鯉のいない池のほとりで

美里

鯉のいない池のほとりで

その人とはじめて会ったとき、俺は死のうとしていた。死にたい気分は俺のつま先から頭の先までをすっぽり包んでいて、もうどうにも抵抗のしようがなかった。なにが原因だったかなんて、訊かれても困る。俺はその頃常に死にたかったし、その日はただその波がピークに達したという、それだけの話だ。トリガーがなんだったのかなんて、もう自分にも分からないところまできていた。

 だから俺は、ジーンズのポケットにカッターナイフを入れて、夜の街を徘徊していた。どこで死ぬのが一番いいのか、考えあぐねていたのだ。家で死んだら、母さんが俺の死体を見つけてしまう。それは嫌だった。もともと心が壊れやすい母さんだ。多分、俺の死体なんか見つけた日には、決定的に壊れてしまう。

 夜の街は猥雑な活気にあふれていて、そういうのに慣れていない俺は戸惑ってしまった。死ぬのにちょうどいいような小さな暗がりが、どこにもないように思えたのだ。あんまり長くうろうろしていると、補導されて親に連絡が行きかねない。俺はどうしたらいいのか分からないまま、繁華街を抜けた。すると、その先を少し歩いたところに、ちょうど静かな公園がある事を、ふと思い出した。繁華街の雑踏は、公園を囲む雑木林に遮られて公園の中にまでは届かないはずだ。俺は、ポケットの中のカッターナイフを握りしめ、公園に入った。

 夜の公園はぐるりと外周を街灯に照らされていたけれど、灯りが重たいオレンジ色をしているせいか、さほど明るくはなかった。真ん中に池があって、その周りを囲むみたいにベンチが五つ並んでいる。他には特に遊具もない。ただ、それだけの小さな公園だ。俺以外に人影もない。

 そう思って、一番手前にあるベンチに腰を下した俺は、街灯から離れた池のほとりに、ひとが一人立っていることに気が付いた。こちらに横顔を向ける形で立っているその人を、俺ははじめ、きれいな女のひとだ、と思った。そしてちょっと考えて、違う、このひとはすごくきれいな男のひとなのだ、と思い直した。女の人にしては、その人は背が高かったし、肩幅もあった。身体つきは完全に男のひとなのに、顔だけは女のひとみたいに白く整っている。

 そのひとは、ポケットからしきりになにかを取り出しては、池にまいていた。多分、魚の餌かなにかだ。ただ、俺はこの池には一匹の魚も住んでいないことを知っていた。まだ母さんが元気なころにはよくここに遊びに来ていたし、その頃からこの池は空っぽだった。ただ、水がたまっているだけで、一匹の生命体もいなかった。

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