残業マン

伊賀谷

プロローグ

残業マン現る

 闇に染まった空からかすかな銀光を放つ針のような雨が降り注ぐ。

 ぞぶり――。

 がつん――。

 ぞぶり――。

 濡れた柔らかいものをむさぼる音に時折固いものを折る音が交じる。

 闇の中でなにか巨大なものがうごめいていた。

 コンクリートの建物に挟まれた路地。

 片側の建物の四階の窓には明かりがともっており、闇の中にある巨躯きょくを斜め上からほのかに照らし出していた。

 むき出しの内臓を思わせる朱色の肌だが硬そうな質感。わずかに光沢を放っているのは雨に濡れているせいだけではなさそうだ。

 このような生物が存在するのであろうか。

 その異形が地面に伏せてなにかに覆いかぶさっている。

 それは人間であった。ビジネススーツを着た姿から男性のようだ。雨に濡れながら地面に大の字に倒れている。

 異形の生物が地面で仰向けの男の腹に顔を埋めているのだ。

 いや、食っている。

 人間の内臓を喰らっているのだ。

 皮膚と肉を食いちぎり、肋骨を噛み砕いて、内臓を食っている。

 異形の顔は赤い鮮血でぬらぬらと濡れていた。その血もすぐに雨で洗い流される。

 ぞぶり――。

 がつん――。

 ぞぶり――。


 新宿五丁目。

 歌舞伎町から靖国通りを皇居方面へ向かって進む。明治通りとの交差点を過ぎた辺りの左側の区画がそう呼ばれる。

 大通りから奥に入ると、この辺りは新宿にも関わらず閑散としている。この時間の夜はぽつりぽつりと飲み屋やバーがあるだけで人通りは少ない。


 異形の生物が顔をあげた。

 路地の入口に人が立っている。


「『Regainゲイン』」


 男の声が呟いた。

 その男の全身を黒いボディスーツが覆っていた。ところどころ筋肉を強調するように茶色いカラーリングが施されている。

 顔も頭もスーツとつながったマスクで包まれている。

 異形の生物が荒い息を吐きつつ立ち上がった。

 ゴリラか熊のような巨体であるが、動物ではなさそうだ。

 背中のあたりが異様に発達した筋肉であるかのように盛り上がっている。

 手足は節くれだって丸太のように太い。指には巨大な鉤爪。足は膝が前に曲がって突き出ている。四足歩行の大型肉食獣が二足で立ち上がったような姿勢に見える。

 顔も前後に長い。後頭部が膨らんでおり、そこから触手のような器官が十数本背中に垂れ下がっている。


「こんなところにまで『残業獣ざんぎょうじゅう』が現れたか」


 ボディスーツの男が路地をほのかに照らす雑居ビルの四階の明るい窓を見上げる。


「『クラリネット・エージェンシー』。テレビ制作の下請け会社か。従業員たちはずいぶんと重労働をさせられているようだ。それに新宿駅も遠くない。残業ストレスが凝り固まりやすいはず――」


 破砕音とともにボディスーツのそばに立っている電柱が弾けた。

『残業獣』が巨大な鉤爪で、ボディスーツの頭があった高さの電柱の側面を中心近くまで削り取ったのだ。電柱は大きく揺れているが辛うじて折れずに立っている。

 ボディスーツはすでにそこにはいなかった。『残業獣』が元いた位置に立っている。

 二体とも人間の目ではとらえることができないスピードで立ち位置を入れ替わっていた。

 刹那、雨が削りとられた空間が二体が移動した軌跡を描いていた。その空間もすぐに雨に満たされる。

 ボディスーツは腹を食われて内臓がむき出しになっている男性の死体を見下ろした。


「最近この辺りで行方不明者や変死が相次いでいる。おまえの仕業だな」


 ボディスーツの男は顔をあげて『残業獣』を睨み据える。

『残業獣』が動く。大型肉食獣を凌駕するスピード。

 次の瞬間――。

 わずかに横に移動したボディスーツが伸ばした右腕に『残業獣』の首が引っかかる。『残業獣』は喉を絞るような苦鳴くめいとともに、飛びかかった勢いで首を軸に体だけが前に浮き上がった。

『残業獣』は全身を濡らしていた雨粒を前方に飛び散らせながら、空中に仰向けに横たわった形になる。

『残業獣』は体長二メートルはある。体重は二百キロを超えるであろう。一般的な男性体型のボディスーツは腕一本で『残業獣』を持ち上げているが、微動だにしていなかった。

 重力には逆らえず、『残業獣』は水しぶきを立ててアスファルトに落ちた。


「わたしは『残業マン』。おまえたち『残業獣』を狩る者だ」


『残業マン』が右手を振ると、どこからともなく現れた長刀のつかを握っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る