狼と一緒に泥落とし

「お離しください陛下っ! 陛下に洗っていただくなんて、そんな恐れ多いこと、私にはできませんっ!」


 キャウン!  


「暴れないで、おとなしくしてください。ルーファス様」


 ヴィクトリアは、自分から逃げようとするルーファスの手を握って言った。


 金色狼の力にも制限がある。

 それは一度姿を変えると、人間に戻るのに時間がかかるというものだ。

 獣の姿であるほうが強いため戦闘には問題が無いが、このままでは元の姿に戻ったときに、泥が乾いて張り付くという悲惨なことになりかねない。

 それでは、せっかくの美男子が台無しだ。


「陛下のお手が汚れてしまいます。私のせいで、陛下を汚すわけには」

「そもそもルーファス様が汚れたのは私のせいじゃないですか。気にせず洗われてください」


「し、しかし……っ!」 


 キャウキャウ!

 ヴィクトリアがルーファスに触れると、普通の声に混じって、獣の声のようなものが混じる。


「逃げちゃだめ、ですよ?」

「陛下……」


 罠の泥を、出来るだけ洗う前に残さないように布を使って吸ってやる。

 ヴィクトリアが彼の体に手を伸ばすと、ルーファスは借りてきた猫のように大人しくなった。

 ついでに顎の下を撫でてやると、彼はクゥンと脱力したような声を漏らした。

 なんだか可愛い。


「ふふふ」

 思わず笑みが溢れる。


「陛下……陛下はひどいです……」

「綺麗綺麗しましょうね。いい子ですからね」

「…………」


 ルーファスは、最早もう何も言わなかった。

 どうやら漸く諦めてくれたらしい。

 彼を洗うための前準備をしながら、ヴィクトリアはほっと胸を撫でおろした。


 冬でなくてよかった、と思う。

 もし冬だったら、流石に狼だといっても、人の時の姿を知るだけに良心が痛んだところだ。

 ヴィクトリアは、ルーファス所有の炎の魔石を、桶に張った水の中に落とした。

 こうすることで、水をお湯にできるのだ。

 リラ・ノアールに大浴場はあるものの、流石に今はこの城の主ではない以上、ヴィクトリアから借りたいとは言いだせなかった。


 水が温まるのを待つ間、ヴィクトリアはカーライルの毛を撫でていた。

 人の姿をしているときは、彼の体を洗うなんてとても出来ないけれど、今の彼はただのもふもふにしか思えない。


「……綺麗になったらお腹触りたい……」


 きっと、気持ちがいいに違いない。

 ヴィクトリアが呟くと、ルーファスはぷるぷる体を震わせた。


「……陛下は」

「うん?」

「陛下は、私を辱められたいのですか……?」

「別にそういうつもりは……」

「お戯れで、私を弄ばないでください……」


 ぐすぐす。

 ルーファスは、無理矢理初めてを奪われた乙女のような顔をした(ようにヴィクトリアは感じた)。


 そんな破廉恥なことをしているつもりはないんだけども。ただもふもふをもふもふしているだけなんだけども。

 ヒト型の時に、「お腹を触らさてほしい」なんて言ったら駄目なのは、ヴィクトリアでも流石にわかる。

 

 ヴィクトリアは首を傾げた。

 金色狼の価値観がよくわからない。

 もしかして、ヒト型の時と獣の姿の時の感覚は同じなんだろうか? いいや、そんなまさか。

 ヴィクトリアは、自分の中に浮かんだ考えを否定した。

 もしそうなら、自分はとんでもない変態行為を彼にしてしまっていることになる。

 

 そうやってゆったり時間を過ごしていると、ヴィクトリアはミゼルカに声を掛けられた。


「おや、ヴィクトリアにルーファス様じゃないか。今日は城を回ると聞いていたけれど、こんなところでどうしたんだい?」

「罠が発動して、床が動いて、私を庇ったルーファス様が泥で汚れてしまって……」


「よくわからないけど、大変だったんだねえ」

「これを使いなさい」


 ガルガはそう言うと、緑色の石鹸を差し出した。


「動物の毛を洗うなら、こちらのほうがいい」

「…………」


 金色狼=動物と断言。

 まるで大人しい犬のようにヴィクトリアに撫でられていたルーファスは、ぴくっとしっぽを動かした。


「ありがとうございます。あればいいなって丁度思っていたんです」


 動物用石鹸が手にはいらなかったので仕方なく人間用の石鹸を使うつもりだったヴィクトリアは、素直に礼を言った。


「ほら、ルーファス様。せっかくきれいな毛並みなんだから、洗わないと駄目ですよ。ガルガさんから専用の石鹸ももらったことですし。そのままだと、もとの姿に戻ったときに目が当てられないことになってしまいます」

「陛下……」


 そっとヴィクトリアが頭を撫でれば、ルーファスは手に頭を擦り付けた。

 その光景を見たミゼルカとガルガは目を瞬かせた。


「金色狼の種族の長ともあろう方が、こんなに溶けきったお顔をされるなんて……。カーライル様といい、どうやったらそんなにお偉方を骨抜きにできるんだい?」


 ぎくっ!

 ヴィクトリアは、ミゼルカから視線をそらした。

 『実は私の前世、ヴィンセント・グレイスなんです』なんて、言えるわけがない。


「これまでお二人に、どれほどの女の子が泣かされてきたことか。恋のお話はよく聞いていたけれど、まさかあのルーファス様やカーライル様を夢中にさせちまう女の子がいたなんて、本当に驚きだよ」


 ミゼルカがしみじみ言えば、ルーファスが身を乗り出して叫んだ。


「そんな話知りません! 私は500年前前から、陛下ひとすわふっ!」


 ヴィクトリアは、秘技『笑って誤魔化す』を行使した。


「な、なんででしょう。あはは……」

 ヴィクトリアは、狼化したルーファスの首に腕を回して押さえつけた。思わず。



☆★☆★☆



「陛下に洗っていただけるなんて、私は世界一の幸せ者だと後世語り継がれることでしょう」


 服を腕まくりして、湯を貼はった盥の中で、石鹸を泡立てて洗ってやる。

 ガルガから貰った動物用石鹸には薬草が練り込まれていた。

 夏の森を思わせる、爽やかな青い草の香りが心地良い。


「目を閉じてくださいね」

「はい。陛下」


 ヴィクトリアがお願いすると、ルーファスは素直に目を閉じた。

 されるがままのルーファスは、図体こそ大きいが可愛いらしい。

 そう――まるで、ぬいぐるみのような可愛さだ。


 しかし、洗い方がまずかったせいか石鹸が目に入ったらしい。ルーファスがぶるっと体を震わせると、石鹸がヴィクトリアの頬に飛んだ。


「きゃっ」

「申し訳ございませんっ!」


 ぺろっ。

 ルーファスはそう言うと、ヴィクトリアの頬についた石鹸を舐めとった。

 ざらりとした生温い舌の感覚に、ヴィクトリアは思わず後退る。

 犬だけど。いや狼だけど。

 中身はルーファスだと思うと、なんだか妙に気恥ずかしい。

 思わず顔に熱が集まる。

 

「も、申し訳ございませんっ!!!」


 ルーファスは、ヴィクトリアが自分から逃げたのを見て慌てた。

 しかも一歩足を前に出したせいで、樽が裏返ってルーファスは泡の溜まったお湯を頭から被った。


「わっ!」

 キャウン!


 ばしゃっという音ともに、人の声と獣の声が響いた。

 いつもの彼からは、想像できない失態だ。

 ルーファスは桶をかぶって少しの間固まってから、ぷるぷる頭を振って桶を落とすと、捨てられた犬のようにヴィクトリアとは距離をとってクウンと鳴いた。

 あまりにも情けない声だった。


「お嫌……でしたよね?」

 否定で尋ねられると心が痛む。


「嫌というわけじゃ……」


 ヴィクトリアは頬を染めたまま、彼から目をそらして答えた。

 そう。ルーファスが人型の時なら絵面的にも問題はあるけれど、今は狼の姿なわけで。

 もふもふとの戯れだと思えば問題はない――はずだ。


 ヴィクトリアの言葉に、ルーファスは尻尾をブンブン振った。

 感極まったらしい彼は、濡れた体のままヴィクトリアにとびついた。


「陛下、陛下っ!! 大好きですっ!!!」

「わっ!!!」


 狼の姿のルーファスに押し倒されて、ヴィクトリアは声を上げた。

 金色狼の金色の毛と青の瞳は美しいとヴィクトリアも思うが、巨大な獣に上に突然飛びかかられるのは、流石に少し怖い。


「る、ルーファス様。そのお姿でこうされるのは少し……」

「では、ヒト型のときであればよろしいのですか?」 


 キュウウン。

 ルーファスが可愛らしい声をあげる。


「いえ、そういう意味では……」


 ヒト型――きっと、今の彼がもとの姿に戻れば、美しい金色の髪と双眸は濡れ、服は肌に張り付いているに違いない。

 普通の女の子なら、一目で悩殺されるに違いない。


 ヴィクトリアは、ルーファスの艶姿を想像して苦笑いした。

 ルーファスのことはかっこいいとは思う。世間的な評価では、間違いなくルーファスはイケメンの部類だということは理解している。

 ただそもそもヴィクトリアは幼い頃のルーファスを知っているわけで、そのせいで立派に成長した彼を見るのは感慨深いというか――人の姿で同じことをされるとなると、少し困るなと乾いた声で笑うことしか出来なかった。


 自分なんかにここまで好意を示してくれるなんて、ルーファスは本当に可愛い子だと思う。

 けれど、それが万が一カーライルに見つかったらと思うとヴィクトリアは少し怖かった。

 カーライルのことだ。

 彼なら自分もルーファスと同じ『触れあい』と称して、自分の嫌がることを徹底的にしてきそうな気がした。

 たとえば、先日の夜会のときの続きとか――。

 ヴィクトリアは、あの夜のことを思い出して頬を染めた。


(……わざわざ手袋を外してキスをするなんて、どうかしてる)


 考え事をしていると、なにか生暖かいものが指を掠めて、ヴィクトリアはびくっと体を跳ねさせた。


「る、ルーファス様!? ……な、なにして」

「陛下が呼びかけても、気づいてくださらなかったので」

「……」


 確かに爪で体に触れられるよりは安全かもしれないけれたけど、舐める必要があったんだろうか? 

 ヴィクトリアは、『かまってかまって』とばかりに、自分をまっすぐに見つめるルーファスに苦笑いした。


 ――そしてとあることを思い出して、彼女は声を上げてルーファスに尋ねた。


「ルーファス様。金色狼の味覚は発達していると聞いたことがあるのですが、私、変な味とかしませんでした?」


 それは、単なる探究心からの問いだったが、ヴィクトリアの問いにルーファスは目を瞬かせて固まってしまい、二人の間に僅かな沈黙がながれた。


「あの、ルーファス様?」

「…………あっ! は、はい。すいませんっ!」

 ルーファスは、はっと我に返ったように頭を下げた。


「そうですね……。陛下は、甘いお味がします。全部食べてしまいたいくらい……。お砂糖みたいで、とても好きです」


 ルーファスはまるで獣のようなことを言った。

 

 砂糖……。

 ルーファスの味覚はよくわからないが、いくら彼とはいえ食べられるのはちょっと怖いなとヴィクトリアは思った。

 ちなみにヴィクトリアの記憶では、金色狼の雄は妻が先に亡くなった場合、心臓を食べる風習があったはずだ。


 魔族の力は基本的に髪や心臓に宿るため、その力を自分の中に受け入れて、一つになるという意味もあるらしい。

 あとは金色狼の、「愛するものとは死んでもずっと一緒にいたいし、髪の毛一本、血の一滴すら、誰にも譲りたくない」という性質故らしいが……。


(ルーファスは可愛いけど、死んでから食べられるのは嫌だな……)


 ヴィクトリアは、彼に舐められた指先を手で擦って、一人そんなことを考えた。

 


「こちらが陛下のお部屋です。カーライル様が、こちらを使うように、と」


 その夜、入浴を終えルーファスに案内された部屋は、ヴィクトリアがよく知る部屋だった。


「ここは……」

 そこは、『ヴィンセント』の寝室だった。


 埃一つない部屋は黒でまとめられている。

 部屋は不気味なほど、『ヴィンセント』存命時代と何一つ変わっていなかった。

 まるで時が、あの日のまま止まっているかのように。

 

 わざわざここを指定してくるなんて、カーライルは何を考えているんだろう?

 ヴィクトリアは、黒い絨毯を踏みながら顔を顰めた。

 何も変わらない。変えることができない。その黒を見ていると、ヴィクトリアはそう言われているような気持ちになった。

 純粋な黒には、他の何色も混じわれない。


 ルーファスに手を引かれ、ヴィクトリアは寝台へと向かった。

 すると一輪の赤い薔薇の花が、天蓋のついた寝台のそばに置かれた棚の上の、透明なガラスのグラスにさしてあった。

 

 葉と棘はそのままの花は、まるでつい先程庭で摘んできたような、みずみずしさを保っている。

 暖かな橙色のランプの灯はガラスに映り、ゆっくりと揺れていた。

 ヴィクトリアにはそれがなぜか、とても美しく見えた。


「一体誰でしょう? 陛下の部屋に飾るなら、もっとちゃんとしたものを飾るべきでしょうに」


 花一輪。

 心配りに欠けたように映るそれを見て、ルーファスは不機嫌そうに顔をしかめた。


「……私には、これで十分です」


 ヴィクトリアは、花を見て微笑んだ。


(でも一体、誰が置いてくれたんだろう?)


 ヴィクトリアがそう思い、部屋の中をよく見てみると、窓が少し開いていて、カーテンが揺れていた。

 この花を置いていった侵入者は、もうここにはいないのだと理解する。


 ヴィクトリアはそっと、その花びらに手を伸ばした。花びらを優しく撫でてやる。

 誰が置いてくれたのかはわからない。

 ただその花は、真っ黒だった自分の世界に差し込む、一筋の光のようにも感じられた。

 赤は嫌いなはずなのに、その赤は少しだけ好きだと思えた。


「おやすみなさい」

「おやすみなさいせ、陛下。どうぞ、温かくしてゆっくり休まれてくださいね」


 ヴィクトリアの眠る準備を整えてから、ルーファスは部屋を出ていった。


 ヴィクトリアは、かつて自分が眠った古びた寝台の上で、一人天蓋を見上げていた。

 部屋には、窓から柔らかな月の光が差し込んでいる。


「……ルーファス」


『陛下、陛下っ!! 大好きですっ!!!』

 ヴィクトリアは、ルーファスの言葉を思い出して微笑んだ。

 好きだと言われて嬉しかったのは、本当に久しぶりのことのように思えた。


「……貴方は本当に、私のことを好きでいてくれているのかな……?」


 疑念は残る。

 けれど、真っ直ぐに気持ちを向けてくれる彼の言葉を、今は信じたいとヴィクトリアは思った。


「だと……嬉しいな……」


(今日は、とても疲れた。もう寝よう。)


 ヴィクトリアが瞼を閉じると、何故か彼の顔が頭に浮かんだ。

 自分が彼の味覚について尋ねたとき、驚いたような彼の顔が。


(あれ? そういえば人間って、金色狼の味覚がするどいことって知ってるんだったっけ……?)


 その疑問は、まどろみの中に溶けて消えた。



 月の名前から名付けられたセレネの夜は、大きな月が世界を照らす。

 人の姿に戻った狼は、愛する人を思って瞳を閉じた。

 けれど、眠ることはできなかった。

 もし眠ってしまったら、今日のことが、まるで夢のように消えてしまいそうで。


 彼女のおかしな言動。金色狼のことを、ただの人間が知ることはありえない。

 それに、カーライルが新しく揃えた本に手を伸ばすなんて――それは、本ばかり読んでいた愛した人が、この世界に帰ってきたらどうするだろうと、人のいない図書館で、何度もルーファスが思い浮かべた光景そのままだった。


『ありがとうございます。ルーファス様』

『ありがとう。ルーファス』


 自分に向けられる言葉も、呼び方も、姿も。

 何一つ同じものはないというのに、本能が自分に告げる。

 彼女こそが、自分をおいて死んでしまった、最愛の人なのだと。

 

「……『陛下』。貴方を、愛しています」

 

 でもルーファスは、好きだとは告げても、愛しているとは告げることが出来なかった。

 もしそう伝えてしまったら、愛する人は今のように心を、触れることを許してはくれなくなってしまうような気がした。


 だったら彼女にとって自分が一番必要な存在となるように、自分なしではいられないと思うくらいに、彼女を甘やかして支えたいと思った。

 甘い甘い砂糖が、やがて人を蝕むように。

 彼女自身が、自分から二度と離れていけなくなるように。


 だが触れてしまえば、ルーファスにはわかってしまった。

 彼女のそばにいればは蝕まれるのは自分のほうだ。そばにいて笑みを向けられるだけで、己の命も魂も、全て捧げてしまいたい衝動にかられてしまう。


「陛下。……いや」


 五〇〇年前、たった一人の魂を探し続けた金色の狼は、月の光に手を翳し、それから彼女の温もりを確かめるように、そっと自分の手のひらに口づけた。

 


「…………ヴィクトリア」



 



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