第90話:泥水を啜って生きるべきか、誇りに殉じて死ぬべきか
天文十六年(1548)12月21日:越中富山城:俺視点
兵糧攻め、飢えによる城内の気配が限界に達したのだろう。
北条氏康が降伏すると言ってきた。
諜報部隊や内通している者達からも、城内が危険な状況だと報告を受けていた。
このままだと、小田原城に籠城している国人地侍と、無理矢理と閉じ込められている領民の間で、殺し合いが始まりかねないと聞いていた。
俺の条件は最初から変わらない、北条家に完全な屈服を強いる。
臣従を望む者に許す領地は五百貫文までだが、それは事前に誼を通じていた者。
それ以外の者は一族一門家臣を独立させて百貫文にまで減知する。
それは北条家も同じで、それが嫌なら松江でも堺でも好きな所に行けばいい。
足利義藤であろうと足利義維であろうと好きな者を頼ると良い。
誰を頼ろうと構わない、もう一度敵対するというのなら、次こそ殺すだけ!
北条氏康の性格なら、誇りを大切にして追放を選ぶと思っていた。
韓信の股くぐりができる性格ではないと思っていた。
だが、下剋上の機会を手に入れる為なら、恥をかける男だった。
降伏臣従すると言ってきた。
だから、一度この目で本人を確認する事にした。
雪で峠を越えられなくなる前に、急いで小田原から富山に呼び寄せた。
北条氏康は、小田原城を囲んでいた奥羽の屈強な国人地侍に見張られながら、馬を駆って富山にやってきた。
「御初に御目にかかります、北条相模守氏康と申します。
この度は降伏臣従を御認めくださり、感謝の言葉もございません。
この御恩に報いるため、身命を賭して働かせていただきます」
表面上は心から負けを認めて家臣になろうとしているように見える。
だが、俺は史実で北条氏康がやってきた事を知っている。
この世界の北条氏康がやってきた事も、諜報部隊から報告を受けている。
北条氏康は、長尾家の中に入って下剋上の機会を探る気だ。
自分の能力に自信があるから、長尾家のやり方なら必ず立身出世出来ると思って、俺を殺す機会が訪れるまで待つ気だ。
「俺に仕えてくれるというのは嬉しいが、信用できない。
これまで相模守殿がやってきた事は全て知っている。
側に置くのがどれだけ危険なのかも、兵権を預ける危険も分かっている。
俺に仕えるなら、飼い殺しにされると思え。
北条家への忠誠心を隠している者に対する人質として使う。
俺の側にもおかず、戦場にも行かせず、僻地に閉じこめる。
それでも良いというのなら、五百貫で召し抱えてやる」
「……これまでのやり方を変えると申されるのですか?
武田太郎殿や揚北衆に与えた機会を、私には下さらないと申されるのか?!」
「ああ、与えない、相模守殿にそのような機会を与えたら寝首を掻かれる。
俺はそれだけ相模守殿の才をかっている」
「……嫡男だけでなく、全ての子供を人質に差し出しても信じて頂けませんか?」
「戦国乱世の武将に人質など何の意味もない。
相模守殿なら、下剋上の機会が来たら何の躊躇いもなく妻子を見殺しにする。
これ以上私を甘く見るのは止めて頂こう」
「……私が幽閉に応じたら、子弟には再起の機会を与えてくださるのか?」
「幽閉などしない、奥羽の僻地で好きにして頂く。
五百貫の領内でなら、兵を鍛えようが殖産に力を入れようが勝手だ。
俺の寝首を掻く機会を与えない、下剋上の機会を与えないと言っているだけだ」
「一つだけ御願いがございます」
「なんだ?」
「息子の、西堂丸と松千代丸の元服と初陣を御願いしたい。
来年中に元服させて、初陣を飾らせてやっていただきたい。
二人に立身出世の機会を与えていただきたい!」
「俺で良いのか、どこに行こうと北条一門の命は奪わない約束をしているのだぞ。
松江御所、堺御所、本願寺、どこに行こうと自由だぞ?」
「私を愚か者と同列に扱わないで頂きたい。
長尾家に勝てる者など、この国のどこを探してもいない!
他家に仕えると言う事は、泥船を選んで死ぬという事だ。
大切な妻子や家臣に、下剋上の機会もない死を強いる事などできぬ!」
「ほう、俺に勝てる者は、この国のどこにもいないか?」
「いない、誰一人いない!」
「そう思うのなら、子弟はもちろん、一族一門衆全てに厳しく言い渡せ!
絶対に俺に逆らうな、心から忠誠を誓って奉公しろと言い渡せ!
忠誠を尽くす限り、必ずの褒美を与える。
ただし、もう二度と天下を乱さないように、一族に与える国は遠国一つだ。
それ以外の者は、陪臣となるか扶持取りになるかだ。
どれほど功名をあげようと、万貫文の扶持に成ろうと、一族の二番手以下には領地を与えない、そのように伝えよ」
「な、万貫文でも扶持取りですと?!」
「足利のような弱い幕府を立てて、天下が治まるとでも思っていたのか?!
鎌倉殿のように、外戚に幕府を乗っ取られるような事もさせぬ。
太平の世を創り出すためなら、悪鬼羅刹と罵られようと構わぬ。
俺が死なぬ限り、もう天下平定は決まったようなもの。
天下を乱す元になる、才ある者に武名をあげる機会は与えぬ」
「西堂丸と松千代丸にも機会を与えないと言う事か?!」
「いいや、さっきも言っただろう。
遠国一国までの功名なら、稼ぐ機会は公平に与える。
扶持取りで良いのなら、十万兵を率いる兵権を与える。
五百の関船を率い、北は蝦夷から南はシャムやアユタヤまで、大海原に乗り出し交易や海賊を行う船大将になる機会は与える」
「そう、ですか、分かりました、それならば何所にでも行きましょう」
「話は終わった、相模守殿を大内裏の客坊に案内しろ」
「「「「「はっ!」」」」」
憶病と笑われるかもしれないが、北条氏康を富山城内で休ませる気はない。
少なくとも三ノ丸よりも中に入れる気はない。
総構え内にある、大内裏の坊の一つ、客を泊めるための坊で休ませる。
北条氏康を封じ込める場所だが、奥羽でも内陸部にする。
船を使って逃げられるような場所は選ばない。
日本海にも太平洋にも、同じくらい離れている場所が良い。
とはいえ、余りにも環境が厳しい土地、貧しい領地を与える気もない。
水に恵まれているか、三年五作がやれる領地にする。
十和田湖の周りか鹿角、盛岡の辺りが良いだろう。
北条勢だが、細分化するのは当然として、どう使うのが一番だろう?
一番安全なのは、分散して古参の国人地侍の寄力同心にする事だ。
信頼出来る侍大将や足軽大将を頭にして、集団で運用するのが一番力を発揮するが、好機を捕らえたら、西堂丸か松千代丸を奉じて謀叛する可能性がある。
北条家に忠誠を尽くすために、氏康を切り捨てて再起を選ぶ譜代もいるだろう。
西堂丸か松千代丸を傀儡にして、北条家を乗っ取る下剋上国人もいるだろう。
忠誠を尽くしてくれる者達の死傷を少しでも減らす、安全確実な方法はなんだ?
北条勢を分散した方が良いのか?
わざと集団で使って、謀叛するようにした方が良いのか?
何時もの事だ、毎日考えて一番良い方法を選ぶ。
朝令暮改になろうと、一人でも死傷する家臣領民が少ない方法を選ぶ。
「もうやる事は無いか?
ないのなら奥に戻って休むぞ?
子供達に愛情を注ぎ、長尾家を背負って立てる者に育てるのも、天下を治めるのと同じくらい大切な事だからな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます