鏡の前で

 俺が改めて知るのは、竜禅寺美咲という少女の凄さである。

 それは例えば家で。

「あー、くそ。わかんねえ」

 亨のぼやきが耳に届く。

 今日は土曜日の休日。

 俺は亨の家――とは言っても俺と同じようなアパートの一室だが――にお邪魔し、小さなテーブルを囲んでいた。

 テーブルに広げられているのは筆記用具と教材。

 俺と亨は、会社で取得を義務付けられている資格の勉強中であった。

 順調とは言い難いのは亨のぼやきからもわかる通りで、俺もそれは同じであった。

 俺は諦めて首を回し、亨に提案した。

「詰まって来たな。一服するか」

「そうすっか。あー、休みの日まで勉強したくねえんだがなー」

「しょうがねえだろ。まあ、悪いことばかりじゃない。給与にも反映されるしな」

「そうじゃなかったらやってねえわ。幸人、コーヒー淹れるけど飲むか?」

「ああ、ありがとう。頼む」

「了解。テレビでもつけといてくれ」

「おう」

 亨はインスタントもドリップも好きなコーヒー党である。

 豆は挽いたものを使っているが、以前にそろそろ挽くところからやってみようか、と言っていたくらいだ。

 いい趣味のご相伴に預かれて、俺としては嬉しい限りである。

 仄かなコーヒーの香りの漂う中、勝手知ったる、とばかりにテーブルからリモコンを取り上げると、テレビをつけて適当に番組を探していく。

 しかしタイミングが悪いのか、CMばかりが目につく。

 と、化粧品のCMが流れ出した。

 ドレスのような服に身を包んだ女性が切なそうにこちらを見つめてくる。

 その瞳に吸い込まれそうで、ぞくぞくするくらいだった。

 画面は次にその小さな唇を映し出し、手にした口紅がひかれる。

 そうして少し恥ずかしそうに、その女性は首を傾げて問いかけてくる。

「どうかな、今日の私」

 そうして、商品名、メーカーのロゴと続いた。

 ほんの数秒だったのに、動きを止めて見入ってしまった。

 ただのCMにこんなに心を奪われるなど、生きてきたこれまでにないことだった。

「……今の、竜禅寺さんじゃね?」

「……嘘だろっ!?」

 やや呆然とした亨の声が耳に、意識に届くまで大分時間がかかった。

 思わず振り返ってしまった亨の表情は、そう言ったはいいものの半信半疑であった。

「いや、なんとなくだが。見覚えが」

 歯切れが悪い亨は、ドリップを中断してしまっていた。

 俺はそれを尻目に、微かに覚えていた商品名とメーカーを頼りにネットを検索してみた。

 結果はすぐにヒットし、サキの名前が浮かび上がる。

 それどころか、さっきの問いかけのセリフは最近のトレンドワード一位となっており、売り上げも化粧品部門で一位を取っているようだった。

「……合ってる。よくわかったな?」

「びっくりだぜ。……いや、というかなんで幸人がわからねえんだよ?」

「いつものあいつから想像つくかよ」

「まあ、そりゃそうか。幸人からしたら、一番かけ離れて見えるかもな」

 それだけ普段のあいつと接しているという事だろうか。

 その事実に面映ゆくなる。

「亨、とりあえずコーヒー頼む。落ち着きたい」

「ああ、ちょっと待ってろ」

 とは言いつつも、いまいち身が入らず、結局その日の勉強会はぐだぐだな雰囲気で終わってしまったのだった。



 それは例えば会社で。

「サキちゃんラブっす!!」

「うるせえ!」

 今日の昼休みの休憩室は、最初から亨の怒声が飛んだ。

 モデルのサキ信奉者となっている瀬戸の語尾に重ねた形だ。

 熱い声援を遮られた瀬戸は、理解できない面持ちで亨に詰め寄った。

「だって見てくださいよ! こんなサキちゃんを前にして平静でいられますか!?」

「昼休みくらい、落ち着かせろってんだよ!」

「やーやー皆の衆。元気だねー」

 剣呑な気配になりそうな休憩室だというのに、そこに顔を覗かせて身体を滑り込ませた人物がいる。

 俺と亨、瀬戸の上司の滝原たきはら志津しづ課長だった。

 いつも柔和ににこにことしている、SEとしても先輩の女性である。御年は三十五と聞いたことがあるが、それよりは若く見え、あまり貫禄は感じない。

 少しやぼったい印象があり、丸眼鏡とそばかすがそれを助長しているところがある。

 どことなく愛嬌のある、そんな尊敬すべき上司の滝原課長は、休憩室のテーブルに置かれたモデル雑誌の表紙に目を落とした。

 まずい、と雑誌の所有者の瀬戸が表情でそう言うが、滝原課長の態度は変わらなかった。

「あ、サキさんかな? 最近すごい人気のモデルさんだよね」

「知ってます!? いやー、その通りで物凄い人気なんですよ! 今、彼女にしたい女の子ナンバーワンじゃないですかね! かくいう僕も、その一人なんです!」

 その願望に、思わず瀬戸を視線で刺してしまった。視界の片隅に苦笑の亨が映りこみ、咄嗟に抑え込めはしたが。

「うんうん、そうらしいね。でもこの子、彼氏さんいるっていう話じゃなかった?」

「そうなんですよお……!」

 一転、嘆きに拳を震わせる瀬戸。

「でもね、それでも応援したい、見続けたい、という魅力があるんです!」

「おおー、そうなんだね」

「そうなんです! 彼女のポリシーはすごくて、なるべく肌を見せない服装ばかりで、水着なんてもってのほか! 彼氏殿以外に見せてなるものかという慎ましさに溢れ、それを貫き通しているんです!」

「彼氏殿って」

 亨の呆れたような声。

「そんな彼女は、彼氏持ちを公言し始めた他のモデルたちのまさにパイオニア! 常に牽引し続ける、珠玉のアイドルなのです!」

「歌なんて歌ってたか?」

 今度は俺のツッコミが飛ぶ。

「いずれきっとその舞台にも立つものと期待しております!」

「なるほどねー。じゃあわたしもそうしようかな」

 にこにこと。先ほどから変わらぬその笑みに何かを感じ、俺は思わず後ずさろうとする。

「瀬戸くん。三日後期限のあのタスクの進捗、期待して大丈夫なんだよね?」

「……えっ」

 途端に色を失う瀬戸。

 不穏な気配に、亨も視線を逸らして脱出口へ向かおうとする。

「みんな元気が有り余ってるみたいだし、ちょっとぐらい張り切ってもらってもよさそうだね」

 しわ寄せの気配に、俺と亨は脂汗だらけの瀬戸を針の筵で苛んだ。



 それは例えば帰り道で。

「瀬戸め、奢らせてやろうか」

「パワハラだぞ、亨」

「わかってらあ」

 あくまでもにこやかな滝原課長の指揮の元、黙らされた瀬戸ともども、残業に駆り出された俺と亨。

 ようやく目途がついた時、時刻は二十一時を回っていた。

 缶コーヒーの差し入れまでしてくれた滝原課長はまだ残っており、俺たちを見送ってくれた。

 瀬戸は俺たちと同じタイミングで仕事を終えたが、叱られるのが怖いのか挨拶もそこそこに脱兎のごとく逃げて行ったのだった。

 俺は、明日は覚えてろよ、と思いつつ上司の手腕に思いを馳せる。

「しかし滝原課長のおかげで助かった」

「だな。さらっとリスケしてくれてるとか、俺たちじゃできねーわな」

 そうでなければ、更なる仕事量に押しつぶされていただろう。

 それを避けるために色々な苦労を裏でしているはずだが、俺たち部下に見せないところなど頭が下がる思いだ。

 俺もいずれは人を導く立場になるのだろうが、あんな風に柔らかくふるまえるとは到底思えない。

「お、サキちゃん」

 亨の視線の先、ビルが纏うデジタルサイネージには、電子書籍アプリをおすすめするモデル、サキの姿があった。

 ふと視線を落とすと、道行く一人の女性に目が留まる。

「どうした、幸人」

「いや、なんだろ。見覚えが」

 あまりじろじろ見るのも失礼なのですぐに視線を外したが、亨は同じように一瞥して考え込んだ。

 しばらくして、亨は合点がいったかのように頷いた。

 もうサキを映していないデジタルサイネージに目をやると、声を潜める。

「サキちゃんのコーディネートだったな。前になんかの雑誌で見た」

「よく覚えてるな?」

「幸人がそういうのに関心なさすぎなんだよ」

「そういうもんか?」

 あまりにもピンとこない俺に、亨はやや呆れ顔だった。

「予定はまだみたいだが、お前、竜禅寺さんとデートするんだろ? そんな様子で服選びとか大丈夫なのかよ?」

 その指摘に動きを止められてしまった。

 そう、サキ――美咲の影響力、その凄さは日々思い知らされている。

 もちろん服装選びなどはプロが携わっているだろうが、立ち振る舞い、表情の作り方は美咲自身の努力が輝いている。

 俺とのデートを楽しみにしてくれているであろうそんな美咲に対して、今の俺の姿勢はあまりにも怠惰ではないだろうか?

 よほど難しい顔をしてしまったのだろう、亨は俺の肩に手を置いた。

「服、買いに行くか?」

 その頼もしい申し出に、俺は一も二もなく頷いたのだった。



 何とか仕事を片付けて、もぎ取った次の休みの日。

 俺は家から何駅か先のショッピングモールに来ていた。

 内部には多くの店があり、服を探すにはもってこい――とは亨の談だ。

「近くの服屋でよくないか?」

 と首を傾げた俺を、亨はいっそ憐れむような目つきで眺めやって来た。

 ようやく俺のこの姿勢がダメなのだとその無言の圧力に痛感させられ、それ以上の文句はなくここまでやってきた次第だった。

 待ち合わせの場所は、わかりやすいように三階にあるモール唯一の映画館の前。

 そこにその二人組はいた。

 ――撮影か?

 俺の第一印象はそれだった。

 黒基調のクール男子と、キラキラとしたギャル。

 男子は映画館の壁にもたれかかっており、ギャルはそんな男子にもたれかかっている、一目でカップルとわかる組み合わせ。

 そんな二人は明らかに人目を引いており、しかしその存在感には誰も近寄れずにいて、まるでファッション雑誌の表紙のようだった。

 俺が撮影かと思ったのはそれが理由で、二人してスマホをいじっているのがまた今風だった。

 表紙となっていた男子は視線を上げると、俺に気づいて軽く手をあげ――残念そうに目尻を下げた。

 男子の動きに気づいたギャルもまた視線を上げて、こちらは少しびっくりしたようだった。

 俺はその二人――亨と八重垣さんに近づくと、こちらも軽く手をあげた。

「すまん、遅れた」

「いや、それはいいんだけどよ」

 言葉とは裏腹に、亨は微妙な表情を浮かべていた。そうして、そのまま隣の八重垣さんに視線を滑らせる。

 それを受けて、八重垣さんは乾いた笑い声をあげた。

「あはっ。独特なセンスっすね?」

 さすがに、それが誉め言葉ではないことは俺にもわかった。

 改めて亨の姿を見る。

 黒のTシャツ、グレーのパンツ、といった遠目の印象はその通り。

 左手中指にシルバーリングが光り、さりげなく目を引く。

 全体的にシンプル、なのに地味という印象はなく妙に整っている。

 次に八重垣さん。

 ピンクのブラウスは肩が出ていて、下はダメージジーンズ。

 スマホからはじゃらじゃらとアクセサリーが垂れ下がっていて、とても重そうだ。

 派手というよりは、個性が光るその装い。

 まるで対照的な二人なのに、並ぶと違和感がないどころかとてもお似合いで、そう、計算されている、というか。

 自分の魅力をどうやったら最大限に引き出せるか。

 そして、どうやったら相手を引き立てられるか、それらを追求する努力が見えた。

 翻って俺はどうだろうか。

 適当に選んだ白いTシャツにチノパン、努力どころか面倒くささしか見えない。

 俺は恥ずかしくなって頭をかいた。

「いや、面目ない。なんとかしてくれるとありがたい」

「まあ、現状を正しく認識できたならなによりだ」

「張り切った甲斐があったね、ダーリン」

「ああ、ハニー」

 軽くハイタッチを交わす二人。

 どうやら、俺の意識改革を一撃で成すための服装でもあったようだ。

 しかし、今日は亨としか約束していなかったはずだ。

「八重垣さんもありがとう。亨に言われて?」

 返って来るのは輝くようなピースサインだった。

「そうっす。女の子視点も必要っしょ?」

「確かに。面倒をかけるね」

「ふっふー。亨くんとのデートも兼ねてるので、お気遣い無用っ! それに」

 八重垣さんは浮かれ気味に映画館の角を振り返り、両手のひらで指し示した。

「今回は特別ゲストもご招待! うちの妹の、瑠羽るうちゃんでっす!」

「は?」

 戸惑う俺をよそに。

 す、と涼やかにその姿は現れた。

 身長も年の頃も、八重垣さんとほぼ同じ、だろうか。

 金と黒を基調にしたひらひらのドレス、黒い長手袋、長く艶のあるワインレッドの髪、顔の上半分を占めるようなまつげと、大きな青い瞳は恐らくカラーコンタクト。

 確かゴスロリと言われるファッションで、恐ろしくはまっている。

 その装いを、差しかけられたレースの縁取りをされた日傘が完成させていた。

 ショッピングモールにはまるでそぐわないはずなのに、むしろその周囲の方が場違いさを感じて逃げ出してしまいそうな。

 撮影か、と錯覚した亨と八重垣さんをしのぐようなその存在感に、俺は寒気すら覚えた。

 その子は俺の前にしずしずとやってくると、傘を片手にスカートの裾を掴み、膝を軽く曲げて会釈した。

「瑠羽、と申します。どうぞよしなに」

 囁きに近い声なのに、それは狙い過たず届く。そして、つい、とあげられた視線に俺は貫かれた。

 人形のように無機質に、けれどどこか熱を孕み、なのに否定してくるかのような、その視線。

 臆して目をそらしたいはずなのに、奈落の底に引き込まれるかのように外すことはできなかった。

「るーう、硬いかたーい」

 その雰囲気は、瑠羽、という少女に横から無邪気に抱きついた八重垣さんに一蹴された。

「やめて、姉さん」

「うっひゃ可愛い。照れるな照れるなー」

 じろり、とその少女の視線が八重垣さんに逸れる。

 それでようやく俺は、忘れていた呼吸を再開することができた。

「大丈夫か、幸人?」

 苦笑気味の亨。俺はそれに、困惑の表情を返すしかできない。

「すげえ目力だろ。俺も最初は、視線だけで殺されたかと思ったわ」

「……ええと、瑠羽さん、だったか。なんで?」

「なんでここにいるのか、って事で合ってるか? 彼女ひきこもりでな。日干しするために瑠璃ちゃんが引きずり出したんだとよ」

「いや、なんで」

「なんで今日なのか、って事で合ってるか? お姉さんの人間関係に興味があるんだってよ。って、うへえ、睨まれてら」

 辟易とした亨の視線を追うと、八重垣さんに抱きつかれたままの瑠羽さんが、レーザーを放つレンズのような瞳を亨へと向けていた。

「……俺の服選びなんぞに付き合ってもらっていいんだろうか」

「お気になさらず」

 誰に向けてでもない卑屈な呟きは、どうやら瑠羽さんには届いてしまったようである。

 無感情な囁き声は確かに気にしてはいなさそうだが、それを確認しようとした視線は、ふい、と何気なく下げた傘に遮られた。

 嫌われている――という感じでもないが、恥ずかしがっているような素振りでもなさそうだ。

 姉の人間関係が気になる、という話なので人付き合いが苦手、というわけでもない――のか?

 何を考えているのかよくわからない。

 しかし、その存在感は衣装のみならず立ち姿にも表れており、人が意識から消し去ることを許さない、けれど確かな神秘性も併せ持っており――俺の語彙力では、ミステリアス、あたりが表現の限界だった。

 そんな瑠羽さんの雰囲気に八重垣さんはさすがに慣れているようで、その手を取り、逆の手を亨の腕にからませた。

 そうして八重垣さんは意気揚々と宣言。

「さーてメンバーも揃ったことですし。行くぜ寺島さん改造計画っ!」

「おーう」

「お、おお」

 その掛け声に、亨はやる気があるのかないのか軽く拳を突き上げ、俺は戸惑いつつかろうじて返事だけはできた。

 瑠羽さんは合わせたのだろうか、わずかに傘を突き上げた。

「さ、しゅっぱーつっ」

 と、八重垣さんを中心にハイセンス、かつ堂々とした足取りの三人に続く形になる俺。

「……俺の方が場違いなんじゃ?」

 思わず自問してしまう俺だった。



 そうして先導されてたどり着いた店は――なんというか俺が知っている「服屋」ではなかった。

 全体的にキラキラしていて、ハードルが高いというか、入り口に結界でも張られているのか、とにかく普段の俺なら絶対に踏み込めない場所だった。

 なのに亨と八重垣さんは勝手知ったるとばかりに易々とそこに踏み入り、目ざとく物色している。

 どう行動するか決めあぐねている俺の横に、いつのまにか瑠羽さんがいた。

 さすがに店内では邪魔になるとわかっているのか、傘は折り畳み携えていた。

 彼女、瑠羽さんは閉じただけの傘が、忠実な侍従のように見えてしまうような姿勢のよさで、こちらの姿勢まで改められるかのようで気圧される。

 俺が戸惑っていると、無言でシャツの裾を引っ張られた。

 視線は行く先にあるままというのに、その力の入れようは決して強引ではなく、まるで森で出会った妖精が迷い人を導くような優しさだった。

 そうして俺はすんなり店内に導かれ、一通り店内を見て回ったらしき亨と八重垣さんと合流する。

 いつの間にか、裾から彼女の手は離れていた。

「ありがとう」

 俺の感謝に、ふい、と顔がそらされた。

 未だに何を考えているのかはわからないが、決して悪い人ではないのだろう、と思う。

「よし幸人。とりあえず選んでみろよ」

「俺がか?」

 思わず出た抗議に返って来たのは苦笑であった。同じく並んだ苦笑の主が、口を開く。

「まずは今のセンスを確認したいんすよ。そこから修正加えてステップアップっす」

「な、なるほど」

 抜き打ちの小テストをやる、と言われた気分だった。

 これが亨の口から出たなら多少ごねてしまったかもしれないが、せっかく来てくれた八重垣さんに言われては断るなど選択肢にない。

 気を取り直し、身を翻す。

「よし、探してくる」

「その間に、うちはダーリンのを選んであげるねー」

「おお、ありがとよ、ハニー」

 仲の良いやり取りを背に、俺は居心地の悪い店内を歩き出した。

 後を追うかのような衣擦れの音と、仄かな香水。

 見ると、傘を従えた瑠羽さんが、後ろにぴたりとついて来ていた。

「ええと、瑠羽さん?」

 見上げてきた瞳はやはり無機質で、何の感情も見て取れない。

「な、なんでもない」

 その圧に負けた俺は、とりあえずしたいようにさせるのだった。

 そうして、やるだけはやってみたのだが。

「……うん、まあ」

「びみょー」

「なんでだ? 店内の服で合わせたんだぞ?」

 亨と八重垣さんの評価は赤点だった。

 俺は自分の試着した服を見直す。

 グレーのTシャツ、黒のスキニージーンズ。

 鏡に映った自分の姿も悪くないと思っていたのだが。

「なんだろ、サイズのせいか? 覇気がないというか」

「あーわかる。ぎりぎり部屋着って感じ?」

「それだな、悪い意味でリラックスしてる。これからデートって言う緊張感はゼロだわ」

 言われ、改めて自分を見ると、なるほど、と頷かざるを得ない。

 特に「緊張感」の部分は基準から抜け落ちており、その指摘に呻いてしまった。

 しかし二人の評以上に気になるのは瑠羽さんの視線であった。

 いわゆる、ガン見、であろうか。

 呼吸や瞬きも忘れたかのようにこちらを注視してくる様はまるでカメラのようで、落ち着かない気持ちにさせられる。

「それじゃあ、はい次行ってみましょー」

 八重垣さんの号令に、再び服選びを再開する俺。

 そしてやはり、しずしずとついてくる瑠羽さん。

 ――しかし、緊張感、か。

 思えばいつも美咲は俺に挑みかかるようであったが、それは緊張の裏返しであったようにも思う。

 俺はいつしか、それに甘えてしまっていたのかもしれない。

 そう、怠惰な方向へ、惰性の方向へと。

 それではいけないな、と自分を戒めながら選んだ服を試着し、再び二人に挑む。

 選択したのは、上は白のシャツ、インナーはベージュ、ボトムスとしてライトグレーのスラックス。

「……なんか惜しい! 色もまとまりがあるし、変じゃないんだけど、なーんかね」

 その溜めからの第一声は、八重垣さんから放たれた。亨も、歯がゆい、そんな表情をしている。

「幸人らしい誠実さや真面目さが出てていいんだが……なんだ、この違和感?」

「そうだねー。なーんか、隣にミサがいるイメージが湧かないっていうか」

 八重垣さんはしっくりくる表現が思い浮かばないようで、しきりに首を捻っている。

 しかし俺はその八重垣さんの言葉に、まるで電撃が走ったかのような錯覚に襲われた。

 ――俺は何のために服を選んでいるんだ?

 二人の評価のためじゃない。

 美咲とのデートのためのはずだ。

 いつもの美咲を思い出す。

 くるくると変わる表情、いつも全力な姿勢、俺と共にいたいという覚悟を隠そうともしない、そんな彼女。

 だったら、そのデートも俺の想定以上の全力で臨んで来るはずじゃないか。

 不釣り合いだ、不甲斐ない、などと嘆いている場合か、寺島幸人?

 そんな暇はないだろ、考えろ。

 あいつはどんな服装で来る? アクセサリーは? 髪型は?

 それを引き立てるためにはどうすればいい?

 そうやって考えて、せめて服装だけでも釣り合わないと、あいつの彼氏として胸を張れないじゃないか!

 俺は無言で踵を返した。

 ついてくる規則正しい足音が、むしろ高揚を後押しする。

 そうして俺は、美咲と共にあるための服を改めて選び出す。

 上はオフホワイトのシャツ、インナーはグレーでVネック、下はネイビーのパンツ。

 俺は上のシャツの袖を軽くまくった。

 手荷物の中から、念のためにと持ってきていたレザーの腕時計を着け――振り返る。

 そこには、目を見張った亨と八重垣さん、もはや人間型のカメラなのではないか、というほどにこちらを注視してくる瑠羽さん。

「……正直、見違えたわ」

「うっそ。抱かれたいナンバーワンじゃん?」

「おい、ハニー。けどそうなるわな。涼し気でいい感じだし」

「うそうそダーリン。さりげないその時計も、なんか色気あるし」

「聞きたい評価はそうじゃない」

 俺はシャツの胸元と裾を整え、改めて聞く。

「美咲に似合う男か?」

 重要なのはそこだけだ。

 返って来たのは、二対の突き上げられた親指と、満面の笑顔。

 俺は頷くと、振り返って鏡に向き合った。

 その中の俺は、いつもの美咲のように、ちゃんと背筋が伸びて胸を張っていた。

 それに俺は一定の安堵と達成感を得て、元の服装に戻って試着室から出る。

 出迎えたのは残念そうな顔であった。

「魔法が解けちゃった」

「落差すげえな。本当に同一人物かよ」

「それこそ、服の魔力だろ」

 八重垣さん、亨と続く評価に背中が丸まりそうになる。

 反応が変わらないのは瑠羽さんだけであった。ここまで来ると、その姿勢のぶれのなさに感心すら覚える。

「ま、それがわかったなら大収穫だろ。待ってるから買って来いよ」

「ああ」

 亨が言うそれ、とは「服の魔力」の事だろう。確かに、と痛感するばかりだ。

 俺はそんな魔力のもとを抱えて、歩き出そうとする。

 そこでふと、しっとりとした感触に手首を抑えられた。

 見ると、瑠羽さんのレースの黒手袋に包まれた手が伸びて来ていた。

 次いで、その指は服の値札を指さす。

 今気づいたが、いつも俺が買うような服とはまさに桁違いだった。

 が、それを見ても高いとは思わず、むしろ笑みがこぼれる。

「心配してくれた? ああ、確かに高いかもな。けど、俺の好きな女の子はこれと比べ物にならない努力をしてるしな。負けてられないよ」

 なにやら、瑠羽さんの動きが止まる。ぎこちなくその大きな瞳が閉じられ、軽く手を振られる。

 行って来い、という事のようだ。

 俺がレジに向かい戻ってくると、そこにいるのは亨だけだった。

「あれ、八重垣さんと瑠羽さんは?」

「急用ができたってよ。幸人によろしく伝えるように言われたわ」

「そうなのか。何かお礼をしたかったんだけどな」

「その分も俺にすればよくね?」

「いいのかよ。それ、お前が後で責められるパターンだろ」

「それもそうか」

 亨は男臭く笑い、俺もそれに笑みを返す。

「まあ、確かにお前にも何かしなきゃな。ありがとう、今日は助かった」

「どういたしましてだぜ。いや、お前元々センスはあったはずなんだよな、錆付いてただけで。メンテ、大分さぼってたもんなー?」

「言うなよ。知ってんだろ、事情」

「まあな。だから俺は、ちょいと油を注しただけだってこと。けど、どうしてもってんなら、ぶらつこうぜ? なんか気になるもんがあったら奢ってくれよ」

「いいけどよ。今の俺とお前で並ぶと、大分恥ずかしいんだが?」

「教訓にはいいだろ。せいぜいその身に刻めや」

「もうとっくにズタズタだよ」

 そうして、俺たちは男二人寂しく、ショッピングモールのあちこちを冷かすのだった。

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