第12話 黒の庭師
昼下がりの空は透き通るように青く、久々に綺麗な空気を吸い込んだ気がする。
玄関から外門までは一直線で、門が見えない程遠くはないけれど、体力のない貴族の奥方や令嬢がそこへ向かうには、思わず馬車を呼びたくなるような距離。
記憶に違わず綺麗に整えられた芝生が、空の青さを際立たせている。
シンプルだけれど、この状態を保つのはなかなか骨が折れそうだ。
しかも、まだ出会えていない庭師は一人だというのだから、やはりこの屋敷の使用人達のスペックの高さは、相当なものだと窺える。
正しく奴隷だと認識され、この屋敷の使用人達と一緒に仕事をする事になるとして、マルガリータが出来る事はどれ程あるだろう。
(もしかしたら、部屋に閉じ込められて実験台にされつつ、夜のお勤めだけをする方が、よっぽど役立つのかもしれない……)
困った可能性に行き着いて、大きく首を振る。
何とか出来る事を見つけて努力しなければ、あっという間に想像通りになってしまいそうだ。
人通りの全くない場所とはいえ、正面玄関を出た場所で立ち尽くしていると、通りがかった誰かに不審に思われるかもしれない。
今の所、マルガリータに出来る事は何もないのだから、せめて黒仮面の男や使用人達に迷惑がかかりそうな事態は、極力避けるべきだ。
屋敷内と同じように、普通の貴族屋敷と造りが同じであると仮定するならば、主人の憩いの場としてそして客人をもてなす場として美しく整えられる庭園は、正面ではなく主人の部屋や客室のバルコニーから見える位置、つまり正面玄関の反対側に作られている事が多い。
客人をまず最初に出迎える、正面の中庭を重視するタイプの貴族もいるが、この屋敷はシンプルな芝生で整えられているから、きっと裏に花咲く庭園が用意されていると踏んだ。
(やっぱり定番の薔薇園かしら? それとも、このお屋敷のシンプルだけど高級感のある雰囲気からすると、百合園辺りかもしれないわね)
想像を膨らませながら、マルガリータは庭園がありそうな場所へと足を運び、そして目の前に広がったその場所に唖然として、足を止める。
「花が……一輪も咲いていない?」
確かに、綺麗に整えられた庭園と呼ぶに相応しい場所はそこにあるのに、沢山の植物のどれにも花は咲いていなかった。
何というか、全てが緑々しい。
日本のゲームだからか、舞台は中世ヨーロッパ風ファンタジーだけれど、極端に暑かったり寒かったりはせずとも緩やかに四季は訪れる。
マルガリータが断罪されたのは物語の終盤だったから、日本で言うところの三月初旬辺り。
桜にはまだ早いが、梅は綺麗に咲く頃。
この世界に桜や梅があるのかどうかはともかく、一年中何かしら花を咲かせる庭園を造ってこそ、と言われている貴族の庭園に何も咲いていないというのは、普通では考えられなかった。
しかも、植物自体は綺麗に整えられ、きちんと管理されているようなのに、だ。
貴族屋敷の庭園は、基本的にその屋敷の主人、特に女主人の趣味嗜好が大きく反映される。
この屋敷に女主人はいないという事なので、黒仮面の男が指示した庭園だと考えられるが、花が嫌いなのだろうか。
それならば、そもそも庭園でお茶会等の催しをしなければ必要ないものでもあるのだから、いっそ庭園という形を作らずに、正面中庭と同じく一面芝生にしてしまう方がすっきりするだろうし、中途半端に植物を育てるより、管理もしやすいだろうに。
(何か、理由があるのかしら?)
首を傾げながらも、そっと花のない庭園と言うよりも植物園に近い感じのその場所へと足を踏み入れると、風に乗ってふわりと良い香りが辺りを包む。
様々漂ってくる中に、ミントの特徴的な香りを感じて、注意深く見る。
そこには爽やかな香りを放つ、真奈美には見慣れているけれど、マルガリータからすると何の変哲も無い、葉っぱにしか見えない植物を発見した。
一つ見つけてしまえば、近くにラベンダーやレモングラス等を、優しい香りと共に見つけ出せる。
「もしかして、ハーブ園……?」
マルガリータが呟くのと同時に、庭園の奥から人の気配がした。
「何をしている?」
「わっ……!」
そっとミントの葉に触れようと伸ばした、マルガリータの手首が強く掴まれ、指先がミントから引き離される。
頭上に突然現れた影に驚いて顔を上げると、そこには見知らぬ青年が厳しい顔で、マルガリータの事を見下ろしていた。
黒髪に黒い瞳をした、二十代後半位と思しき青年は、日本人だった真奈美の記憶を宿したマルガリータにとっては馴染みのある容姿である。
なのに、あまりにも整った顔立ち過ぎて、見慣れた感じは全くしない。
マルガリータ自身も、乙女ゲームの登場人物なだけはあって、周りに主に攻略対象という名の美形過ぎる知り合いは多い方だが、この青年は頭一つ抜けている言っても過言ではない。
もう、造形美と言っても良い容姿をしていた。
この世界では黒い髪や瞳は珍しく、恐れの対象でもある。
だが、美形過ぎてちょっと緊張するという所を脇に置いておけば、日本人である真奈美の記憶がある今のマルガリータにとっては、むしろ懐かしさが勝って逆に少しほっとしてしまう安心感があった。
それに何故かマルガリータ自身の記憶にも、ほんの僅かにだけれど懐かしさを感じて、不思議と恐れは感じない。
とはいえ整った顔立ちの青年は、突然の侵入者を拒むような絶対零度の空気感を発していて、さすがに見惚れている場合ではなかったけれど。
(でもこの表情、何だかどこかで見たことがあるような……?)
「何をしていたかと、聞いている」
一向に答えないマルガリータに業を煮やした様に、最初よりも苛立った声が同じ言葉を紡ぐ。
未だ手首を強く掴まれたままの状態である事に気付いて、ようやくこの青年には、マルガリータが庭園を荒らしているように見えたのかもしれないと思い付いた。
使用人達が、あまりにもマルガリータの事を最初から受け入れてくれていたから忘れかけていたけれど、目の前に居る青年とは初対面だ。
知らない娘が勝手に庭園に入り込み、大切に育てたその作品に触れていたとしたら、その管理者ならば怒りを露わにしても仕方ない。
黒仮面の男と同じ黒髪という所から、親族か客人かもしれないとも考えられた。
けれど、この屋敷には主人は黒仮面の男一人だと聞いていたし、客人が主人の外出中に勝手に庭園をうろつく様な無礼はしないだろう。
となると、彼はきっと六人目の使用人である庭師に違いない。
「勝手に触れようとしてしまってごめんなさい。久しぶりにミントを見たものだから、嬉しくなってしまって」
「……え?」
「私はマルガリータと申します。昨日から、こちらのお屋敷でお世話になっております」
「あぁ、それは知っ……」
「先程まで、ダリスさんが案内をして下さっていたのですが、急にお仕事が入ってしまって……勝手ながら、一人でお庭を見せて頂いていました。とても素敵な、ハーブ園ですね」
冷たい瞳は、勝手に入ったマルガリータの方が悪いのだから、甘んじて受けねばならないものだと判断して笑顔で見上げると、青年は驚いた表情でマルガリータを見つめたまま固まっていた。
恐らく思考が纏まったのだろう、しばらくすると気まずそうに掴んでいた手首を解放してくれた。
随分強い力で掴まれたような気がしていたけれど、特に手首は赤くなってはいなくて、手加減してくれていた事に気付く。
大切なものを荒らされていたかもしれないのに、優しい気遣いが出来る人物のようだ。
黒い髪や瞳である事が疎まれる世界だと言っても、こんなにも整った顔であれば、きっともっと楽に生きる方法だってあるだろうに、裏方である庭師という職業をしているだけはある。
「どうしてここが、ハーブ園だと?」
「違いましたか?」
「いや、合っている。だが、良く気付いたと思って……この花のない庭園を見た者は、十中八九嫌悪感を表すだけで、植物自体に興味は示さないから」
「それは勿体ないですね。ハーブは大輪の花こそ咲かせませんけど、控えめで綺麗な花も沢山ありますし、様々な香りで楽しませてくれる上に、身体に良い効果も沢山あるのに」
「驚いた、そんな事もまで知っているのか」
「そんなに、詳しくは知りませんけど」
(しまった、この世界ではハーブはただの雑草扱いだったんだっけ。怪しまれちゃったかな……?)
慌てて笑って誤魔化すが、庭師の青年は何やら深く考え込んでしまっている。
真奈美は特に、ミントの香りが大好きだった。
長い緊張感から解放され、久しぶりに一人で自由に外に出られたタイミングでこの香りに出会えて、少し油断していたのは否めない。
「ただの雑草の寄せ集めじゃないかと、笑わないだけでも充分なのに……。ハーブという呼び方や、ミントという固有名詞を正しく理解している上、効能があることまで知っているなんて、その知識量は誇って良いと思う」
真面目な顔で褒めてくれるが、マルガリータの知っている事は専門家でも何でもない。
真奈美の浅い知識なので居たたまれず、矛先を変えようと質問を返してみる。
「そんな、大袈裟です。それより、この庭園は旦那様のご指示なのですか?」
「旦、那……っ!?」
「? あの、私旦那様のお名前を存じ上げませんので、皆様の呼び方を真似てみたのですが……私がこうお呼びすると、ご気分を害される可能性が? ご主人様とお呼びした方が良いのでしょうか」
「ごしゅ……! い、いや、旦那様で大丈夫だ……と、思う」
「そうですか、良かった。旦那様は、学者様か研究員をされていらっしゃるのですか?」
「そんな大層なもんじゃない。まぁ、趣味みたいなものさ」
何故か庭師の青年が、マルガリータによる旦那様呼びに慌てていたので、奴隷がこの呼び方をしては不味いのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
だが、黒仮面の男に次に会えたら、きちんとどう呼べば良いか確認はしないと、機嫌を損ねてしまう事もあるのかもしれない。
アリーシアが、黒仮面の男はハーブの研究をしているという様な事を言っていたので、庭園の指示は恐らく本人からだろうとは思っていたが、どうやら仕事ではなく個人的な趣味の範囲のようだ。
「そうなのですか? 旦那様と随分親しい様ですけど、貴方はそのご趣味のお手伝いを?」
「う……、あぁ、まぁ……昔から良く知っているから、その縁で……」
「幼馴染みなのですね」
「そんな、感じ……かな」
何となく歯切れの悪い言い方ではあったけれど、貴族と平民が軽々しく友人だと言えるような世界ではない。
それでも、庭師の青年は主人である黒仮面の男の研究を、大層なものじゃないと言い切ってしまえる程には、気安い関係なのだろう。
黒仮面の男も、全体が真っ黒というイメージが先行して印象が薄かったが、確かに黒髪だった。
マルガリータにはどの爵位の貴族か心当たりがないものの、高い身分を持っているだろう事は疑いようがない黒仮面の男はともかく、身分の低い庭師の青年が黒髪というのは、何かと苦労も多かったに違いない。
二人の親しい関係は、その辺りにあるのかもしれない。
「私も、旦那様と親しくなれると良いのですが」
「君は、あいつが怖くはないのか?」
「いいえ。旦那様は、私を助けて下さった方ですから」
「でも、真っ黒で不気味だろ」
「人のことは言えないけどな」と、小さく呟く庭師の青年の顔は笑っているはずなのにどこか悲しそうで、今までそう言われて生きてきたんだとわかる。
「私は、好きですよ」
「は?」
「黒い髪に黒い瞳、落ち着きます」
真奈美という記憶が甦った今、日本人として生きてきた二十七年間ずっと慣れ親しんだ色の庭師の青年に、自分の容姿を含め煌びやかすぎるこの世界で触れた時、何よりまずほっとした。
恐ろしさなど、感じるはずもない。
黒仮面の男は、出会った時はさすがに真っ黒すぎて、少し怖かったのは確かだ。
けれど、それは今思えば黒髪が怖かったのではなくて、状況とか雰囲気とかの問題だった。
奴隷紋刻印の話の頃から、何故だか妙に奴隷であるマルガリータに対して紳士的だったし、この屋敷の使用人全員から信頼を得ている人物である事も間違いないようなので、既に出会い頭の恐怖感はない。
と言っても会話らしい会話もなく、屋敷に着いた途端どこかへ行ってしまって以来会えてもいないので、まだ人物像が謎に包まれ過ぎていて、慕うことは出来ないが。
だが、見た目という容姿だけの印象で答えるのなら、マルガリータの記憶しかなかった以前ならともかく、真奈美の記憶も共有している今は、黒髪も黒い瞳も好きだし落ち着くので、嘘は言っていない。
「君は、変わっているな」
「褒め言葉として、受け取っておきます。だから、私は貴方のことも怖くありませんよ。それに、こんなに綺麗なお庭を作ることの出来る職人さんが、怖い人な訳ありませんし」
「……ありがとう」
庭師の青年の言う「黒仮面の男の事が、怖くないのか」という問いは、マルガリータにはそのまま「俺が、怖くないのか」に聞こえた。
(こんなに格好いい人でも、その抱える色だけで他人から忌避される人生を、送ってきたのかも)
奴隷という身分制度もそうだが、乙女ゲームの舞台の裏側には、思っていたよりも殺伐としている世界が広がっているのかもしれない。
マルガリータの言葉に、はにかんだ笑顔を返してくれた庭師の青年からは、もう最初に感じた冷たさは消えていた。
「もし許されるなら、私もこの庭園のお手入れを手伝わせて貰ってもいいですか?」
「それはもちろん、歓迎する」
「あ、でも旦那様に許可を頂けないと、難しいかもしれないのですけれど」
「ハーブの知識を持つ君の参加を、拒む理由がない。大丈夫だ」
「ですが、私は奴隷ですから……大切な庭を、触らせたくはないかもしれません」
「奴隷?」
やはりこの庭師の青年も、マルガリータの事を奴隷だとは認識していない様だ。
他の使用人達より気安い口調で対応してくれていたから、もしかしてと思ったのだけれど、単にバルトと同じような気軽なタイプか、もしくは黒仮面の男との距離が近いが故に、普段から敬語に不慣れなだけなのかもしれない。
「何故か皆さん私をどなたかと勘違いして、お客様のように扱って下さるのですけど、私は昨日旦那様に買われて、ここへ来たので」
「それは違……」
「マルガリータ様!」
庭師の青年が何か言おうとしたのと、屋敷の方からアリーシアがマルガリータを探す声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
マルガリータが、アリーシアの声がした方を振り返ったことで庭師の青年の言葉は途切れ、その先は紡がれることのないまま立ち消えてしまう。
「少し長居しすぎてしまったのかも。私、もう行きますね。お仕事の邪魔をしてしまって、ごめんなさい」
「いや、それは平気だが……」
「庭師さんのお名前を、伺っても?」
マルガリータはぺこりと頭を下げアリーシアの方へ向かおうとして、ふとまだ名前を聞いていないことを思い出し、身体を庭師の青年の方向へと引き戻した。
「……ディアン」
「ディアンさん、ですね。今度はぜひ、ハーブのお世話を一緒にさせて下さい」
「ディアン、で良い」
「ですが……」
「俺も、マルガリータと呼ぶ」
「……はい。ではディアン、また」
「あぁ、また」
庭師の青年は、少しだけ何かを考えるような仕草をして、ぼそりと名前を教えてくれた。
奴隷という身分である前に、例え身分の低い庭師なのだとしても年上の男性を呼び捨てるのはハードルが高かったはずなのに、何故か彼をディアンと呼ぶのはしっくりと馴染んで、気付くと頷いてしまっていた。
ディアンが他の使用人達と違って、マルガリータを様付けする事もなく、対等にマルガリータと呼ぶと宣言してくれたのが、大きかったのかもしれない。
(また、来られると良いな)
沢山のハーブが育つ庭園の手入れを手伝えるかどうかは、黒仮面の男次第ではあったけれど、マルガリータでも役に立てそうな事を見つけられたのは収穫だった。
何よりもこの世界で、ハーブについて語り合えそうな人物と出会えたのは大きい。
(お友達に、なれるといいんだけど……)
話した感じから、兄と年齢が近そうな印象だった。
二十代後半辺りだとすると、マルガリータとは少し年が離れている事になるけれど、真奈美とは近いから精神的には同年代だ。
この歳になって、しかも奴隷としてここに居るマルガリータが新しい友人を得ようとするのは、かなり難しい事なのかもしれない。
けれど、格好良すぎて多少気後れはするものの、どこか懐かしさも同時に感じることが出来て、一緒に居るとどこか落ち着く雰囲気のディアンとは、出来れば仲良くしたい。
(何にせよ、まずは黒仮面の男とちゃんと話をしてみないことには、始まらないわね)
アリーシアの元へと駆け寄りながら、マルガリータは今後黒仮面の男とどう交渉して、いかにこの屋敷で奴隷として少しでも楽しく過ごせるのかを思案し始めた。
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