第88話 廃ビルの死闘


「……おい。いつまで寝てるんだ火東。まさか、もうお終いじゃないだろうな?」


 小野涼太が倒れたまま動かなくなってしまった火東に近付き、屈み込む。


「――ッ!涼兄ッ!!」


 次の瞬間、水崎翔子の声が響く。突然起き上がた火東が、左手を振り回したのだ。

 その手には光るモノが握られていた。どうやらそれは、事務仕事で使う鋏ようだ。


 小野の額に、微かに血の筋が滲んだ。


 小野は驚いた顔をしたが、さすが百戦錬磨の猛者だけあって直ぐに体制を立て直して距離を置いた。そこへ鋏を持った火東が、雄叫びを上げながら突進してきた。


 しかし――

 あと数歩で小野と火東がぶつかり合うという処で、翔子が割り込んできた。


 ベキッ!っと嫌な音を立てて翔子の右の正拳突きが鋏を握る左腕を捉えると、辺りに火東の悲痛な叫びが木霊した。


 血が滴たり落ちる翔子の右手には、鈍い光を放つメリケンサックが握られている。



「……最初に武器を手にしたのはお前だから、文句は言わせねえよ?」


 そう言って翔子が、血で真っ赤に染まった拳を突き出すと、左腕を抑えてっていた火東はヨロヨロと立ち上がり、大声を張り上げた。


「馬鹿どもっ!どいつもこいつも、目先の事にばかり気を取られやがって!!

 俺を誰だと思っているんだっ!?県警第一課の課長様だぞ!!俺が課長に就任してから、どれだけ凶悪犯罪が減ったと思ってるんだ!!俺が警察のトップまで上り詰めれば、どれだけの犯罪が減らせたと思ってるんだ!!

 メスガキが数人、死んだからって何だっていうんだ!!安月給で俺が社会に貢献してきた事に比べたら、そんな小っさい事どうでもいいんだよ!

 お前の家族だってそうだ!大儀の犠牲になったんだから、本望だろう!!この馬鹿家族が!!」


 目を血走らせながら、火東が叫んでいる。


 そんな火東の身勝手な叫びを茫然と聞く翔子の耳に、小野の独り言が届いた。


「やはり行方不明になっている女の子達を殺したのか。……狂ってやがる。

 なんで―― どうしてこんな奴が、ヌケヌケと生きてられるんだ、この世の中は」


 その言葉を聞き終わるか終わらないかの内に、翔子は火東に飛び掛っていた。メリケンサックを着けた拳が、容赦なく火東の喉に直撃する。


「その薄汚い口を今直ぐ閉じろ!!火東ぉぉぉ!!

 てめぇ!てめぇぇ!!こんな奴の為に、お父さんとお母さんは、あんなに苦しんで死んだのか!!優樹を……っ!優樹を返せよ、この野郎っ!!

 お前に殺された子たちは、お前の薄汚ねえ欲望を満たす為に産まれてきたんじゃねえぞ!!くたばれクソじじい!今直ぐ、くたばれよ!!」


泣きながら、翔子は火東の顔面を殴り続けた。



 



 ……水崎翔子が、この事件に関わっている事は気が付いていた。


 加害者側なのか、被害者側なのか……


 恐らく後者だろうと、紅葉は考えていた。そしてその事に、如月ユウも気が付いている様子だった。


 だが、小野刑事が関わっている事には気が付けなかった。気が付けなかったばかりか、彼に情報まで伝えていたのだ。そしてそのことが、大切な人達を危険に晒してしまった。


 ……迂闊だったと、言う他ない。

 小野を信頼し過ぎた自分に、怒りが湧いてくる。



 ……だけど、小野さん。


 私達が過ごした時間は、そんなに薄っぺらいものだった?



 紅葉は想う。いくつもの事件を自分と青葉、そして彼とで解決してきた。少なくともその時間の積み重ねは、自分に彼を人として信頼たらしめた。


 その時間を想い、紅葉は唇を噛みしめる。





「酷い、酷すぎるよ…… 女の子たちも、水崎さんも……、これじゃあ、あんまりにも可哀想すぎるよ……」


 そこまでの成り行きを廊下で黙って聞いていたユウ達だったが、耐えきれなくなったいずみが最初に口を開いた。見れば彼女の目蓋からは大粒の涙が流れ、車椅子を握る左手は色が白く変わる程に強く握り締められていた。ユウの手を握る右手も、震えている。


 その言葉を聞いてなのか、それまで黙って事の成り行きを見守っていた紅葉がスッっと部屋の中に入っていく。



「そこまでよ、水崎さん」


 突然、部屋に入ってきた紅葉に気が付き、翔子の動きが止まった。


「黒木……先輩。 ……どうしてココに?」


「紅葉ちゃん――!? 何で君が此処にいるんだ!?」


 紅葉にあからさまな警戒心を表した翔子と、驚きを隠せない小野。

 そんな二人に、紅葉はツカツカと近付いて行った。


「……それ以上は止めておきなさい。あなたの為にならないわ、水崎さん」


 「紅葉ちゃん、来るなっ!こっちに来るんじゃない!」


 小野が叫んでも、その声を無視して紅葉は翔子に近付いて行く。だが、その歩みは二人まで五メートルの距離でピタリと止まった。



「…………来るなと、言っているだろう?」



 呻く様に、呟いた小野の手には拳銃が握られていた。



「……小野さん。何のつもりですか?」


 驚いた顔をした紅葉が、小野を見つめている。通常…… 刑事は、特別な許可が無い限り拳銃は所持出来ないのだ。


「刑事のあなたが、そんな物騒なものを持っていいんですか?」


「悪いが今は、手が離せないんだ。……今の話を聞いていたんだろう?だったら翔子ちゃんの、好きにさせてやってくれないか?」


 小野が、いつになく真剣な眼差しを向けると――


「――駄目です。それ以上は、彼女の為にも、あなたの為にもならないもの」


 それに応えたのは、彼女のひたむきさだった。



「――ッ!分かってくれ紅葉ちゃん!君は――っ!君だけは、絶対に撃ちたくないんだ!!」


 紅葉に銃口を向けたまま、小野の顔に苦しさが滲み出る。


 

 見つめ合ったまま、二人はピクリとも動かなくなった。




「……最初から、その銃で火東を殺すつもりだったんでしょう?小野さん」


 その硬直した空気を壊す様に、ユウが言葉を投げ掛けながら近付いて行く。その後には、いずみと青葉の姿もあった。ユウは銃口から二人を守る様に、小野と二人の間に自分の身を置いた。



「……それとも小野さん、海野うんのさんってお呼びした方がいいですか?」


「……海野?」


 紅葉も、青葉も、いずみも、ユウの口から出た名前に心当たりが無かった。


「あなたは、10年前の被害者である美月さんとお付き合いされていた海野さんですよね? ……すみません。美月さんの記憶の中に、あなたが出てきたんです」


 哀しそうな表情を浮かべながら問うたユウに、 小野は顔を強張らせたまま何も応えようとはしなかった。




「ゾロゾロと……!オカ研の頭のおかしい連中が、勢揃いかよ!」


 そんなギコチナイ場の空気感を、翔子が毒づいた台詞が動かし始める。



「……海野さん、話して頂けますか?皆にも分かる様に!お願いします!」


 そう言ってユウが深々と頭を下げると、海野と呼ばれた男は強張った顔のまま小さな溜息を吐いた。


「……ふう、まいったな。君達は、本当に何でも分かるんだな。……わかった、全部話すよ。 ……そう、僕の旧姓は海野だ。海野涼太。今は訳があって、空手道場の師範でもある義父の姓で小野と名乗っているけどね。

 ……確かに、僕と美月は付き合っていた。当時、入部していたサッカー部で彼女と出逢ったんだ。


 ……美月が事件に巻き込まれたのを知ったのは、約束の場所にいつまでたっても現れない美月を心配して、彼女の家に行った時だった。あの日のことは……」


 そこで話を止め、海野涼太は目を細めた。そしてその端に、光るものを携え――



「……あの日を、一生忘れない」


 一人の男が、秘めていた想いを語り始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る