「どうやら正解だったみたいね」


 *


 亜沙美さんが運転する車に乗って連れてこられたのは、とある病院だった。

 とたん、心がひとつの可能性を察知して、心臓がうるさく早鐘を打ち始める。

 亜沙美さんの後について面会の受付を済ませる間も、ずっと鼓動はやまなかった。

 まさか。そんなわけない。そう思いながら、案内されるまま隅のほうの一室の前に立つ。

 部屋番号の下には患者の名前が書かれているのかもしれないが、とても確認できる心理状態ではなく、あえて目をそらした。

 亜沙美さんが三度、規則正しく丁寧にノックをし、ゆっくりとドアを開ける。

「さあ。どうぞ」

 促されて、おずおずと部屋の中へ。

 レースカーテンに反射した、真っ白な陽の光が眩しい、

 その窓際に置かれたベッドには――上半身を起こして外を眺める、少年の姿があった。

 忘れるはずがない、彼の姿が。

 息を呑む。

「たっ、たくや……?」

 震える声で呼びかければ、彼はおもむろにこちらを振り返る。

 そして、一見無感情にも思える瞳からひとつ、つーと大粒のしずくをこぼした。

「ふうか……」

 かすかな声で、でもたしかにそう呟いたのを聞いた瞬間、自分の中で何かが弾ける。

 一心不乱に駆け寄って、思いきり彼を抱きしめた。

「ねぇ、なんでっ、なんでっ……」

 計り知れない喜び、驚きとともに、言葉にならないたくさんの感情が涙となってあふれだす。

 どうしてあなたがこんなところにいるの? もうこの世にはいないと、私の一部になったのだと言い聞かせて、寂しさを紛らわせてきたのに。

 彼は抱きしめられたまま何も答えない。でも、それだけで充分だった。

 今こうしてそばにいて、触れ合えることこそが、奇跡なのだから。

「その様子だと、どうやら正解だったみたいね」

 泣きじゃくる背後で、亜沙美さんのほっとしたような涙声が聞こえた。


 ひたすらに泣いた後で、亜沙美さんから詳しい事情を聞いた。

 卓也が三年前、バイクでひどい自損事故を起こし、医師からは脳死状態だと告げられたこと。

 絶望的な状況だったが、事故からちょうど一年が経った大晦日――正確には年をまたいだ頃に、奇跡的に目を覚ましたこと。

「事故の影響で失語症っぽくなっちゃってて、今でもほとんど会話や読み書きができないんだけど、さっきみたいに『ふうか』って呟いて涙をこぼしたり、突然書き記して訴えたりしてくることがあって」

 何か手がかりはないだろうかと彼の学生時代のものを漁ったところ、中学の卒業アルバムに私の存在を見つけたのだという。

「黙っていてごめんなさい。あのとき、ぶつかったのも本に興味を持ったのも偶然だけど、親睦を深めたいようなことを言ったのは、このためでもあったのよ。まさか同じ大学だなんて思わなくて、ドキドキしちゃったわ」

「私もです。瀬戸って聞いたときに、ピンときて」

 嘘にならない程度の理由を添えて、あたたかな気持ちで同調しながら、めぐり合わせって本当にあるんだなぁ、とぼんやり思った。

 今回のことといい、彼と過ごしたあの不可思議なひとときといい、単なる偶然とは思えない。きっと偶然なんかじゃない。

 すると、亜沙美さんがまるで私の心を読み取ったかのように、

「それにしても、不思議なことってあるものね」

 とこぼして、卓也に目をやった。

 彼は相変わらずベッドの上で体を起こして、分かっているような、いないような顔で、ただ私たちを見つめている。

「この子ね、目を覚ます少し前に、私と父に会いにきたのよ。自分の最期を悟ったのか、臓器提供の意思を書いた保険証を渡しに。あっという間にいなくなっちゃったんだけど、信じられなくて車で後を追ったら、雪道でクタクタになってて。病院に行くっていうから、そのまま送っていったの。いまだに、夢だったんじゃないかって思ってるんだけど」

 いつの話なのかということは、すぐに思い当たった。おそらく、私に会う前に家族にも会いにいったのだ、と。

「一夜限りの奇跡だ、なんてカッコつけたこと言って、今生の別れみたいな態度取ってたわりには、ちゃっかり目覚めてくれちゃって」

 本当にそのつもりだったのだろう。こんな展開、彼だって予測できなかったと思う。

「まったくもう。人騒がせなんだから」

 優しさにあふれた眼差しで呆れ気味に言う亜沙美と、そんな彼女にどこか不思議そうな視線を向ける卓也の姿に、なんだかきょうだいっていいな、やっぱり私も欲しかったな、と羨ましく思っていると、

「それで? ふたりはどんな関係だったの?」

 出し抜けにからかい口調で問われ、両頬がカッと熱くなるのを感じた。

「なっ、ないしょです……」

 俯いて小声で返せば、亜沙美さんは「え~」とつまらなそうな声を上げる。

「卓也が喋れないんだからさ。教えてよ」

「だって……」

 どうしても頑なに隠し通したいというほどではないけれど、実際、説明が難しいのだ。

 ものすごくファンタジックで長ったらしい話になるし、お互いに好きだという気持ちはあっても、付き合ってはいなかったわけだし。

 どうしたものかと戸惑いながらも黙りこくっていると、亜沙美さんが「ま、しょうがないか」と諦めたように呟いた。

「打ち明けたくない秘密のひとつやふたつ、誰にだってあるわよね」

 さっぱりとそう言って微笑む彼女を見たら、私と彼が過ごした嘘みたいな本当の日々のことも、笑わずに聞いてくれそうな気がしたけれど――結局やめた。

 本当に大事なものは、そっと胸の奥にしまっておこう。


 *


「ほら。天国だっただろ? ――卓也」

 下界で大切な人に抱きしめられている息子の姿を見て、ふっと笑みを漏らした。

 卓也を抱擁している彼女の後ろでは、ずいぶんと大人っぽくなった亜沙美が、目尻を拭っている。

 しかし、そんな光景を目の当たりにしてもなお、彼の瞳に感情はない。

 もう目覚めてからずいぶんと経つはずだが、やはりまだダメなようだ。先ほど涙をこぼした瞬間は、ちょっぴり期待したのだけれど。

 あのときは――魂を元の場所へ戻すだけで精一杯で、そこまで手を回してやれなかった。

 あとは自力で頑張ってもらうしかない。

 でもまあ、きっと大丈夫だろう。さほど心配はしていない。

 強い味方が、現れてくれたことだし。

 現に彼女は、ほんのわずかでも、彼の心を動かしたのだ。

「バカ息子をよろしくお願いするよ。ふうかちゃんとやら」

 微笑ましい気持ちで囁いたとき、

 ――昇天しかけた魂を直前でよみがえらせるとは、かなり大胆なことをしてくれたではないか。

 突然、頭上から低く野太い声が聞こえた。

 ――おまけに、与えたペナルティーが軽すぎる。

「申し訳ありません」

 ――お仕置きをせねばならん。

「ですが、お待ちください」

 ――なんだ?

「あなたもご存じの通り、ここから先は茨の道。あのまま昇天してしまったほうが、よほど楽だったはずです。もう、それで充分だとは思いませんか?」

 ――お主、なかなか言うようになったな。

 言葉とは裏腹に、その口調は穏やかだった。ほっと安堵する。

 ――だが、一理ある。私もはるか昔は人の親だったのだ。もう人ではなくなってかなり経つけれど、人情も親心も、けっして忘れたわけではない。今回だけは特別に見逃してやろう。ただし、二度目はないぞ? 肝に銘じておけ。

「ありがとうございます」

 見えない相手に向かって、深々と頭を下げた。

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