第61話:閑話3・普請
天文十二年(1543)6月19日:甲斐若尾村:某農民視点
「良く聞け、我らが御大将、越中守様に神仏の御告げがあった。
御大将は、善光寺と別当と顕光寺の長吏を兼ねるとても尊い方だ。
言われた通りに従い、ゆめゆめ疑わぬように」
三日前、村長を従えた新しい領主様に怖い顔で命じられた。
新しい領主は、恐ろしい武田の殿様に勝った人の家臣だ。
従わなければ殺される、命じられたら、嫌でも言う通りにする。
「お前達も水腫の病は知っているだろう?
あれは水に住む悪霊が、小さな貝の中に潜み人に取り付いているのだ。
だから湿地の村の民が取り付かれ水腫になる。
神仏が我らの御大将に御告げされた」
だから、それを祓うのに新たな年貢や祈祷料が必要だと言うのか?
「悪霊を退治するために、水田を畑にして湿地も沼も埋め立てる。
その普請は賦役だけでなく人を雇って行う、報酬は一日麦一升だ」
麦一升だと!
戦でもないのに、たった一日働くだけで麦一升ももらえるのか?!
「雇うのは男に限らない、大人にも限らない、女子供の別なく雇う。
報酬も老若男女問わず麦一升を与える」
人狩りなのか、村人を一人残さず狩り集めるために、嘘を言っているのか?
「信じられない者、疑う者がいるかもしれないが、周りの者に聞け。
御大将が神仏の加護を受けられ、収穫を四倍にされたのを知っている者がいる。
甲斐から越中越後に流れて行った者の親戚や知人がいるだろう?」
確かに、越中越後では甲斐の四倍の麦が実ると聞いた事がある。
越中越後に売られた奴隷が、侍大将に成ったという信じられない噂もあった。
御影村の権助が言っていた、確かめてみよう。
「麦を中心に育てるなら、水田を畑にしても大丈夫なのは分かるな?
御大将は麦でも年貢として受け取ってくださる、安心して麦を作ればよい」
育てた麦を年貢として受けとてもらえるなら、銭に変えるために商人に買い叩かれなくてすむ。
「普請中に悪霊に憑りつかっれないように、御大将が脚絆と腕袋を貸してくださる。
だが、決して油断するな、取り付かれたら腹に水が溜まって死ぬぞ!」
親父もお袋も腹がふくれて死んだ。
俺と嫁はまだ大丈夫だが、隣の修造は腹が膨れてしまっている。
もし、本当に悪霊が貝の中に潜んでいるなら、百姓を止めたら助かるのか?
などと考えたが、百姓以外に生きて行く方法などない。
新しい領主の御大将は神仏の生まれ変わりという噂もあるが、信じられない。
恐ろしい武田の殿様を負かすような人が、善人な訳がない。
翌日、俺は賦役で普請場に行った。
嫌だったが、嫁と七歳の息子と五歳の娘も普請場に連れて行った。
昨日の話は嘘で、幼い子供を雇ってくれる訳ないと思っていた。
だが、村長が家族を連れて行けと本気で怒るので、仕方なく連れて行った。
家族揃って奴隷にされるかもしれないと疑っていた。
村長が銭を掴まされているかもしれないとも疑った。
逃げる事も考えたが、田畑を捨てては生きられるはずもない。
「よし、よし、良く集まった。
これを見よ、今日一日普請をしたら与えられる麦だ。
御大将は絶対に嘘をつかれない、安心して働くが良い」
新しい領主が山のように積まれた麦俵の前で言う。
集まっているのは新しい領主と村の衆だけではない。
他の村の衆、その村の領主になったのだろう武者も沢山集まっている。
それにしても、新しい領主と御大将は馬鹿なのだろうか?
賦役や普請は陽が昇ると共に始め、陽が沈むまでやらせるものだ。
朝露がなくなるまで絶対に来るなとは、昨日の話に関係があるのか?
本気で貝の中に悪霊が潜んでいると思っているのか?
「良く聞け、大切な事だから、何度でも言って聞かせてやる。
水腫の病は悪霊が小さな貝に隠れ潜んで人に憑りつく事で起る。
絶対に水場に近づくな、埋め立てるのも遠くから土を投げ入れよ。
お前達が憑りつかれないように、遠く離れたこの場所に集めたのだ」
そうだ、水田や沼を埋め立てるのなら、村の周りから始めればいい。
何も遠く離れた場所にまで移動してから始める事はない。
新しい領主も御大将も本気で悪霊を信じているようだ。
「御領主様、悪霊に憑りつかれているのなら、祓えるのではありませんか?
神仏の加護を得られていると言う、殿様なら祓えるのではありませんか?
本願寺の御坊様や高野山の聖様は、そう言って御札を売ってくれました。」
少し離れた場所で違う領主に話を聞いていた、御影村の奴が質問した。
腹が大きく膨れてしまっているから、藁をもつかむ思いなのだろう。
「神仏の加護を得られた御大将でも、人の身に入り込んだ悪霊を祓う事は出来ぬ。
出来ると言う者は噓つきで、お前のような者を騙して利用しようとする外道だ。
決して信じるな、良いな!」
言われた水腫の奴ががっくりと肩を落としている。
「だが、まだ悪霊に入り込まれていない者を助ける事は出来る。
悪霊が潜む貝を完全に退治するのは難しいが、近づかないようにはできる。
神仏の加護を得られた御大将は、お前達に慈悲を与えてくださるのだ」
御影村の領主が言う事を聞いて、思わず新しい領主の顔を見てしまった。
「聞こえていたな、賦役だけでなく、麦一升の普請を行うのは、御大将の慈悲だ。
お前達が悪霊に憑りつかれないように、飢えないようにしてくださったのだ。
その御恩を忘れるな、いいな!」
新しい領主が言っている事が本当か嘘か分からない。
ただ、この普請が俺達の利になる事は間違いない。
普請の時間は短く、ろくに働けない女子供でも良く、報酬がとても多い。
麦一升の報酬も多いが、その麦を代価に塩などを売ってくれる。
それも、これまで行商人から買っていた値の半分以下でだ。
水田や沼を埋め立てると言っても、村の衆の中に高価な鉄鍬を持つ者は少ない。
それぞれが、家にある農具を持って集まったが、女子供の分まではない。
手で土を集めて運ぶのだとばかり思っていたのだが……
「乾いた土であろうと、絶対に手で触れるな、悪霊に憑りつかれるぞ!
女子供のために道具を用意した、必ずそれを使ってやれ、良いな!」
信じられない事に、普請に使う農具まで用意されていた。
それも、女子供が使うのに丁度良い大きさと重さだった。
普通では使わない農具を、どうしてこんなに沢山持っているんだ?
「明日も雨が降らない限り普請を行う。
報酬も今日と同じだ、一人麦一升、必ず集まるように。
大切な事だからもう一度言う、朝露が残る間は家を出るな!
家を出るのは朝露が乾いてからだ、良いな?!」
家に帰ってから、報酬に与えられた麦で雑炊を作った。
久しぶりに腹一杯食べられて、女房も子供達もうれしそうだった。
「明日の普請に持って行く脚絆と腕袋を盗まれないようにしろ。
綿だから高値で売れる、盗もうとする奴が必ずいる」
「心配のしすぎじゃないかい?
新しい御領主様が言っておられたじゃないか。
行商人を見張っているから盗みはするなと」
「それでも盗む奴が必ずいる。
一つ二つじゃないんだぞ、家だけで十六もあるんだ。
四五軒から盗んだら、しばらく食べるのに困らないくらいの銭になる」
「困ったねぇ、何で御領主は返せと言われなかったのだろう」
家から普請場までの間に、悪霊に憑りつかれない為だと言っておられたけれど、大切な御領主唐の借り物を誰かに盗まれたりしたら、処刑されてしまうよ」
妻と二人、心配していたが、昨日普請場に行って貸し与えられた理由が分かった。
脚絆と腕袋を盗んだ者が、十七人も捕らえられていた。
行商人ではなく、儂ら全員が見張られていたのだ。
見せしめの為だろう、盗んだ本人は磔にされ、家族は奴隷にされた。
その一方で、盗まれた者には何の御咎めもなかった。
新しい御領主様は、最初から盗人を炙り出す気だったのだ。
言う事を聞かない者を殺し、言う事を聞く者だけ残す気だったのだ。
自分なら上手くやれると思わなくてよかった。
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