『殺戮侯爵』の婚約破棄
水瀬白龍
第一話 告白
とある昼下がり、我が屋敷にて。
「ステラ、君との婚約を破棄させてもらいたい」
僕の愛しの婚約者にそう告げれば、彼女はきょとんと目をまばたかせた。
***
伯爵令嬢のステラ・オルレアンは僕の世界一可愛い婚約者である。彼女が十六歳でデビュタントとして初めて社交界に出た時に、僕は彼女を一目見てこれは運命だと確信した。そして、その場で彼女に婚約を申し込んだのだ。年も僕の六つ下でそこまで離れておらず、爵位も僕が侯爵、彼女は伯爵令嬢ということで婚約に当たってなんの問題もなかった。それから僕達は定期的にお互いの家を行き来していた。
僕が婚約を申し込んでから二年程が経ち、今日も彼女は我が屋敷にお茶をしに来ていた。今いる場所は僕の自室、僕たちは机を挟んで二人でゆったりとソファーに腰かけている。ちなみに婚約者同士のお茶会でも、未婚の女性が男である僕と二人きりになるのはあまりよろしくないので、一応僕の従者であるルークも僕の後ろに控えてくれている。
この三人しかいない部屋で僕は唐突に切り出した。
「突然の話ですまないのだけれど。ステラ、君との婚約を破棄させてもらいたい」
僕がそう告げれば、彼女はきょとんと目をまばたかせる。
「…………え?」
「ルーク」
僕が名を呼べば、従者のルークが手に持っていた書類を僕に渡してくれた。
「ステラ、これに署名をしてほしい。これで僕達の婚約はなかったことにできるから」
既に僕が書くべきところは記入済みだ。後は彼女が署名をするだけなので、僕はそのまま彼女に書類を手渡した。ステラはそれを受け取り唖然としている。
「婚約、破棄……ですか?」
「そう、婚約破棄」
もう一度僕が言えば彼女は大きくため息をついて、持っていた書類をぱさりと机に置いた。机にはペンとインクも置いてあるが、彼女はそれを手に取ることなく僕をじっと見つめる。
「……オスカー様」
「何だい?」
「理由を聞いてもよろしいですか?」
彼女があまりにも真剣な表情だったので、僕は首を傾げてしまう。
「君は僕との婚約を継続させたかったのかい?」
「破棄など望んでおりません。オスカー様はどうして私との婚約を破棄したいと仰ったのですか?」
「君の方こそ何故そんなことを尋ねるんだい? 僕と婚約破棄できるんだよ? 君にとってはその方がいいと思うけれど。君、僕のこと好きだったの?」
この婚約は僕が強引に進めたものだ。彼女の父であるオルレアン伯爵はこの婚約に乗り気ではなかったのに、僕は自身の侯爵という地位を利用して無理矢理婚約を結んだのである。よって僕達の婚約の間には演劇のような恋愛物語など存在しない。単に彼女を一目見て運命だと思った僕が権力を用いて結んだだけの関係なのだ。
しかし、彼女の返答は僕にとっては予想外のものだった。
「私は貴方のことをお慕いしておりました」
「まさか、君は僕に恋愛感情を抱いていたのかい?」
僕達は定期的に会っていたが、彼女にそのような素振りは一切なかったし、勿論僕も彼女にそういったアプローチは一切していなかったのに。
「いいえ、確かにそのような情熱的な感情を貴方に抱いたことはありません。元々、貴方から突然申し込まれた婚約でしたから……しかし、貴方と暖かな家庭を築いていけたら、とは思っておりました、オスカー様」
それを聞いて僕は思わず頬を緩めてしまった。つまり、僕と家族になることに彼女は拒絶感を持っていなかったのだ。
「それを聞いてとても嬉しいよ」
「……私との婚約を破棄しようとしているのに嬉しいのですか?」
にこにこ笑う僕とは対照的に、彼女はどこかいぶかし気だ。
僕はそんな彼女に微笑みながら言った。
「だってまさか僕相手に暖かな家庭を築きたかっただなんて言ってくれるとは思わなかったんだ。だから、とても不思議な気分だよ。そしてとてもいい気分でもある」
そう、まさかこの僕にそんな優しい思いを持っていてくれていたなんて。だからとても嬉しいのだ。
というのも、僕は周りの人間からおおいに恐れられている有名な悪人なのだから。
僕の名前はオスカー・シェーファー。ただ、十五の時に爵位を継いでからは別の名前で呼ばれることの方が多かった。
オスカー・シェーファー。別名、『殺戮侯爵』。
かつて屋敷中の使用人を全員殺し、両親すら殺害して爵位を奪い取った冷酷非道なる殺人鬼と呼ばれている。
だから彼女がこんな風に僕に言ってくれるだなんて思ってもいなかった。彼女はなんて優しい子なのだろう。
僕はルークが入れてくれた紅茶で喉を潤しながらにっこりとステラに笑いかける。
「ステラ、君は知っているよね? だって、これは貴族であれば誰でも知っている話だもの。オスカー・シェーファーは大量殺人鬼だって」
「……えぇ、知っております」
「それなのに君はどうして僕との婚約破棄を望まないのかい?」
悪い噂ばかりの僕との婚約なんて、彼女にとって何の利点も無いというのに。
「……貴方はそんな人ではありません。貴方はとても優しい人です。それはこの二年間でよく分かりました。周りが何と言おうと関係ありません」
「僕が両親含め大量の人間を殺した殺人鬼だったとしても?」
「――――理由があったのだと思っています」
理由ねぇ。
社交界で噂されているのは、僕が屋敷中の使用人と両親を殺して爵位をついだということ程度だ。それ以上のことを知る人間はどこにもいない。だからステラは色々と良い風に解釈してくれたのだろう。それは僕にとっては都合がいいのでそのまま勝手に勘違いしてくれていればいい。僕がどのような人間なのかなんて彼女が知る必要などないのだから。
「オスカー様、貴方は優しい人です。私に沢山贈り物をしてくださいましたし、一緒にお話ししているのはとても楽しかったです」
「婚約者に贈り物をするのは当たり前だよ」
「確かに私は燃え上がるような恋をしているわけではありません……それでも私は貴方をお慕いしています。たとえ、貴方が殺戮侯爵と呼ばれようとも」
「人を大勢殺したかもしれない人間によくそのようなことが言えるね」
「私は自分で見た貴方だけを信じます」
僕が大量殺人鬼であることは事実なのだけれど。彼女が僕のことをどういう風に見ているのかは知らないが、僕は彼女の言うような優しい人間ではない。だからといって、彼女の言葉をこれ以上訂正することはやめておく。
「さて、話が逸れてしまったね」
「私は私の本心を明かしました、オスカー様。私は貴方との婚約破棄をしたくないというのに、どうして貴方は私との婚約を破棄したいのですか? ……もしかして私、貴方に何かしてしまったのでしょうか」
ステラがそう言って急に不安そうな表情になるものだから、僕は思わず手を伸ばして彼女の頭を撫でてしまう。
「……オスカー様?」
そういえばステラと婚約してから彼女に触れるのは初めてだ。だが今日くらいはいいだろう。
撫でられてぽかんとしている彼女に僕は用意していた言葉を告げた。
「ステラ……君は僕の妹なんだ」
「……………えっ?」
「君は血のつながった僕の妹なんだよ」
僕は重々しくそう言ってから深くソファーに腰かける。僕の言葉を理解できていないのか彼女は唖然としていた。僕がこくりと紅茶を飲むとティーカップは空になる。
すぐにルークが紅茶を継ぎ足す横で、僕は深々と息を吐いた。
「本当だよ。君と僕は正真正銘、血のつながった兄妹だ。……兄妹は結婚できない。だからどうか僕との婚約を破棄してほしいんだ」
「え、あの……オスカー様と、私が?」
彼女はやっと僕の言った言葉を理解したのか、おろおろと狼狽し始める。僕は彼女が落ち着くのを待たずに続けることにした。
「ステラ、君は孤児院にいただろう? そしてすぐにオルレアン伯爵に引き取られたはずだ」
「え、えぇ、そうです」
「孤児院に行く前のことは覚えているかい?」
僕がそう尋ねれば、彼女は顔色を悪くしながらも恐る恐る頷いてくれる。僕はそれに困ったように微笑んだ。
「なら、君には兄がいたことも覚えているかな」
「……はい」
ステラの目に涙が溜まり始める。丸く大きな瞳が涙で潤む様子に僕は彼女の隣に席を移動する。そして彼女の手を取った。
「孤児院で別れてからずっと君を探していたよ。ステラ……会いたかった、僕の可愛い妹」
「本当に、本当にお兄様なのですか?」
震える声でそう呟く彼女に僕は大きく頷く。
「君と僕しか知らないことを教えてあげる」
彼女の両手を握って僕はステラにこつんと自身の額を当てた。驚いたように目を見開く彼女に僕はそっと微笑みかける。
「孤児院に入る前、僕達は二人でずっとどこかの部屋に閉じ込められていたよね。部屋に来るのは時折僕達を鞭で叩きに来る母上と、僅かばかりの食事を運んでくる一人の使用人だけ。僕達は名前を貰えなかったけれど、いつも部屋には僕と君しかいなかったからちっとも不便じゃなかった。君は僕のことをお兄様と呼んでくれていたよね」
「お兄様……」
「お腹が空いたときも、喉が渇いて苦しい時も、鞭で叩かれて死にかけた時も、二人で支え合って生きてきたことは君と別れてからもずっと覚えていたよ。僕達が閉じ込められた部屋の鍵が閉め忘れられていたことに気がついた時なんて、僕達は心底喜んだよね。そして僕達は二人で馬車に飛び乗って孤児院まで逃げた。その孤児院で僕達は離れ離れになってしまったけれど……ステラ、僕の可愛い妹。ねぇ、覚えている? もう何年も前のことだけれど、それでも僕はずっと君のことを覚えていたよ」
そう言って僕が彼女を抱きしめれば彼女の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちていった。それは僕の肩を濡らしていく。
彼女は声を震わせた。
「あぁ、本当に、本当にお兄様なのですか?」
「そうだよ」
「……でも、オスカー様はシェーファー侯爵で。お兄様は孤児院にいたはずでは」
「あぁ、それはね。君が孤児院を出て行った後、僕もここシェーファー家に引き取られたんだ。本物のオスカーが屋敷中の使用人を殺してしまったから、とにかく人手が欲しかったみたいでね。僕は孤児院でも優秀だったからシェーファー家で働かせてもらえることになったのだけれど、本物のオスカーはね、本当に頭の狂っている殺人鬼だったんだ。それで、僕はオスカーを殺してこの侯爵家を乗っ取ったんだ」
「のっ、乗っ取る!?」
僕がそう告げればステラの涙は引っ込んでしまったようだ。僕からばっと体を離して彼女は酷く仰天していた。
「お、お兄様、乗っ取るとは一体どういうことですか!」
「僕とオスカーは年も同じだったから。元々オスカーは積極的に人と交流を持つような人間ではなかったようだから、僕がオスカーと入れ替わったことに誰も気がつかなかったよ。そもそも本物の彼はとても頭の狂っている人間だったから、僕が変な行動をしても疑われることがなかったんだ。嬉しい誤算だよね。何か間違えても彼は頭が狂っているからと、周りは勝手に納得してくれる」
「そういうものなのですか」
「うん。それにルークが協力してくれたんだよ」
僕が傍に控えていた従者を見れば彼は美しく一礼して見せる。
「ルークが?」
「そう。彼はとっても優秀でね。僕よりも年下だというのに、僕が侯爵として働くのを手伝ってくれたんだ。彼がいなかったら僕は到底侯爵になんてなれなかったよ」
「そうだったのですか……」
僕は素直にこの話を信じている彼女にくすっと笑って、彼女の頭をまた撫でた。
「そうやって僕はシェーファー侯爵になったのだけれど、ある時デビュタントとして社交界に現れた君を見つけてしまってね。初めは君が僕の妹だと気づかなかったんだ。……だって、あんなに小さかった君は、目を見張る程美しい女性に成長していたんだから。でもどこか見覚えがあって、何故か愛しさを君に感じて……僕はとにかく君と繋がりを持とうと、君との婚約を申し込んだんだ」
「お兄様……」
「婚約してから、君と過ごすうちに僕は君が僕の妹だと確信した」
「えぇ、オスカー様は間違いなく私のお兄様です……! 先程の話は間違いなく私とお兄様だけが知っている話ですから!」
彼女は大きく頷いてくれる。その様子に僕は笑みを抑えることが出来ない。彼女はまたぽろぽろと瞳から涙を零し始める。
「あぁ、私のお兄様……」
「ステラ、僕は本物のオスカーを殺してしまったけれど、それでも僕の妹でいてくれる?」
僕がそう尋ねれば彼女は何度も頷いてくれた。それを見て僕は両手を広げる。彼女は感極まったように僕の胸の中に飛び込んできた。
「お兄様っ!」
「ステラ、僕の可愛い妹……ずっと、君に会いたかったよ」
「お兄様、私も、私もずっとお兄様に会いたかった……!」
そして僕たちは再び固い抱擁を交わした。
生き別れた兄妹の再会を感動的に終えた後、ステラは僕との婚約破棄に応じてくれた。彼女の署名が入った書類はルークが回収していく。
「それで、ステラ。今後のことなのだけれど」
未だ瞳に涙をたたえている彼女に、僕はあらかじめ用意しておいた今後の予定を告げる。
「婚約破棄された君は貴族令嬢として価値が下がってしまう。酷い話ではあるのだけれど、これが貴族の現実だ」
「えぇ、分かっておりますわ」
「だから僕は今回君と婚約破棄するにあたって、君の居場所を用意したんだ。貴族令嬢としての価値が無くなったのならば、平民になればいい。既にその準備も整っている」
「平民に、ですか」
「そう。ステラ、ここから遠く離れたところに、とても長閑で優しい町を見つけたんだ。自然豊かで、住んでいる人々もとても穏やかだった。君さえよければ、そこへ移住してみないかい?」
僕達の顔を知っている人間もいない場所だ。侯爵としての公務の傍ら、僕は国中を探して彼女が平和に暮らせる場所を見つけ出しておいたのだ。勿論、既に住処は購入してある。
「ですが、お兄様……私はオルレアン家の伯爵令嬢です。お父様がお許しになるでしょうか……」
「大丈夫、ちゃんと手を回してあるからね。君が心配することは何もないよ。それと、ルークが君に付いて行ってくれる予定なんだ」
「ルークが?」
ステラはきょとんとルークを見上げる。ルークは僕の三つ年下の従者で、彼は僕にずっと付き従っているからステラとルークも知り合い同士だ。知り合いというか、仲もいいはずだ。今日は婚約破棄の話をしているから会話に入ってこないけれど、普段はルークも一緒に彼女とのお茶会に参加しているのだから。
「いくら平和な町だといっても女性の一人暮らしは危険だからね。それに君は孤児院で暮らしていた期間が短いから家事もできないだろうし。その点ルークはとても賢くて頼りになる上、何より僕が一番信頼しているからね。だから彼に君を頼むことにしたんだ」
「ルーク、私と共に来てくださるのですか?」
ステラの問いに、彼は頷いた。
「えぇ、貴方が嫌でなければ、是非俺もお供させてください」
「そんな、嫌だなんてありえません!」
僕は二人をほのぼのと見つめながら、にっこりと笑う。二人の仲がいいのは良いことだ。二人が仲良くしていると僕も嬉しくなる。
こうして、僕達の婚約破棄は恙なく終了した。
そう、全ては予定通りに。
***
「感動的な兄妹の再会だったね。妹とは可愛いものだ」
ステラが部屋を去った後、僕とルークの二人だけとなった部屋でそうのんびりと呟けば、ステラのティーカップを片付けていたルークが手を止める。
「貴方の妹じゃない――――俺の妹ですがね」
ルークの言葉に僕は目を細めた。
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