奴隷は主人を愛するが故にその首に手をかけた。

午前零時

ここは壁のなか

 一人の奴隷が狭く不潔な寝床で耳を澄ませていた。

 農園での力仕事は容赦なく身体を痛めつけ、気を抜けば意識を手放しそうになる。

 だが、その奴隷は血が出そうになるほど拳を握りしめている。


 微かだが、風に乗って音楽が耳にまで届いた。

 それは知らぬ言葉の知らぬ調べ。だが、どうしようもなく心惹かれたのだ。

 仲間に頼み込み、夜風が吹き込む壁側で寝ようとするほどに。


 寒さで震えてきた肩を抱きながら、耳を傾け続けた。

 目を瞑り、旋律に身をゆだねる。


 ゆったりとしたリズムが刻まれれば、奴隷は遥かな草原に居た。

 重ねるようなビートの中では、奴隷は森の狩人であった。

 

 奴隷はこの時だけは自由とうものを理解できる気がした。

 その時々で、戦士にも猟師にもなれるのだから。


 夢の中で自由になれた。

 鎖も鞭も知らずにいられる。

 だから、奴隷はこの調べの中で自由人として眠るのだった。

 太陽に追われるその時まで。

 

 目を瞑る。

 息をする。


「おい、あんた」

  

 奴隷は自分に話しかけているとは思いたくなかった。

 だから、目は瞑ったまま。


「あんただよ、耳欠け。何だって古株の癖してこんな所で寝るんだ」

「……明日も早いんだ。寝かしてくれ」


 声を掛けていたのはまだ若い、ここに来て日も浅い奴隷だった。

 奴隷はこの男のことを今まで何となしに避けていた。

 自らがとうの昔に失くしたものを持っているように思えたからだ。


 奴隷は少し振り返って男の足元を見た。木枷が嵌めてあった。

 聞いたところによれば、管理人に無礼を働いたと聞いている。

 その後、公衆の前で鞭に撃たれ、事あるごとに殴られているようだ。


「そろそろ、馬鹿な真似はよしたらどうだ。そのうち、鉱山送りにされるぞ」

「嫌なこった。俺は奴隷でいる気はない」

「お前はもう奴隷だ」

 

 農園の奴隷たちはまだましなものだと奴隷たちは考えていた。

 事実、落石や湧水の危険が伴う鉱山での過酷な労働と比べればそうだろう。


「あんたはそうかもな。だが、俺は違う。俺は戦士さ」

「……」


 男の瞳は熱に浮かされたようだった。

 身体のあちこちに生傷を作りながらも、その精神は枷の外にあるらしい。


「何をしようしているかは知らないが。よそでやってくれないか」

「ま、いいさ。五日後だ耳欠け……それだけ、覚えておいてくれ」


 奴隷は何も考えたくなかった。

 今は、夢も見たくはなかった。

 奴隷は眠れなかった。


 夜を明かし、太陽が昇る頃に奴隷たちも動き出す。

 農園の管理人が奴隷小屋の扉を開けると、それぞれに道具を渡していく。


 「さっさと歩け」


 前で昨晩の男が管理人から蹴りを入れられていた。

 枷のせいで踏ん張りなど効くはずもなく、顔から地面に倒れてしまう。


 鞭打ちの日からほとんど毎朝繰り返されている行事だ。

 人はああやって奴隷を従わせようとする。

 一人の身体に傷をつけることで、何十人もの精神を鎖に繋ぐ。


 儀式がひとしきり終わった後で男の枷が外され、手押し車を渡された。

 男はそれを傷ついた身体で押しながら離れていく。


 途中で男がこちらに振り向き、不敵に笑って見せている。

 男の戦の中に居るのだろうか。


「次だ。さっさと来い」

 

 呼ばれた奴隷は急いで管理人の所にまで向かう。

 渡されたのは研ぎ石や小刀に木槌などが入った道具箱だった。


 奴隷の仕事は道具の補修係。

 それは奴隷が生まれながらの奴隷であったからこそ任されたのだろう。

 管理人はいつものように道具一式を渡すと、軽く耳打ちする。


「仕事場はいつもの場所だ昼までに終わらせろ」

「はい、勿論でございます」

「よし、行け」


 奴隷はいつもの仕事場に向かった。

 農園の片隅、屋敷のほど近く。靴や鎌が乱雑に置かれた茣蓙ござと粗末なテント。

 それが奴隷の仕事場であった。農園の中では最も上等な部類の仕事だろう。

 日差しの下で日中で過ごすことがなければ、管理人たちの目もほとんどない。

 それに、幾つかの役得もある。


 奴隷が補修しなければならない道具の横に麻のの束があった。

 これが昼までに全て終わらせなければならない仕事だ。


 麻靴作り。


 奴隷は仕事にとりかかった。

 棒と板を使って靴の底を次々と編んでいく。十年以上続けている作業だ。

 そこらの職人も顔負けな速度の手際で、靴が形になる。


 あっという間に一足二足と編み上がって、靴の山を出来上がる。

 置いてあった麻はどんどんと減り、半分ほどになった所で手を止めた。


 ちょうど今朝の管理人がこちらに歩いて来た。


「どうだ。調子は」

「はい、おかげさまで補修は済んでおります」

「どれ、新品同様だ……それで」


 これも何年も変わらない。


「ええ、補修用の麻が足りなくなりそうなのですが……」

「後で採りに来い。用意しておく」


 それだけ言うと、管理人は踵を返していった。

 仕事の続きだ。


 奴隷は麻靴を袋に包み、それを棒に括りつけて背負う。

 場所もいつも通り。


 麦わら帽子を被ると物置きまで向かった。

 道中で他の奴隷と管理人とすれ違ったが誰も気にしない。

 これがいつものことだから。


 物置きは森と農園の境目にあった。

 ちょうど家畜の管理を任されている奴隷が豚を放っているのが見える。

 冬至の祭りまではまだあるが、あの様子だと期待できるものだろう。


 奴隷は物置きに背を預けるとドングリを貪る豚を眺めながら待つ。

 冬の前にはこうやって豚を肥えさせる。

 冬越しの食料づくりのためであるのだが、豚はそれを知っているのだろうか。

 ドングリをたらふく食べさせた豚は冬のうちに供されるというのに。

 

 管理人がようやく着いたようだ。

 巻き煙草をふかしながら、にやついた顔で近づいてくる。


「おう、待たせたな」

「いえいえ、私も急いで来た所でしいて。息を整える良い暇でございました」

「そうかい。さ、出しな」

「こちらでです」


 奴隷が差し出した袋を受け取ると、管理人は煙を吐きながら中を改める。

 無表情を装ってはいるが、明らかに上機嫌だ。

 管理人は麻靴を一足自分で履いて具合を確かめる。

 満足したのか、残りを鞄委入れる。


「それで……どうでしょうか」

「問題ない。ご苦労さん、行っていいぞ」

「それは、ええ。一足一足手ずから丹念に編んだもので御座いますので・・・・・」


「──ったく、しょうがねえな。ほらっ、くれてやるよ」


 管理人は小さな包みを地面に落とした、

 奴隷はそれに浅ましく這いより、懐に収める。


「次いでだ。手を出せ。これも恵んでやる」

「はい、ありがとうごじます」


 奴隷は地に座り下を見たまま、手を皿にして吸いかけの煙草を受け取った。

 火傷の痛みを堪えて煙草を右手に持ち、見せるように吸う。


 煙を大きく吸い、うっとりするように吐き出す。

 それを見て、管理人はあざける様に笑っていた。


「じゃあな、次も頼むぜ」

「勿論です。お任せください」 


 奴隷は足音が聞こえなくなるまで顔を上げない。

 人は奴隷に首輪と枷を食めたがるものだ。鞭を打ち、殴り付けてなお恐れる。

 だから、こうして首輪と枷を見せつけるのだった。


 奴隷は立ち上がって汚れを払うと、受け取った包みを確かめる。

 中にあったのは焼き豚のサンドイッチだった。それが二つ。

 奴隷はそれを再び懐に収めると、森を見た。


 その方角には豚たちが放たれていない。

 奴隷は森の中に歩いて行った。


 奴隷の逃亡はそこまで珍しいものではない。

 そして、そのほとんどは数日で見つかるか帰って来る。

 農園の外に出たって、そこは奴隷の故郷ではない。町に行こうが、村に行こうが、外で人に見つかった逃亡奴隷の末路は一つだけだ。


 だから、逃亡奴隷は農園からはそう離れられない。

 他の奴隷から物資を受け取れる距離に留まることで、精一杯だ。


 奴隷がしばらく歩いた頃、大きな樹の木陰に着いた。

 そこには老いた奴隷が一人で眠りこけている。


 しわがれ、瘦せこけた身体を大樹に預けて昼寝をしている。


「爺さん、俺だ。生きているか」

「んあ。坊か……悪いな」


 奴隷は老人にさっき受け取ったサンドイッチを含めた食料や服を渡す。

 老人がそれを口に運ぶのを見て、奴隷もその場に座った。


「爺さん……今日で何日になる?」

「十日だな」


 老人は水筒の水で喉を潤す。


「そうだ、煙草は要るか。さっき貰ったんだが」

「要らんわ。そんなものっ」


 少しせき込みながら答えた。


「自由ってのはどんな気分だ」

「……坊が思っているほど大層な物じゃないさ。そうだな、空気みたいなものだ」

「空気……」


 老人は空を見上げた。


「あって当然のものだが、無くては生きていられないもの」

「……」

「ある筈なんだが。空気みたいに捉えようのないもの。いま、自分の手の中にあるかどうかも分からない」


 この老人がいま何を見ているのか、奴隷には分からなかった。

 生まれながらの奴隷には。


「いまはきっとこの手にあるさ。あいつらに指図されずに済んでいるんだからな」

「そうか……それで、どうする」

「もう。十分さ」


 老人はそう言うと。奴隷に何かを押し付けるように渡した。


「分かった。次の奴にはそう言っておく」

「丈夫なのを頼むぞ。途中で切れちゃ敵わない」

「分かった。任せてくれ」


 そう言うと奴隷は立ち上がり、来た道を戻ろうとする。


「坊っ、お前だって自由さ」


 荷物の多くを置いて来たというのに、奴隷の足取りは行きよりも重くなっていた。

 奴隷は物置きにまで戻ると、そこに置いてあった麻の束を抱える。

 本来の仕事はほとんど終わっていないのだから、急がなくてならない。


 奴隷が仕事場に戻れたのは昼をとうに過ぎた頃だった。

 しかも、茣蓙には朝よりも道具が増えている。


 切れ味の悪くなった鎌を一つ一つ研ぎ、壊れた靴の穴を塞いでいった。

 靴の幾つかは前もって作っておいたものと取り換え、道具類を布で磨く。


 仕事の目途がたった頃、奴隷は懐から作りかけの笛を取り出す。

 冬至の祭りにはあの老人が笛で故郷の音を奏でていた。


 小刀で笛に穴を空け、吹き口を広げる。

 太陽に翳して形を見て、息を小さく吹いて音を聞く。


 しばらくして、笛がらしくなってきた頃。

 奴隷に人影が差した。


「これは申し訳ございません。補修は大方済んでおりますので」

「ふふふ」


 奴隷の前に立っていたのは管理人ではなく、主人一家の一人娘だった。

 娘は奴隷の隣に座ると、その手元を覗き見た。


「これは何ですか?」

「いえ、これは何ら大層なものではなく」


 奴隷は急いで茣蓙から地べたに居直ると、娘との間に出来たばかりの笛を置いた。

 そのまま、顔は地につけるようにして続ける。


「冬至の祭のためのものでございます」

「まあ、冬至に祭りがあるのですか」


 娘は無邪気に笑っている。


「はい、旦那様方のご厚意のお陰で年の恵みを祈り楽しむことが出来ております」

「素敵ね。どんな曲を吹くのですか?」

「まだわたくしは未熟ですので、お嬢様のお耳汚しでございますれば……」


 娘は笛を手に取り、少し残念そうにしている。


「そうですか、ぜひとも聞いてみたいのですが」

「どうか、平にご容赦を」


 慌ただしく近づいてくる足音が一つあった。


「これは、お嬢様っ。いかが致しましたか」

「いえ」


 管理人は奴隷と娘の間に割って入ると、猫なで声で尋ねた。


「この奴隷が何かお嬢様にご無礼を働きましたか」

「そうではないのです。ただ笛を……」

「笛?」


 管理人は娘の手にある笛を見た後、睨め付けるように奴隷を見た。

 奴隷は顔を地に付けたまま言う。


「私がお作りしたの笛でございます」

「ん?いや……はい、そうなのです。これは私めが作らせたものなのです」

「え、でも」


 管理人は傅く。


「音楽に関心を寄せられているお嬢様の為になればと、拙いものではありますがお送りしようとこの奴隷に作らせたのです」

「そうだったのですか。本当に?」


 まくしたてる管理人に少し圧倒された様子の娘は心細そうに奴隷を見た。

 笛を握る手に少し力がこもっている。


「おい、お答えしろ」

「はい、まだ試作の一つではございますが、お気に召したのならお納め頂けると、」

「──そうなのです。この奴隷は手先が中々に器用でして、このような仕事を任せられているのです」


 奴隷は娘から隠れるように管理人の後ろに下がった。

 

「そうですか。では、受け取らせてもらいます。お二人には感謝を」

「いえいえ、私めなどにはもったいないお言葉でございます」


 娘は屋敷に戻り、その場には管理人と奴隷が残された。


「お前な仕事中に勝手な真似を。俺がとりなしたから良かったものを、本来なら鞭打ちでは済まんところだぞ」

「申し訳ございません」

「まあ、いい……だが、お嬢様が何かご入用ならこれからは俺の名前でお渡ししろ」

「は、かしこまりました」


 管理人は言っていることとは裏腹に上機嫌であった。

 奴隷は頭を伏せたまま去っていく管理人を見送り、時間をかけて頭を上げる。


 今日の仕事はこれで終わりだった。

 奴隷は道具一式を箱にまとめると、奴隷小屋に戻っていく。


 既に何人かの奴隷たちが小屋の前の焚火に集まっていた。

 奴隷も管理人に道具を返すと、その輪に入る。


「家畜番はもう帰っているか」

「いや、まだだな。どうした?」

「ああ、爺さんのことだ」


 他の奴隷たちも少し顔が陰った。

 喧騒も少し、止む。


「あの爺様はどうだ。元気そうだったか」

「ああ」

「そうか、ならいいんだ」


 奴隷はバチバチと焚火が立てる音を聞きながら、空を見る。

 そこには僅かに欠けた月があった。


「満月まで、あと四日か……」

「耳欠け。アンタも満月を待っているのか」

「分からない」


 その時、鍋を鳴らす音と歓声が聞こえてきた。

 奴隷の飯時の合図だ。


 飯係の奴隷が鍋を持って歩き、奴隷たちの手元の木皿にどろどろとした粥をよそっていく。

 味はひどいものだが、栄養は申し分ない。

 奴隷たちはそんな粥を手で口に運び、かき込む。奴隷の食事の時間は短い、


 食べ終わった奴隷から籠に木皿を放り込んで、小屋に入っていく。

 奴隷の寝床はいつも通りの壁沿い、そこで、いつも通りに耳を澄ます。


 今日の音色は今までとは違うものだった。

 所々でかすれ、音もまったく安定しない。


 だが、奴隷にとっては良く親しんだ音。冬の夜の音色だった。

 良い夢が見られそうな心地の中で、奴隷は早々に意識を手放すことにした。


 夢の中で奴隷は森の中に居た。大樹の木陰で娘と二人、隣り合って座っていた。

 森に耳を傾けながら多くを話し、大いに笑い、笛を吹く。


 その音色は遠くに響き、冬の調べが返って来る。

 手をつなぎ、肩を寄せ、互いの音に耳を澄ます。


 この森には二人以外は誰も居ない。

 何も見られず、何も言われない、


 奴隷は自由を感じていた、


「おい、起きろよ。ねぼすけ。もう朝だぜ」

「……」

「睨むなよ、寝起きの悪い奴だな」

「お前は今も自由なのか……奴隷じゃないと思っているのか」

「ああ?当たり前だろ、こんな枷で縛られてたまるかってんだ」

「そうか、少しお前が羨ましいよ」


 その日も儀式は行われていた。

 あの男は見せしめに殴られ続けている。

 だが、ここに居る全員は分かっていた。

 首輪だろうが、鞭だろうがあの男から自由を奪えはしないことを。


 男の瞳の炎が奴隷たちに燃え移っていく。

 誰かは拳を握りしめている。誰かは砕ける程に歯を噛みしめている。

 自由を求める心を、抑えられない報復心を全員がたぎらせている。


 満月の夜に。奴隷たちの心にはそう浮かんだ。


 奴隷は自分の道具を受け取ると、手押し車を押している男に近付く。

 周りに聞こえないように小さく言った。

 

「森の近くの物置きに鎌と鋤を数十本隠してある」

「あんた……」

「満月の夜に、自由を」

「ああ、自由を」


 奴隷は自由を求めることを決めたのだった。


 その日も何ら気取られないように、仕事は完璧に行う。

 管理人たちには媚びへつらいながら、道具を修繕していく。


 奴隷にも心残りが無いわけではなかった。

 娘のことが気がかりではあった。


 奴隷は仕事の合間に笛をもう一つ作り始める。それを、合図にするために。

 途中で、管理人に見つかるが止められることわなかった。


 小刀で木を削る。老人に習った通りに笛を作る。

 笛はすぐに形になった。これは形だけのものでよいのだから。


 しばらくして、昨日と同じ様に娘が現れた。

 

「また、笛を作ったのですね。」

「はい、私も冬至に向けて笛の練習をしなければなりませんので」


 娘は目に見えて瞳を輝かせた。懐に入れていた笛を取り出す。


「実はですね。わたしも昨晩この笛を吹いてみたんです」

「はい、存じております。風に乗って私の耳にまで届いてまいりました」

「えっ、そうだったのですか」


 娘は顔を少し赤らめ、俯きがちに言う。

 その手は胸の前で強く握られたていた。


「ずるいです。貴方ばっかり……その、わたしも。えと、聞きたいです」

「それは……いまばかりはご容赦ください。旦那様に叱られてしまいます」

「だ、大丈夫です。わたしがお父様に、」


 奴隷は後ずさると頭を地につけるように請い願う。


「──どうか、おやめください。それこそ、お叱りを受けかねません……それでは、今日の夕暮れ。そこの小屋でお待ちしております」

「それは」

「そこでなら、私の拙い笛でもよろしければお聞かせいたします」


 娘は益々赤くした顔で小さく何度もうなづくと、去り際に小さく『はい』と残して屋敷に戻っていった。

 奴隷はそれを手で笛を弄びながら見送った。


 仕事の終わりに道具を管理人に返しに戻ったとき、ちょうど家畜番とすれ違った。


「耳欠け、爺様からの伝言だ。色々世話になった。と、笛を練習しろ。だってさ」

「……」

「ちゃんと伝えたからな。じゃあな」


 奴隷は一度だけ森を見た。その方角から吹く風は奴隷に懐かしい音色を運ぶ。

 その音を背に、小屋の方まで歩いて行った。


 奴隷は誰にも見られないように注意しながら小屋に入り、娘を待つ。

 小刀で笛を整えていると、戸を叩く音が聞こえてきた。


 奴隷は何も答えない。

 その後、焦れた様にさっきより速い調子で再び叩かれたが、同じように答えない。

 恐る恐る戸が開かれ、娘が顔を出した。

 緊張した様子だったが、奴隷の存在を見つけて幾らか緊張が和らいだようだ。


「もう、いるならちゃんと教えて下さいよ」

「すみません。ああ、もっと中に入って下さい」


 娘は部屋の真ん中に一歩、二歩と歩いて行く。

 奴隷も胸に手を忍ばせながら娘に近付く。


 二人の距離が手を伸ばせば触れられる位まで近づいた時。奴隷は右手に握った小刀を娘の首に押し当て、左手でその肩を強く掴んだ。


「え、」

「──静かに。騒いだら。殺します」

「どうして……何で、やだっ」


 奴隷を何事かを呟いている娘をその肩を掴んでいた手に力を込めて、黙らせる。

 そのまま扉から遠ざかる様にジリジリと移動し、娘を床に押さえつけた。


  娘の腹の上に乗り、肘と手で肩と口を押さえ、見せつけるように小刀を顔の前に持ってくる。

 

「お嬢様には今まで度々親切にして頂きました。でも、貴女は大きな心得違いをしておられる……」


 奴隷は娘の目を見た。


「──我々が喜んで従っているとでも思っているのか。そんな訳ないだろうッ」

「ひっ」

「慈悲を施せば慕うとでも思っていたのか知らないが。俺たちはお前たちの剝き出しの悪意と暴力を恐れ、理不尽な制度と壁から逃げ出せないだけだ」


 奴隷は語気を強めていく。


「俺を見ろ。恐ろしいか、動けないか。これがお前たちがやって来たことなんだよ。こんな状態で優しくされて嬉しいか。喜ぶと思うか」

「んん」

「な訳ないよな。そんな訳無いんだよ」


 娘の瞳から涙があふれていた。


「農園じゃ俺たちは生かすも殺すもお前ら次第だった。同じだよ、同じ。いま、お前をどうするかは俺次第だ。分かるな、暴力の届く場所にいる限り、奴隷は主人の物」


 さっきまで辛うじて抵抗していた足の力が抜けてきた。


「そうだというのに、お前は何のつもりだ。憐れみを振りまいて何がしたい。罪悪感か優越感か自尊心か……何のためだ?」

「わ、わたしは。ただあなたに」

「俺の為に何だ。お前らを殺したいほど憎んでいるぞ。何だ、死んでくれるのか」


 娘は震えながら首を振り、どうにか逃れようと身をよじっている。

 心音はこれ以上ないほど速く強い。


「いいや。殺してやろうか」

「ごめんなさい。ごめんなさい。い、嫌、お願いで、」


 奴隷は小刀を左手に持ち換えると、右手を娘の首にかけた。

 少しずつ力を入れると娘の顔は赤くなっていき、娘の身体がこわばる。


 続けて、小刀で娘の肩口を傷つけると、痛みと恐怖のせいか女とは思えないほどの力で奴隷を押し返し始める。

 首を絞める手を緩めていくと、娘は何とか奴隷をはねのけることが出来た。


 奴隷が小さく後ずさりして、二人の距離は手を伸ばしても触れられないほど。

 その距離で二人は、互いの目を見ていた。


「逃げないのか?」


 娘は未だ震える足で立ち上がろうとしたが、上手くいかない。

 身体をひねって戸の方を向くと、這ってでも逃げ離れる。


 声も上手く発せないのか、口をパクパクとさせながら這う。 

 ゆくっりと近づいてくる奴隷から身体全てを使って逃げている。


 娘が戸にたどり着いた時には部屋は肩から流れ出る血で汚れ、ひどい有様だった。

 奴隷は出て行った娘を見送ると、隅のベッドに腰掛けた。


 懐から吸いかけの煙草を出すと、マッチで火をつけ大きく吸う。

 しかし、奴隷が不慣れなのか合わないのか大きくせき込んでしまった。


「何だこれは。爺さんの言うとおりだ。こんなもの要らん」


 奴隷は煙草を寝気棄てると、代わりに笛を手に取った。


「時間、あとどれくらいあるか。最後の言いつけだ。出来る限りは全うしてやるか」


 奴隷は笛に口づけると老人の故郷に伝わる冬至の調べを奏で始める。

 この音色は風に乗って飯時の奴隷たちの下にまで届いた。


「満月の夜に、自由を」


 奴隷はそう呟いてから、再び笛を奏で始める。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 それから間もなく主人の家族に害をなした奴隷は牢に入れられる。

 一晩中の拷問のすえにその奴隷が口にしたのは、今までの大恩を顧みない主人一家への逆恨みであった。

 これは法を鑑みても死罪に値するものであり、次の日には串刺し刑に処される。

 しかし、これはのちに続く不幸の始まりでしかなかった。

 男の処刑から数日後、農園の奴隷数十人が一斉に反乱を起こす。

 反逆者どもによって。使用人を含む多くの物が殺されたことは悪夢でしかない。

 先立って、別邸に移っていた農園主の一人娘が死を免れたことが唯一の救いであるといえようか。

 

 一時は周辺の農場を巻き込んで大規模化した奴隷反乱も大方鎮圧されたものの、今現在もその残党は地下に潜って活動を続けている。

 また、知識人の一部にはこの悲劇を奴隷制の欠陥の証であると主張する者まで現れる始末であり、依然油断を許さない状況である。

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