取ると、それを羽織って、狂ったように高い声をあげて笑った。


『あははは。あはははは! 魔王を殺せば、その者が新たな魔王となる。僕が、僕こそが、新しい魔王! 月の世界、夜の世界、セレネの新しい王である! さあ、今こそ、殺戮を始めよう。僕を蔑んだ者、貶め憎んだ者。全ての者に復讐しよう。魔族と人間、全ての生きものを滅ぼそう! 僕の力は言葉の魔法。僕が心から願い口にした言葉は、全てまこととなる!』


「おぎゃあ。おぎゃあ。おぎゃあ!」


 迫真のその演技に、観客席の赤子が声を上げる。

 舞台の上の 『ヴィンセント』はその声を聞いてにっこりと微笑むと、デュアルソレイユの破壊を先導する言葉を告げた。


『さあ魔族たちよ! 人間たちを全て殺せ! 街に火をつけ、全てを燃やせ。こんな世界、すべて灰にしてしまえ!』


『――はい。陛下』

 『ヴィンセント』の命令に、ルーファスに似た髪色の青年が首肯する。


『ああ。あの者たちは褒美を与えろと五月蠅い。あの魔族たちは殺せ』

『――はい。陛下』

 レイモンドに似た青年が、ルーファスの時と同じように、抑揚のない声で頷く。


『人間達など虫と同じだ。いくら殺してもかまわぬ。お前もそう思うだろう?』

『はい。陛下』

 カーライルにどこか似た青年も、『ヴィンセント』の問いに頷く。


 そして三人はまるで糸で操られた人形のように立ち上がると、感情のこもらない声で、全く同じ言葉を口にした。


『『『全ては、魔王陛下の仰せのままに』』』


 舞台はまた移り変わる。

 魔族によって破壊され、燃える町には人々の悲鳴が響く中、幼く可愛らしい少女は一人手を合わせ、神に祈りを捧げた。


『ああ、神よ。我らを守り、導く神よ。どうか哀れな割れた人間に、残虐なる魔王から、人間を守る力を与えてください。私は父を失いました。母を失いました。愛しい友を、家を失いました。もう私には、何もありません。井戸は涸れ、川は汚され、飲み水にも困る有様です。涙を流す為の水さえ、今の私にはありません。希望を語るには、私はあまりに闇を見過ぎてしまいました。それでも神よ。貴方が私を、人間を愛してくださるというならば、我らに光をお与えください。魔王を討ち滅ぼし、再び我らが平穏な日々を送れるように、どうか光をお与えください』


 少女の祈りの後、神官らしき格好をした男が言った。


『皆の者よく聞け。これは、ルクス様からの予言である! 南の神殿に居る金髪の青年は、魔族に対抗しうる力を持っている。やがて彼が魔王を倒すことになるだろう。皆の者、よく聞け。もう恐るることはない。神は我らに味方したのだ!』


 その後、大剣を背負った美しい金髪の青年が現われ、王の前に頭を垂れた。


『我らが神、ルクス様。貴方様の信託により、勇者が馳せ参じました』

『勇者よ。神に愛されし者よ。この世界の平和のために、魔王を殺してくれるか?』

『勿論です。全ては神のお導きのままに。神託の勇者である私に、全てお任せください』


 勇者は自信たっぷりに言った。


『お前ごときに私が倒せるわけがない! 僕はこの世界の魔王なるぞ!』

『いいや、お前はここで死ぬのだ。魔王め。もうお前の好きにはさせない!』


 そして魔王の妨害をくぐり抜け、魔王城にたどりついた勇者は、いつもたやすく魔王を倒した。


『勇者が魔王を倒したぞ!』

『やった! これで、この世界に平和が戻ったのだ!』


 魔王の死を喜ぶ人間の声が響く。そんな中、ルーファスやレイモンド、カーライルに似た青年は、まるで夢から覚めたような声で言った。


『ここは……いったいどこだ?』

『やっとだ! やっと、体の自由が戻った』

『ああやっと、忌まわしき魔王の力から解き放たれたのだ!』


 三人に勇者は尋ねる。


『貴方方はずっと、魔王に操られていたのですか?』


 青年たちは勇者の前に膝をついて言った。


『ありがとうございます。勇者様。私達はずっと、残虐非道なるあの魔王に、無理矢理従わされていたのです』

『しかしその力から解放された今、人間と敵対するつもりはありません』

『全てはあの魔王一人が招いたことなのです。勇者様。どうかこれからは、人の世界と魔族の世界の共存のため、手を取り合って生きていきましょう』


 魔族三人の申し出に、勇者は快く頷いた。


『ああ勿論。可哀想な我が友よ。どうかそなた達が優しい心を持っているなら、魔王によって傷ついた人々を、私とともに癒やして遅れ。その心があるならば、神託の勇者として、私は君たちを受け入れよう』

 

『ありがとう、友よ。勿論だとも。生まれた場所は違っても、人を思う我らの心は同じ。これからは共に生きよう。人間も魔族も、等しく同じ命を宿す者として』


 勇者は青年達に手を差し出し、魔族役の青年たちはそれにこたえ――ハッピーエンドを告げるような楽しげな音楽が、会場には響き渡った。


【そうして強く心優しい魔族は、残虐な魔王の洗脳から解き放たれ、勇者の手を取りました。これにより、今、セレネとデュアルソレイユは、有効的な関係を築いています】


 そして物語の終わりが告げられると、観客たちは立ち上がり、大きな拍手を送った。

 それは遠い日のこと、人間が悪に勝った日のことを、同じように喜ぶように。


 舞台が終わるまで、我慢して座っていたヴィクトリアは、耐えきれずに立ち上がった。


「――ごめん。少しだけ、一人にして」

「ヴィクトリア!」


 どうしようもなく胸が痛かった。

 ヴィクトリアは、自分を呼び止める声に聞こえない振りをして、ただただ走った。

 人々の、幸せそうな笑い声が響く。その声が、今のヴィクトリアには辛かった。


 なぜなら今日この日、人々が讃え喜び思いをはせるのは、五〇〇年前、魔王ヴィンセント・グレイスを滅ぼすために、人間に神託を与えた神を祝うためのものだと知ってしまったからだ。

 人々の笑顔の奥底には、魔王じぶんの死への、人間としての喜びがあると知ってしまったから。


「……わかってる。これは、目を背けちゃいけない出来事だったこと」


 母殺しの混血の魔王ヴィンセント・グレイス。


 それが事実であることは、ヴィクトリア自身がよく理解していた。

 亡くなったヴィンセントの母は明るく美しく、そして優しい人だったらしい。だからこそ、ということもあるのだろう。彼女を愛した人間たちは、ディー・クロウを除いてヴィンセントを受け入れることはなかった。


 『ヴィンセント』は父が嫌いだった。


 自分が望まれずに生まれた存在だとしか思えなかったからこそ、『ヴィンセント』は父を心から憎んでいた。

 父を殺めたときのことは記憶があやふやで、正直良く覚えていない。

 ただ、父の姿を見た瞬間――あの日自分の中で張り詰めていた糸のようなものがプツンと切れて、いつの間にか世界は赤く染まっていた。


 唯一、ヴィンセントの魔法が効かなかったディー・クロウ。

 『ヴィンセント』にとって世界の全てだったその人が亡くなった日から、その人生は狂ってしまった。

 いや、もしかしたら――この世界に産まれた瞬間から、狂っていたのかもしれないけれど。


「……わかってたことじゃない。私がみんなに、嫌われていたことなんて」


 ぽた、ぽたと涙が地面に落ちる。


 それでも、そんな自分でも、受け入れてくれる人がいることを、今のヴィクトリアは知っている。

 アルフェリアだけじゃない。エイルにカーライル、ルーファス、そしてレイモンドだって――。

 今の自分には、セレネにもデュアルソレイユにも、その前世を知りながら、大切にしてくれる人がいる。


「違う。みんなは違う。……みんなは、私のことを、ちゃんと――」


 これは、言葉による『洗脳』なんかじゃない。

 彼らが自分に向けてくれる優しさや愛情は、偽りではないと自分に言い聞かせる。


「……はやく、皆のところに戻らないと」


 ヴィクトリアは、震える自身の手を見てぎゅっと目を瞑った。

 大丈夫だと、ヴィンセントとしての過去を抱えながらも、新しい魔王として生きていけると月の浮かぶあの魔王城で確かに思ったはずなのに。


(私は、アルフェリアとは違う。……こんなにも、こんなにも脆い)


 前向きに、自由に、自分らしく。

 そう生きるのだと決めたのに、昔の自分の影に、今も簡単に心を引きずられてしまう。 

 そんな自分が嫌になる。でも、そんなどうしようもなく脆い自分さえ、愛してくれる人々がいることを今は知っているから。


 ――決して昔のように自ら死を選ぶようなことは、もうしないと決めたのだ。


 ヴィクトリアは服の袖で、ぐいっと涙を拭った。

 そしてアルフェリア達の元に帰ろうとした彼女は、路地で誰かが倒れているのを発見した。


「え?」

 

(なんで女の人が倒れているの?)


「だ、大丈夫ですかっ!?」


 少し暗くなった路地へと入り、ヴィクトリアは彼女の呼吸を確かめようと、彼女の口元に顔を近付け、そしてその首筋に、二つのあとをみつけた。

 それは、不思議な傷跡だった。

 まるで、獣か何かに噛まれたような――。


「そこで何をしている?」


 静かな、それでいてどこか責めるような声だった。

 ヴィクトリアは背後を振り返り、男の姿を見て目を瞬かせた。


(きれいな長い黒髪に、黒曜石みたいな黒い瞳)


 男はただの人間というのは、あまりにも美しい姿をしていた。

 そう。人間というよりは――男は、ヴィクトリアのよく知る三人と似た雰囲気を纏っていた。

 何故だろうか。

 ヴィクトリアはその男を見ていると、不思議と懐かしさのようなものを感じた。


「……どうして、お前は泣いている?」


 男はそう言うと、ヴィクトリアに手を伸ばした。

 ヴィクトリアは動けなかった。そしてまるで氷のような、冷たい男の手が彼女の頬に触れると。

 

「……あ」


 そこで何故か、ヴィクトリアの記憶は途切れた。


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