欲しいのは謝罪ではなく
「体調は、もう大丈夫ですか?」
ヴィクトリアがルーファスのもとを訪れたのは、それから数日経ってのことだった。
寝台の上で本を読んでいたルーファスは、ヴィクトリアの姿を見て本を閉じると、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。傷は塞がっておりますし、陛下のご心配には及びません」
ヴィクトリアは、傷口を押さえて笑うルーファスの手に、自らの手を重ねた。
「……貴方が無事で、本当に良かった」
「……」
ヴィクトリアは血溜まりを思い出して、きゅっと目を瞑った。
あれは――普通の人間なら、死んでもおかしくない血の量だった。
天敵でもある吸血鬼の毒もあったのだ。金色狼という種族でなければ、ルーファスは間違いなく死んでいたことだろう。
ルーファスは、そんなヴィクトリアを見て苦笑いした。
「そんな顔なさらないでください。私はあの時、貴方を守る使命があった。デュアルソレイユの人間を城に招き、セレネで大怪我を負わせるなんて、魔族としても困りますから」
人間の住む太陽の世界デュアルソレイユ。
魔族の住む月の世界セレネ。
異界に招き客人に怪我をおわせたとなれば、それは過去の問題を掘り起こしかねない。
魔族はかつて人間を殺し、デュアルソレイユを我が物にしたと、今でも人間は覚えている。
そして魔王ヴィンセント・グレイスが、魔族にそうさせたのだということも。
「…………」
ヴィクトリアは拳を握りしめた。
いつもなら自分を『陛下』と呼ぶ彼が、なぜ呼ばないのかなんて、考えられるのは一つだけだ。
「……ルーファス」
「……」
「ごめんなさい。ルーファス」
『ルーファス様』
これまでヴィクトリアはずっと、彼のことをそう呼んできた。
そうすることで、自分は彼が求める、ヴィンセントではないと否定してきた。
けれど今の彼を前に――ヴィクトリアは、もう嘘をつくことが出来なかった。
「――…………陛下」
長い沈黙の後、ルーファスはヴィクトリアのことをそう呼んだ。
今、彼にそう呼ばれると、ヴィクトリアは泣き出してしまいそうだった。
「そんな悲しそうな顔、なさらないでください」
ルーファスの手が、そっとヴィクトリアの頬に触れる。
温かくて大きな手に、ヴィクトリアは思わず体をピクリとふるわせた。
「……」
「貴方は謝らなくていい。陛下が謝られる必要なんて、どこにもありません」
向けられた言葉はあまりに優しくて、ヴィクトリアは自分の頬に触れるルーファスの手に触れて、ポロポロと涙をこぼした。
「でも、私が最初から明かしていたら、貴方は怪我なんてしなかった。私が……私が嘘をついたから、貴方は対処法もわからず戦わなきゃいけなかった……っ」
最初から自分がヴィンセントであると明かしていれば、きっとルーファスは傷つかずに済んだのに。
「あの子達が、私を庇おうとしたのも――全部、私が……私が、ちゃんと本当のことを話していたら……っ!」
(私さえ自分を守らずにいたら、みんながこんな目あうことなんてなかった)
「……陛下ッ!」
張り裂けそうなほど胸が痛かった。
涙をこぼして自分を責めるヴィクトリアの体を、ルーファスは優しく抱きしめた。
「る、るーふぁ……」
「お願いですから、そのようにご自分を責められるのはおやめください」
ルーファスがどんな顔をしてその言葉を口にしたのか、ヴィクトリアにはわからなかった。
けれどその声からは、強い意志を彼女は感じた。
それは、彼女が知る子どもの頃の彼とは違う――地に足のついた強さに裏打ちされたものように彼女には思えた。
自分が知らない間に、彼はこんなにも成長しているというのに――自分だけが子どもに戻って、昔に戻りたくないと願い、弱いままでいたいと心の中で叫んでいる。
(ルーファスに陛下と呼ばれるならば――私は、『ヴィンセント』は、強くなくてはいけないのに、ヴィクトリアとして生きていた時間が、私の中から消えてくれない)
「笑ってください。陛下」
「……え?」
『陛下』に戻るのが、ヴィクトリアは本当は怖かった。
けれど自分を思ってくれるルーファスに、自分は『ヴィンセント』ではないと、もう嘘はつきたくはなかった。
「陛下が笑われる姿を見ていると、私は元気になれるんです」
「――……こう?」
ヴィクトリアは、精一杯笑みを作った。
「ありがとうございます。陛下」
その笑顔を見て、ルーファスは花が咲いたように笑った。
「私のために陛下が微笑んでくださるなんて、私にとって、これ以上の褒美などございません」
「ルーファス」
ヴィクトリアは、涙をこらえてルーファスの手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「ありがとう。ルーファス」
「はい。――陛下」
ルーファスの声は、どこまでも甘く優しく、今のヴィクトリアには聞こえた。
◇
「それでは、別れを告げるために一度デュアルソレイユに戻りたいと?」
ルーファスの部屋を後にしたヴィクトリアは、カーライルのもとを訪れていた。
本を手に彼女の話を聞いた彼は、本を閉じると口の端を少し上げた。
「わかりました。貴方がそう望まれるなら、許可しましょう。実に喜ばしい限りです。貴方がこの城に、留まる決意をしてくださるなんて」
「――カーライル」
ルーファスとは違い、明らかに自分を怒らせようとしている前世の幼馴染を、ヴィクトリアは呼び捨てにして睨んだ。
カーライルは、そんなヴィクトリアを見て嬉しそうに笑った。
「その表情、懐かしいですね。『ヴィンセント』――これからはまた、貴方のことをそう呼んでも?」
「……好きなようにすればいい」
吐き捨てるかのようにヴィクトリアは言った。
ひとつ、またひとつ。
カーライルと言葉を交わすたびに、ヴィクトリアは自分の中に重いものが覆い被さるような感覚を覚えていた。
退路を断たれて、鎖で繋がれて。
指の先まで動かせない、そんな毒で侵される。それは、妙な感覚だ。
「貴方の早いお帰りをお待ちしています。ヴィンセント。――護衛は、レイモンドをつけましょうか? 何かと物騒ですし、貴方もまだ本調子ではないようですから」
「護衛なんていらない」
この城に来て、張り巡らされた蜘蛛の糸を断ち切って、利用してきたつもりだった。けれどやはり、そううまくは行かないらしい。
「カーライル」
「はい」
「この私に、護衛が必要とでも?」
「――わかりました。ヴィンセント」
カーライルは、『ヴィンセント』が自分の部屋を去るのを見送ってから、窓の向こう側を眺めた。
見れば空を、雲が覆いつつあった。
黒と白を混ぜたような濁った雲は、陽の光を遮っている。
「……今夜は、雨が振りそうだ」
カーライルはそう呟くと、彼女の話を聞くために、止めていた仕事を再開した。
◇
夜の暗い帳のなかで、その音だけがまるで生きてでもいるかのように、雨音は響いていた。
ひとっこひとり居ない夜の道。
雨音に紛れ、その声は楽しげに弾む。
幼子のような高い声。
それはどこか、歪なものを感じさせる。
「『それでは、種をまきましょう。
とびきり綺麗に血に濡れた。
真っ赤な花が咲くように』」
ざあざあと雨が降る。
声はけらけらという笑い声にかわり――そうしてまた、雨音の中に消えた。
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