20. ルーシーを探せ

 ルーシーの様子がおかしいと気づいたのは、中華料理店で会ったときから約2週間後のことだった。


 汗ばむほどの暑さは和らぎ涼しい風が吹き抜ける9月のある日の朝、ルーシーは撮影場所の廃遊園地に珍しく遅刻をしてきた。申し訳なさそうに皆に謝っている彼女の瞼は一晩中泣いていたかのように赤く腫れ、その顔は憔悴して見えた。


 パラソルの下で私にメイクを施しているとき、いつもは緊張をほぐすために明るく語りかけてくる彼女はその日はやけに無口で、私が彼女を元気付けようとかました冗談にも上の空で、まるで意識も思考もこの場所にないかのような虚ろな目をしていた。


「ルーシー、何かあったのかな」


 休憩時間ミアが心配げに尋ねてきた。ダンサーの母によく似た美しい顔立ちで金髪で、夏空のような青い目と透き通った白い肌を持つ彼女は、子役時代そのあまりに無垢で可愛らしい容姿から『連ドラの天使』とマスコミに呼ばれていた。その呼び名とイメージは瞬く間に世間に浸透した。最近のミアはメディアによって勝手に作られたイメージから脱却したいと考えているらしく、このドラマではこれまでの清純な役柄とは違う、レットという勇敢でときに大胆な少女を演じることで新境地を築こうとしている。


 今も小役時代の面影がある彼女は童顔さと小柄さも相まって幼い雰囲気を感じさせるが、内面は同い年とは思えないくらいしっかりしる。いつも冷静で細かい気配りができるけれど、他人には全く気を遣わせない。子役から芸能界で生きていると、知らず知らずのうちに人の気持ちを察する能力に長けるのかもしれない。周りに気を遣いすぎて疲れそうだなと感じながら、一度身についた癖は抜けないだろうとも思う。


「分からない。触れちゃいけないような気がして黙ってたけど」


 ミアの問いかけに答えたあと、あちこちに視線を飛ばしてルーシーの姿を探す。


 休憩時間になるなりルーシーはふらりとどこかに姿を消してしまった。もう戻ってこないんじゃないか。心配が胸を過ぎるたび、ルーシーに限ってそんなことはないと自分に言い聞かせていた。


 私の知る彼女は、仕事に対して大きな情熱を傾けるエネルギッシュな人だった。この仕事以外にも舞台や映画などいろんな場所に出向いては精力的に仕事をこなしていた。人間としてもすごくよく出来た人だった。お人好しでいつも穏やかに笑っていて誰かの悪口を言うこともなく、他人を差別することもせず誰に対しても公平に親切に接する。


 だけど、だから大丈夫だなんて誰に言い切れるんだろう。ルーシーだから何があっても乗り越えられる、立ち直れるだなんて、そんな保証はどこにもない。現にあんなに明るく見えたジョーダンだって失恋の痛手を負って仕事を休んでいるし、今は売れっ子のウミだって過去に病んでいた経験を私に告白した。自分の心の闇なんて誰彼構わず打ち打ち明けられるものじゃない。私が把握しているよりも遥かに多くの人が病んでいるんだと思う。昨日家の近くの道端で友人たちと一緒に手を叩いて大爆笑していた老婦人も、もしかしたら不眠症で睡眠薬を手放せないかもしれない。高級スーツを身に纏い背筋を伸ばして歩くサラリーマンだって、何かの深刻な依存症に悩んでいるかもしれない。病んでいるかどうかは見た目だけでは判断できない。誰だって、どんなに強く見える人だって壊れる可能性はあるのだ。風船のように膨らんだ心が、何かの刺激で破裂することが。


「ちょっとルーシー探してくるわ」


 私は遊園地を飛び出して当て所ももなく走り回った。ルーシーがいそうな場所はどこだ。駐車場に停められた車の中にもいないし、近くの自然公園にもいなかった。念のため、まさかそんなことはないと思いながらも公園の池の周りも探してみた。公園を出たときに雲行きが怪しくなってきて雨がぽうぽつ降り始めた。やがてそれは本降りとなり、傘を持たない私の髪と身体を容赦なく打ち付けた。


 もしこのままルーシーが戻って来なかったら。もしもう二度と会うことができなかったら。彼女が私の冗談にお腹を抱えて笑うのを見ることができなくなったらどうしよう。


「リオ、何してるの?」


 不意に背後から傘が差し出された。振り向くとそこには首を傾げて不思議そうに私を見つめるルーシーがいた。



♦︎



 「実はね、ブルーベルに振られたの」


 遊園地に戻る道すがら、相合傘をしたルーシーは私に打ち明けた。精一杯明るい口調になるように努めているらしい彼女の顔に、やはりいつもの笑顔はない。


「そっか……」


 彼女の様子から何となく予想はついていた。ブルーベルとルーシーに上手くいって欲しいと思って人知れず応援していた私としては、深い落胆をおぼえたことは否めない。


「難しいよね、両想いになるって」


 傘に弾かれる雨とアスファルトに打ち付ける雨水の音が交差して、ルーシーの声がかき消されそうになる。


「……うん」 


「言ってスッキリしたって気持ちもあるんだけど、やっぱ辛いわ」


「そうだよね……」


 まるでうなずくだけの機械になったようだ。私はこんなとき全くの無能だ。ルーシーを探しに行ったはいいものの見つけられずただ雨に打たれただけで、逆に傘を貸してもらったくらいにして、幼馴染への長い片思いの末失恋して傷心している彼女を励ます言葉すら見つけられない。


 ルーシーはまるでどうしようもなく散乱した感情を吐き出すように、昨日のことについて語り始めた。


 その日、ブルーベルが久しぶりにルーシーの家に遊びにやってきた。お互いに多忙でなかなか会う機会がなかったのだが、ブルーベルは憧れのアーティストとコラボすることになったと嬉しそうに話していた。


 この時点ではまだ気持ちを伝える決心がついていない状態だった。だがブルーベルがルーシーに好きな人はいないのか? と尋ねたタイミングで、ここで伝えなければもう二度と伝えられないのではないかという思考が働き、ルーシーは目の前にいる幼馴染の名前を告げた。


「あなただよ、ブルーベル」


 それを聞いたブルーベルはきょとんとした顔のまましばらく硬直していたが、俯いて何度か瞬きをしたあと悲しげな表情を浮かべて言った。


「ごめん、ルーシー。あなたの気持ちには答えられない。あなたは子供の頃から、いじめられてる私をいつも助けてくれてた。あなたはいつも変わらずに愛情深くて温かくて、側にいると安心した。泣いてるときも悩んでいるときもあなたがいたから乗り越えられた。あなたは私にとってなくてはならない人。だからこそ友達でいたい」


 ブルーベルが去ったあとルーシーはしばらく部屋で抜け殻のように呆然としていたが、心のどこかで期待していたブルーベルとの温かな未来が訪れないことを実感した途端涙が溢れて止まらなくなった。


 ルーシーの独白に耳を傾けながら、もしかしたら今日の私は相槌マシーンで正解だったのかもしれないと思い直した。人が誰かに相談をする時というのは自分にとって何か有益なアドバイスをしてもらいたいときと、ただ口を挟まずに黙って聴いてほしい時の2パターンがあって、今回のルーシーの場合は後者のような気がするから。もしルーシーの気持ちが少しでも楽になるなら、私は相槌マシーンにでも心のお掃除ロボにでも何にでもなろう。


 雨がだんだんと小降りになり始めた。


 ルーシーに「リオ、ご飯食べた?」と訊かれて初めて昼食を食べていなかったことに気づいたが、時すでに遅し。あと5分で撮影が始まってしまう。私は慌てて濡れたアスファルトを蹴り、全速力で駆けて遊園地に戻った。この雨が友人の憂鬱な切なさと、私の空腹を全て洗い流してくれることを祈りながら。

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