第8話 夜のどん帳
お昼休憩でスマホを開いたら、見慣れないアイコン。彼女からのメッセージだった。
その中のある文字列み、目を見開く。やはり彼女も私と同じ症状を持っていた。
その言葉を何度もなぞる。目を閉じて、喜びを噛み締める。
同じものを持った人に会うのはこれが初めてだった。最初に演奏を聴いた時に感じたものは錯覚ではなかった。
今日からあの駅でレッスンしてくれるとの事だったので、仕事が終わって駅に着くだいたいの時間を返信した。
彼女に直接ギターを教えてもらえる。
嬉しすぎて、休憩室の中だというのに顔が崩れてしまう。
それからの仕事中も、彼女との時間の事ばかり考えてしまっていた。
あの駅に着いた。彼女はいつもの場所で、私を待っていた。
財布を開こうとした私を彼女は手で制したが、それでもあの修理費を考えるとお金を出さない選択肢はない。その手に一万円札を握りこませる。
彼女は俯いた。少し顔に赤みが増している。
今よく考えたら、勝手に彼女に触ってしまった。申し訳無さと恥ずかしさでいっぱいになり、私まで下を向いてしまう。
そんな気まずい時間が流れたが、切り替えてレッスンを始めてもらう。
彼女がポケットからチューナーを取り出し、私のギターに付けてくれる。
やってみろという目でそれを差し出してきたので受け取って、6弦から鳴らしてみる。
チューナーの針は左側を指していたので、ペグを反時計回りに回す。前はペグがすごく固かったのに、今は動きが滑らかになっている。彼女が油か何か差してくれたのかな。夜だというのに、ぽかぽかした気持ちに包まれる。彼女の手、温かかったな。
チューナーの針が真ん中を指した。この調子で他の弦も合わせていく。
全ての弦のチューニングを終え、解放弦で鳴らしてみると、これぞギターという音、でも私の好きなこの子の音がした。どうやら今まで弾いていたのはギターではなかったようだ。
前より何倍も響きが良くなっている。気持ちよさに頭が痺れそうになる。
彼女が手書きのリストを渡してきた。曲名とアーティストが書かれていて、知っている曲もあれば知らない名前の曲もある。
普段彼女はこういう音楽を聴いているんだな。その中から、夜のどん帳を指差す。
頷いた彼女から、これまた手書きの楽譜を渡される。タブ譜、だったか数字のついた楽譜だが、その上に書いてあるコードの部分を指差される。まずはコードで弾けという事だろう。
楽譜の右上には各コードの押さえ方が記されており、それを参考にDコードから押さえてみる。
やっぱり押さえやすい。前のギターの状態だったら、余計な力が相当入っていただろう。
A、Gと押さえていき、感覚を覚えたところでコードチェンジに挑んでみる。
これがなかなか上手くいかない。その間も、彼女は見守ってくれていた。それだけで気合いが入る。
1時間ほどそれを続けて、ある程度スムーズにできるようになったところで、次の課題、Bmコードを提示される。
バレーコード、難しいってネットで見た。
それが入ってる曲をリストに入れるあたり、意外とスパルタなのかな。
案の定音は綺麗に鳴らない。
すると彼女がこちらにやってきて、一緒に弦を押さえてくれる。
温かな彼女の手にまたドキドキしそうになる。
意識を戻して、そのまま右手で鳴らしてみる。
きれいな音が鳴った。なるほど。この感覚で。
彼女に教えてもらった手の感覚を思い出してまた押さえてみる。しかし、最初よりはきれいに鳴った弦が増えたがまだコードとしての音ではない。
しばらく格闘してみたがやっぱり上手くいかず、手が攣りそうになる。
そんなタイミングで、彼女が手を叩いた。
今日はもう終わりか。
彼女がスマホを操作して、バレーコードの押さえ方のコツが載ったリンクをいくつか送ってくれる。
そのまま彼女はギターを構え出し、演奏を始めた。
今さっき練習してた曲だ。
跳ねるようなギターの音が彼女の心情を表しているようで、幸せで満たされる。
Bmコードを使わないところだけ一緒に合わせてみる。
なんて気持ちがいいんだ。
彼女の音もすごく美しい。もはや一種の芸術だ。
はやく彼女の音に完璧に合わせられるようになりたい。
そこからいつもの曲順で演奏を始める。
遠巻きではなく、近くで彼女を眺められるなんて、幸せだ。
終電が近くなったので、手を上げて別れる。
こんなに明日が楽しみだと思った事はない。
彼女から送られてきたリンクを穴が開くほど読み込んで、明日に備えた。
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