あなたがおれにくれたもの

 海浜幕張の駅周辺はかなり開発が進んで賑わっており、ショッピングモールに囲まれた駅の南側には幕張メッセやプロ野球千葉ロッテマリーンズの本拠地であるZOZOマリンスタジアムがある。

 表向きは華やかな街と言えよう。

 だが、駅を北口から出て少し離れてみるといい。

 かつて三十年前にはこぞって大手IT企業がこの街にオフィスを移して「日本のシリコンバレー」と呼ばれたこともあった。

 必要以上に広い道幅の歩道。近くにあるようでなかなか近づけない巨大な構造群。

 画一的に整い過ぎて人工的に作られた印象が強い街並み。

 遠きバブルの時代が夢見た未来型都市。人びとが抱いた夢が弾けたあとに残された亡霊の街。それがここ海浜幕張だ。



 強いビル風に吹かれながら、シンヤは人影のないセンターストリートと呼ばれる歩道を駅に向かって歩く。

 少し目にかかる前髪を指で払う。

 途中にあるコンビニの煌々とした明かりを踏み越えた。

 また淋し気な街灯の光だけの夜道に戻る。


 ――相変わらず人がいねえな。


 と言うより。


 ――そもそも生き物の気配がしねえし。


 無機質な空気の中をシンヤは駅へと急ぐと、横断歩道は赤信号だった。

 普段は車も通らないので信号無視が当たり前なのだが、珍しく車が向かって来た。

 シンヤはヘッドライトに目を細める。


「車か……。車に轢かれたら仕事休めるのでは」


 自分の独り言にシンヤは驚いた。何を考えているんだ。だが、妄想はしばらく止まらない。


「いや、腕を骨折するくらいなら……。でも利き手を折らないと、強羅課長なら仕事できるって言うぞ、絶対」


 利き腕を怪我する――。

 まんざらでもないアイディアだな、とシンヤは仕事を休む口実の選択肢のひとつとして頭に留めておいた。



 駅が近くなり、深夜まで営業している飲食店の明かりが目立つようになってきた。

 シンヤは時間を確認するためにスマホを取り出す。


「しまった!」


 二十三時二十四分。

 電車の発車時刻まであと一分しかない。

 海浜幕張駅北口の階段を一気に駆け上がる。改札を抜けても京葉線のホームまでまたさらに長い階段を昇らなければならない。

 一段抜かしでホームに飛び出すのと、電車のドアが閉まるのが同時だった。


「クソが! 次の電車まであと十三分かよ」


 怒りを抑えてベンチに座って時間をつぶすことにした。

 シンヤは二十八歳。まだ体力の衰えを自覚はしていない。

 なぜなら残業で疲れた体でもこうして全力疾走ができているからだ。

 その点に関しては我ながら誇らしい気持ちになる。


 ――まだまだ行けるな。


 中学まで部活で打ち込んでいたサッカーもずいぶんとご無沙汰だが、まだ動ける自信はある。

 体型は中肉中背。外見はひいき目の自己評価では中の上といったところだろう。

 変にプラス思考になっているのは、残業で疲れているせいでアドレナリンが分泌されているからだろうか。

 そんな自己陶酔に浸っていると、まぶたが重くなってきた……。



「きみ、きみ」


 声をかけられてシンヤは崩れ落ちるような格好でベンチで眠っていたことに気づいた。


「あ、あれ……。危うく指パッチンで消える組に入るところだった……」

「……ああ。アベンジャーズの夢でも観ていたのかい。きみは東京方面に向かうんだろ。そろそろ終電じゃないか」

「ヤッベ!」


 シンヤはスマホで時間を確認する。

 二十三時四十分。

 爆睡していたせいで三十八分の電車を逃してしまっていた。

 次は四十五分の電車だ。これを逃すと途中からタクシーで帰ることになる。


「セーフ! ふう」


 シンヤが見上げると、ビジネススーツ姿の老齢にさしかかっていると思しきサラリーマンが立っていた。

 銀縁の眼鏡をかけ、頭頂部は禿げ上がっている小柄な男性。

 昭和か平成か。なんとなく古いタイプの会社員という感じがする。

 サラリーマンがシンヤに黄色と黒のラベルのついた茶色い瓶を差し出した。


「これを飲みなさい。元気がでるよ」

「あ、ありがとうございます」



 シンヤはよく冷えた栄養ドリンクを受け取った。

 サラリーマンはシンヤの隣のベンチに腰をかける。

 側頭部に残った髪につけた整髪料と汗と脂が交じったような匂いが、シンヤの鼻をつく。


 ――これが加齢臭というやつだろうか。


 シンヤは栄養ドリンクのアルミの蓋を捻って開けた。金属が裂ける音が気持ちいい。


「かなり疲れているようだね」

「分かってしまいますか」


 上を向いて、喉に栄養ドリンクを大きく一口流し込んだ。

 わずかでも空腹と喉の渇きが満たされて行くのが心地よい。


「きみからはいい『ZSP』を感じるよ」

「え。ゼ、ゼット……」

「ああ、ごめん。こっちの話だ」

「はあ」


 サラリーマンはなぜか嬉しそうに微笑んでいる。

 結構いい年だから、どこぞの会社の部長クラスだろうか。しかし、人が良さそうなだけで、なんとなく冴えない感じもする。

 とりあえず当たり障りのないところで課長くらいとシンヤは判断した。


「……課長……さん……ですか」


 サラリーマンが大きく目を見開いてシンヤを見た。


 ――やっぱり部長だったのかもしれない。


 だが、シンヤはここは勢いで押すことにした。


「いやあ。うちのプロジェクトもあなたみたいな課長さんだったらよかったなあ」


 シンヤは強羅課長の強面を思い出して身震いする。


「あ、いや……」

「課長さんもずいぶんと遅いお帰りですね」

「いや、わたしは海浜幕張に住んでいてね。いま帰ってきたところだよ」

「え! じゃあ、ぼくを起こすためにわざわざこっちのホームまで来てくれたんですか」


 海浜幕張駅は改札をくぐると、上り下りのホームへは左右に別れて長い階段を昇る構造になっている。

 つまり、反対側のホームに行くには一旦改札まで降りる必要があってかなり面倒であった。


「いや、反対のホームから線路を飛び越えたので簡単だよ」


 サラリーマンの一言にシンヤは固まった。


 ――線路を飛び越えたって。そいつはアメイジングだぜ。


 シンヤは眉をひそめる。


「ぶはは!」


 そして吹き出した。


「課長は面白いですねー。真顔でギャグを言っちゃうんですからー。イケてるっすよー」


 サラリーマン、いやどこぞの会社の課長は前を見据えて何度か頷いた。

 そして左腕から何かを外して、シンヤにそれを差し出した。

 スマートウォッチ――。

 黒い光沢を放つ角が丸まった四センチ四方のディスプレイ。黒いラバーバンドが付いている。


「これは」

「もう必要がないのでね。きみにあげるよ」

「え! いいんですか。あとで変な請求書が届かないでしょうね」


 シンヤは思わずスマートウォッチ受け取っていた。

 その振動に反応したのか、液晶がカラフルに輝いた。

 白い大きな数字で時刻が表示される。

 その下に赤、緑、黄の三つの小さな円が描かれている。それぞれに走行距離、消費カロリー、万歩計だと予想がつくアイコンがついている。 

 かなり高級そうだ。

 シンヤは手にしたスマートウォッチにしばらく見入っていた。


「わたしは今日で定年退職でね」

「そうなんですか……」

「わたしの社会人生活は残業と共にあった。最後の日まで残業だったよ」

「うわあ」


 シンヤの顔は引き攣っていた。この人が自分の将来の姿なのだろうか。絶対に嫌だ。


「そして、わたしのもう一つの仕事からも今日で引退だ」

「さらにバイトまでしてるんですか! 課長」


 課長は優しい笑みを浮かべてシンヤを見つめてから立ち上がった。

 シンヤは課長を見上げる。


「さあ、電車が来るよ。今度は乗り過ごさないようにね」

「お疲れ様でした!」


 シンヤは慌てて立ち上がって頭を下げた。なんとなく課長に敬意の気持ちが湧いて来ていた。


「やめてくれ。わたしはきみの上司じゃない」

「でも、課長ですから」


 課長は一度俯いてから、また顔をあげた。


「わたしは――万年係長だよ」


 人の良い笑み。


「じゃあね。きみならできるよ」


 シンヤは小柄な背中がとぼとぼ歩いて離れて行き、階段を降りて見えなくなるまで見送った。


 ――部長かと思ったら、課長ですらなかったのか……。


 残った栄養ドリンクを一気に飲み干す。

 もらったスマートウォッチを左手首に巻く。


「あなたはおれにとっての理想の課長ですよ」


 シンヤの言葉を書き消すように、大きな音を立てて電車がホームに入って来た。

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