恋ひ恋ふて。
真崎いみ
第1話 食い込む犬歯
私の犬歯が、彼の首筋の柔い肌に食い込んでいく。
閉店して間もない間接照明だけが灯る薄暗い店内に、玉森蒔乃と水瀬朔司の影が触れあった。
24時の深夜。床のモップがけを終えた朔司の白いワイシャツの裾を、つん、と蒔乃が引っ張るとそれが合図で彼は両手を広げて見せた。蒔乃のアーモンドのように形の良い瞳は大きく揺れて、朔司の姿を映す。瞳に映る朔司は淡く凪ぐように微笑んでいて、おいで、と蒔乃を誘うのだ。
いつもなら行儀が悪いと叱る側の朔司がバーカウンターに腰掛け、長身ながら線の細い蒔乃を軽々と抱き上げて膝に乗せた。向かい合うように座ってしばらく二人、互いの目を覗き込む。光の加減でアンバーブラウンに溶ける虹彩が輝いて、薄ら闇に煌々と浮かび上がった。蒔乃は朔司のワイシャツの首元のボタンを細く長い指で外していく。プツリ、と焦れるようにボタンと布地が離れる度に、蒔乃の気分が高揚していった。一方で朔司はその様子を優しく慈愛に満ちた眼差しで、柔く温かい目色を灯しながら彼女の旋毛を見つめていた。
やがて目当ての柔肌を晒して、蒔乃は唇を寄せる。やわらかい黒猫のような髪の毛が朔司の首をくすぐって、吐息が漏れそうになるのを我慢した。蒔乃はとても敏感に人の気配を感じ取るので、吐息を溜息に捉えてしまうことが多々あった。
唇は温かく、柔らかい。
蒔乃は大きく息を吸い込むと、朔司の首筋に歯を立てた。
「…っ、」
弾力性のある肌がぶつっと破れる音がした。朔司が息を呑む。鈍い痛みを我慢して、蒔乃の髪の毛を梳くように撫でた。彼女の髪の毛はしっとりしていて、手のひらによく馴染むようだった。朔司は指に絡めると、するりと重力に従って落ちていく髪の毛をしばらく堪能する。
ようやく満足したのか蒔乃がそっと顔を上げると、唇の淵が朔司の血で僅かに濡れていた。そのまま自らの舌で舐めとろうとする蒔乃の唇に、朔司は自分の人差し指の腹を押し当てて制止した。
「朔司…さ、」
蒔乃が掠れた声で朔司の名前を呼ぶ前に、彼の手によって口の中にチョコレートが放り込まれる。芳醇な香りと舌に蕩ける食感、そして甘い甘い糖分が蒔乃の口腔内に広がっていく。朔司がいつもポケットに忍ばせている口直しのチョコレートはいつだって美味だった。
鎌倉の住宅街に隠れ家のようにひっそりと喫茶&ダイニングバー『星ノ尾』が存在した。星ノ尾は朔司が営む店、そして城だった。彼は両親から託されたマンション経営の傍らに趣味として店を始めたと言うが、ありがたいことに常連客に恵まれて星ノ尾は意外にも繁盛していた。
昼間は喫茶店、夜間はバーへと姿を変える星ノ尾を供に支えるのは数名のアルバイトと朔司の姪である蒔乃だった。蒔乃は大学の休日ともなると昼に厨房の手伝い、そして夜になればバーテンダーとして働いた。
「玉森さん。シャインマスカットとホワイトショコラ、レアチーズのタルトを二つ。準備をお願いします。」
他校の女子大生のアルバイト、ウエイトレスの飯田が客から入ったオーダーを蒔乃に伝える。はい、と頷いて、蒔乃はメニュー名が書き込まれた伝票表を、朔司のいるバーカウンターの壁に貼った。そして紅茶を淹れている朔司の肩を小さく叩く。首を傾げるように朔司は蒔乃を見、蒔乃は蝶々を模すかのように手話を扱った。彼の耳には生まれつき音が無かった。
『注文が入りました』
そう伝えて伝票を指差すと、朔司はややあと頷いてゆっくりとした動作で作業に入るのだった。朔司の前職はショコラティエだったという。そんな彼の作るチョコレートのお菓子は星ノ尾の名物だ。季節の果物を使い、たっぷりとチョコレートをあしらったタルトは特に人気がある。
本日のタルトのメインはシャインマスカットだ。鉱物のプレナイトをカボションカットにしたかのような果実を、ホワイトショコラを淹れて混ぜたレアチーズクリームが乗せられたタルトにこれでもかと敷き詰める。客に出す前に粉糖をまぶせば、シロップで輝くシャインマスカットがよく映える宝石箱のようなタルトの完成だ。
朔司の手はまるで魔法使いの手だ。じっとその手つきを見つめていると、朔司はその蒔乃の熱視線に気が付いて淡く微笑む。そして、ちょいと手招きをして蒔乃を呼び寄せる
「?」
蒔乃は小首を傾げながら、朔司の元へと歩み寄った。朔司は銀の匙でボウルに余ったチーズクリームをすくい取って、彼女の口元へと運ぶ。蒔乃は小さく口を開けて匙を含み、チーズクリームを舐めとった。チーズのささやかな酸味と柔らかいホワイトショコラの甘みが絶妙なバランスで成り立ち、芳しい香りが鼻に抜けた。
蒔乃は思わず綻ぶ口元を片手で隠す。その様子を見守る朔司は笑って、そして出来上がったタルトの皿を託すのだった。
夜の帳が降りる頃。喫茶店の健全な様子から、星ノ尾は妖艶なバーへと雰囲気を変えた。さなぎが蝶に変わるように蒔乃も姿を変えて、朔司との関係も一転する。
蒔乃は髪の毛を結い上げて、その顔に華やかなメイクを施す。薄く引かれたアイラインは彼女の目の大きさを強調し、カーマインレッドに彩られた唇が艶やかに笑顔に花を添えた。そして長身の蒔乃には白いワイシャツと、黒いベストが引き締まるようによく似合った。
昼間は蒔乃が朔司のお手伝いだが、夜はバーテンダーとして朔司の師匠となった。下戸だというのは朔司で、彼の妹である蒔乃の母親は酒が強かったと言うから、やはり親子の血が勝ったのだろう。
ちりん、と鈴の涼やかな音が鳴り、今日も夜間の星ノ尾に客が訪れる。
「蒔乃ちゃん。今日もおすすめを頼めるかな。」
「かしこまりました。それでしたらー…、」
常連客の老紳士がカウンター席に腰掛けて、蒔乃にオーダーする。蒔乃はその老紳士が好む味を思い出しながら、たまたま店の小さなテレビから古い映画が放送されているのを目にした。1990年にアメリカで発表された映画で、陶芸家にヒロインが主人公に背後から抱かれるように座って二人でろくろを回すシーンが流れていた。
今日はこの映画をモチーフにしよう。
そう決めて、蒔乃はシェーカーを振るのだった。
23時、バーとしてはまだ早い時間帯に星ノ尾はクローズする。周囲が住宅街という環境で夜遅くまでオープンしない方が良いだろうという朔司の配慮だった。
朔司が銅製の看板を下げて、床のモップがけや店内を彩る生花に水やりをする。蒔乃はその間、食器やカクテルグラスの洗い物に励んだ。
刹那、蒔乃の洗剤の泡で濡れた手からカクテルグラスが一つ逃げた。
「あ…、」
床に触れた瞬間にキンッと甲高い音が立ち、薄いガラスが弾けてしまう。蒔乃は小さな溜息を吐き、膝をついてガラス片を拾おうとする。が、蒔乃の異変に気が付いた朔司によって止められた。
『僕が。』
と短く告げて、朔司は散ったガラス片を集めて新聞紙に包む。片付けを終えると、朔司は蒔乃の手を取った。そして一本一本の指を確かめるように診ていく。やがて両の手のひらを確認し終えると、ふと朔司は吐息を漏らした。そのまま蒔乃の手のひらに、くるくると円を描くように文字を書く。手話だと伝わらないニュアンスの会話は直接に肌に書くことが多い。
『良かった。ケガは無いようだね。』
朔司の指は長く骨張っていて、少し乾燥している。ざらりとした感触が肌に咲く時、背筋に快感にも似た震えが立った。
『力加減が難しいのだから、無茶はしないように。』
そのまま蒔乃の頭を優しく撫で、朔司は立ち上がろうとする。蒔乃は彼の手を握って、制止した。
「…痛かったら、良かったのに。」
一滴のインクをバスタブにぽとんと落としたかのような、蒔乃の呟き。
「ねえ。朔司さん。」
蒔乃は朔司の瞳を覗く。朔司のアンバーのような目色に蒔乃の姿が滲む。自分自身と目が合いながら、蒔乃は言葉を紡ぐのだった。
「噛んでもいい?」
微笑むように口角を上げた先に、八重歯が白く輝く。
蒔乃は無痛症を患っていた。
朔司が星ノ尾の戸締まりをしている間、蒔乃は一歩先に出た店先の小路で、夜空を仰いでいた。
四月の夜に桜の花びらが舞い、まるで温かい雪が降るようだった。
「蒔乃。今、上がり?」
自らの名前を呼ぶ声に視線を地上に戻すと、そこには一臣が傍らに自転車を携えて立っていた。蒔乃は頷いて、彼に近づく。
「おみくんも、帰りが今?頑張るね。」
「まーね。展示会、近いし。親父は?」
ざり、と砂利を踏みしめる音が響き二人が振り向くと、朔司が革のキーホルダーがついた鍵をポケットにしまいながら歩み寄るところだった。
一臣の名字は水瀬。朔司の息子だ。蒔乃は水瀬親子の元で、生活を共にしている。
『おかえり。』
朔司の手話に一臣も「ただいま」と手話で応えた。
「帰ろう。途中でコンビニ寄っていい?」
一臣の提案に乗るのは蒔乃だった。
「いいね。アイス食べたい気分。」
「こんな夜更けに食ったら太るぞ。」
まるで姉弟のように仲睦まじい若者二人の後ろを、朔司が見守りながらゆっくりと歩いて行く。
月は猫のように細く笑い、星明かりが白く道を照らす。三人の日常を彩る光は柔らかく、温かだった。
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