第3話 いつもの街③

 僕の住んでいたところは山のてっぺんだったから、そこから出るためには険しい斜面を下りないといけなくて。だから僕は、外に出ようと思ったこともなかった。外にはなにがあるかわからなかったし、下手したら獰猛な動物に食べられてしまうかもしれないし、斜面を下りたあとも、何日も歩き続けないといけないって、ずっとそう言われてきたんだ。一人で運びきれないほどの水や食料が必要だけど、そもそも、そういうものを運ぶための水筒とか、カバンとかもなかったし。まあ、あまり出ようと思わなかったから、たとえそういうものが身近にあっても気づかなかったかもしれないんだけどね」

 なんだかおかしな話になってきた? と思いながらも、あからさまに信じていない様子に見えて、天野君が気を悪くして話をやめてしまうと困るので、真顔でうなずきながら話を聞く。

「ある日、旅人がやってきてね、それって、実は僕が初めて自分以外の人を見たときだったんだけど、彼は僕に、外の世界は僕が思っているような危険はないって言ってくれたんだ」

 だんだんと、不信感を顔に出さない自信がなくなってくる。天野君が気づいていなければいいと思うけど。

「彼は、ここと街とを隔てるようにそびえたっている山は実は幻で、越えようと思えば越えられるんだって言ってた」

 天野君は話に夢中で、そんな私の様子に気づく様子もなさそうだ。

「その旅人のおじさんは、地図をなくして道に迷って、僕のいるところにたどり着いたんだって。人が住んでいたから、とっても安心したんだって。おじさんは、食料と水が必要だったんだ。もう少しでどちらもなくなるところだったんだ」

「ふうん……」

「あれ、もうこんな時間だ。そろそろ帰りのホームルームが始まっちゃうね。ひとまず教室に戻ろう」

 天野君の話の情景が頭の中に思い浮かび始めていたところだったのに、突然現実の話になってしまい、え、と思う。

「ホームルームなんて、どうでもいいよ。こんな中途半端なところで終わられても困るよ」

「まあ、先は長いから、そう焦らないで」

「じゃあ、ホームルームが終わったら、また話してくれるの?」

「僕も、色々としないといけないことがあるから、続きは明日、また掃除が終わったらね」

 なんだか、不思議なことになってきた。


 私の席は窓際の一番後ろなので、クラスがよく見渡せる。

 前のほうに座っている天野君は、最近クラスに慣れてきたのか、授業中によく質問するようになってきた。

「先生、英語って、文法ばかり覚えてる気がするんですけど、それで本当に話せるようになるんですか? 話し方の勉強もしたほうがいいんじゃないですか?」

「化学の知識は面白いけれども、具体的に生活の中でどう応用しているのか、もう少し実用的なことを教えてほしいです」

 そんなことを授業中に質問する人なんていなかったから、みんな呆気にとられていた。

「天野、そういうのも大事だけど、授業ではそこまでする時間はないんだよ」

「授業って、受験勉強をするためにあるんですか? だったら受験が終わったら、今勉強していることってどうなるんですか?」

 先生はまあまあ、などと言って、けっきょくその質問には答えなかった。

 天野君はさほど空気が読めない人でもないようで、自分が変な目で見られていて、それが今後も変わることがないだろうことを悟ると、やがて質問しなくなった。

「来たばかりだから、ここのことがよくわかってないんだ。他にも変なことしてたら、教えてね」

 図書室で二人になったときに、にっこりしながらそう言った。うらやましいくらい素直な人だと思った。

「なんだ、図書室に色々あったんだね、僕達、すごいとこの掃除してんだね」

 そう言いながら、いつの間にか掃除よりも本のページを捲ることに忙しい。

「つまり、正解って一つじゃないんだよね。テストの問題の答えは一つだけど、実際には無数に答えが考えられる、先生は授業中に全部のことは教えられない、だって人によって思うことは違うんだもんね。

 そう言ってくれればよかったのにな」

「でも、天野君の言うことはそれなりに筋が通ってると思うけど」

「まあね」

 天野君は自分に確信を持っているようだ。

「旅をしてる時って、自分で何でも考えないといけなかったから。まあ、流れに任せてしまうときもあるんだけど。自分のことは自分で責任とらないといけないから、考えざるを得ないんだ。

 でも、こういうのにも憧れてたんだよね。学校に行って、勉強に没頭するって、これはこれでなかなか楽しいよね」

「天野君のいたところでは、学校はなかったの?」

 私もまた、彼のペースにはまりつつある。

「あったにはあったけど、僕は行く機会がなくてね。ここでは、どうやったら学校に入れるの?」

「よく知らないけど、対象年齢になった子供の家に、学校に入るようにって葉書がくるのかな……、あたり前すぎて考えたことなかったな。小学校、中学校は義務教育だし。天野君のところでは、そうじゃないの?」

「僕の家には、手紙の配達ってなかったからな。それでだめだったのかな。まあ、あんまり帰ってないんだけどね」

「帰ってないの? 手紙出したり、ああ、手紙はだめなのか、電話くらいはしてるの? 親御さんだって心配するよね?」

「僕の話、ちゃんと覚えてる?」

 てきとうに返事をしていることが見抜かれた。

「僕は、山の上にずっと一人で住んでたんだよ。親御さんなんて、見たことないよ」

「ずっと一人ってさ、子供にそんなことできるの? 一人だったら、言葉も覚えられないし、なにしろご飯の食べ方とか……、その前に、なにを食べたらいいかとか、なにもわからないんじゃないの? どうやって生ききたの?」

「そういうことは、樹が教えてくれたんだ」

 あまりの予想しなかった答えに、言葉に詰まる。

「僕に字の読み方を教えてくれたのは、樹なんだ。なにを食べたらいいか教えてくれたのも、まあ、樹だね。まあ、そこにいたときには、樹に成る実以外のものって特に食べてなかったな」

 おそるおそるうなずくと、天野君は懐かしそうに話し始めた。

「僕が五歳になったとき、樹は、洞に手を差し込むように言ったんだ。ぎりぎり届くところに、何か固いものがあるのがわかった。それは、書庫の鍵だった。僕が五歳になったらもらうことになってたものなんだって樹が言ってた。書庫の鍵を開けると、中には本棚があって、ここほどじゃないけれども、棚にぎっしりの本が詰まってたんだ。

 初めて見るものだったけど、なんだか重要なものなんだなということはわかった。汚れた手で触るとか、そういうことはしてはいけないような気がした。

 本を一冊樹の所へ持って行って、これはどう使ったらいいのか訊いてみた。

『これはね、あなたの仲間の人達が、考えたことや、思ったこと、覚えたこと、見たこと、そういった、誰かに伝えたいことを、こうして、絵や文章にして残したものなのですよ』

『誰かに伝えるの? なんのために?』

『私は、本を書いたことがないから、よくわからないです』

 樹は、本を書きたい人の気持ちはわからなくても、本の使い方は知っていて、文字の読み方を教えてくれた。見出しや段落を使って、言いたいことを少しずつまとめてわかりやすくしているとか、文字だけでわからないことは絵にして説明しているだとか、そういうことも教えてくれたんだ。読んでいるうちに、自然と本ってこういうもんなんだってわかってきた。ほかにすることもなかったから、あっという間に文字を覚えて、片っ端から本を読んでたんだ。

 実際見たことよりも、本を読んで覚えたことが多かったからかな、僕の知識ってどこか偏ってるってよく言われるんだよね」

 そうこうしているうちに、掃除の時間はすぐに終わる。あまりに掃除の時間が短くて、イライラしてしまう。


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