第20話「どうして」
健斗の部屋に転がり込んで二週間と少し。健斗は仕事の関係で帰りが遅く、杏里一人で過ごす事が多かった。
寂しいと思う事もあるが、忙しい人だと分かっていて付き合っているのだからと自分に言い聞かせ、一人である事を良い事にユキのMVを眺めたり、ライブDVDを見ながら一人で踊り続けたりと、壁の薄い自分の家では出来ない事をして楽しんでいた。
自分の家にユキ関連のグッズを全て置いてきてしまった為落ち込んでいたのだが、見かねた健斗がサンプルならあるよと言って、乱雑にブルーレイやDVDが詰め込まれた段ボールを渡してくれたのだ。
神様…と拝んだのは言うまでもない。
いつになったら帰れるのかと落ち込んでいる時間があるのなら、仕事をしている時には出来なかった事を存分に楽しんだ方が良い。
元々趣味だった小物作りをしてみたり、お菓子を作ったり、ちまちまと細かい作業をして時間を忘れてみる。
首や肩が痛くなったが、ゆっくりと出来上がる作品を見ていると達成感があった。
今日もユキの曲を流しながらクッキーでも焼こうと思っていたのだが、ふいにスマホが着信を知らせる。
何事かとスマホの画面を見れば、電話をしてきたのはゆかりのようだ。
「もしもし?」
『もしもし杏里?今元カレ来た!』
「え…嘘、大丈夫?」
『警察に連れて行かれたよ…』
「警察?!」
何があったのだとゆかりを問いただすと、ゆかりは盛大な溜息を吐きながら順を追って教えてくれた。
杏里と連絡が取れず、家にも帰らない為しびれを切らしたのか、信二は杏里の会社に押しかけて来たらしい。
「松本杏里を出せ」と大声で喚き散らし、男性社員や警備員に止められたのだが、何故だか砂川を杏里の恋人だと思い込んだようで、思い切り顔を殴りつけたそうだ。
「嘘…砂川さん大丈夫?」
『多分大丈夫だと思うけど、念の為救急車で病院行ったよ。傷害罪!って笑いながら警察呼んでる顔は滅茶苦茶怖かったけど』
「どういう事なの…」
詳しい事はいまいち分からないが、ゆかりの更なる説明によると、信二は駆け付けた警察にその場で逮捕され、連行されていったようだ。
これで安心かは分からない。だが、一度警察に相談しているし、杏里を出せと大騒ぎをしたのだからストーカーとして訴えるには充分だろう。
「ゆかりは何ともない?」
『無いよ!とにかく杏里に教えてあげなくちゃと思って電話しちゃったんだけど…ごめん、何か探されてるから戻るわ』
「うん、ありがとう」
ぷつりと切れた電話。通話終了と画面に表示されているスマホを握りしめながら、杏里はその場にへたり込んだ。
これで終わったのだろうか。念の為今の家は引き払い、新しく別の場所に引っ越した方が良いだろう。それよりも、職場に迷惑をかけてしまった事が本当に申し訳なくて堪らない。
自分が一人安全な場所に引き籠っていたせいで、砂川が怪我をしてしまった。顔を殴られたのなら、暫く仕事にも支障が出るだろう。客先には行けないし、もじも傷が残ってしまったら、どう詫びれば良いのか分からない。
思考が纏まらず、ぐるぐると目の前が回る。こみ上げて来た吐き気に耐えながら、杏里はぎゅっと目を閉じた。
◆◆◆
目を閉じているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。ハッと目を覚ますと、窓の外はオレンジ色に染まっていた。
スマホにはゆかりと砂川から連絡が来ている他に、会社からも着信があったようだ。
ゆかりと砂川は後回しにして、一先ず会社に電話を掛けた。どくどくと心臓が大騒ぎをして、手にもじっとりと汗をかいている。
「あ、あの…松本です。お電話いただいていたようで…」
『ああ、松本さんか』
電話の向こうから聞こえて来た上司の声。この声は部長だなとすぐに分かり、杏里は緊張しながら正座をした。
『君の…その、元恋人がね』
「はい…ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。砂川さんがお怪我をしたとお伺いしております」
『砂川はまあ…うん、軽傷だったから。後で連絡してみると良いよ』
歯切れの悪い部長の声を聞きながら、杏里は何の為に電話をしてきたのか、聞きたいような聞きたくないような気持ちで吐き気を抱く。
きっとゆかりが電話してくれたように、会社でこんな事がありましたと教える為だけに電話をしてくれたのだと思いたかったが、何となく思っていた通り、無情すぎる宣告をされた。
『ほら…うちは女性社員も多いからさ。君に非は無いって分かってはいるけれど…分かるだろう?』
「それは、辞めてほしいという事でしょうか」
『私たちからそう言うわけにはいかないけれど…』
部長はそれ以上何も言わないが、沈黙が辞めてほしいと言っているように思えた。
杏里に非は無いが、この先もこのような問題を起こされる可能性があるのなら、他の社員にも危険が及ぶ可能性がある。そんな人間をこのまま雇い続ける事は出来ないと考えられたのだろう。
「…明日、退職願を出しに行きます」
『ごめんね』
申し訳なさそうに言った部長がまだ何か話しているが、杏里の耳を素通りしているようで、何を言っているのかよく分からない。
信二のせいで、大好きだった仕事を失った。裏切ったのは信二の方なのに、どうしてこんな事になってしまうのだろう。
「…失礼します」
今はこれ以上、話をしたくなかった。
上司相手でも構う事なく、話を切り上げて電話を切り、そのまま床に突っ伏して泣いた。
悔しい、憎い。胸を満たす黒くて醜い感情を吐き出す様に、一人なのを良い事に声を上げて泣く。
私が何をしたのだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。気が済むまで泣き、落ち着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
◆◆◆
泣き腫らした顔で、杏里は静かに膝を抱えていた。何となくテレビを見る気にもなれず、スマホを見るのも嫌で、健斗が帰ってくるのを待っていた。
「ただいま…」
遠慮がちな声で帰宅を報せる健斗の声が聞こえた。今は何時だろうと周りを見渡しながら立ち上がった杏里だったが、リビングに入って来た健斗の後ろからもう一人男が入って来た事に気付き、誰だろうと動きを止めた。
「松本杏里さんですね」
「はい…」
「私、マネージャーの赤塚と申します」
丁寧に頭を下げ、名刺を差し出す赤塚と名乗った男は、名刺を受け取った杏里をじろじろと観察する。
神経質そうな顔をして、細いフレームの眼鏡を掛けた赤塚の視線が何となく嫌で、杏里は健斗に視線を向けた。
「ユキと交際をしているとお伺いしておりますが、本当でしょうか?」
「はい…そうですけど」
「ユキが今ライブを控えており、大切な時期である事もご理解いただいておりますか?」
「はあ…」
突然現れて何なのだと不愉快になったが、今の杏里は信二のせいで仕事も失いかなりの傷心中だ。出来れば放っておいてほしいのだが、赤塚にそのつもりは無いようで、大きな溜息を吐きながら杏里を睨みつけた。
「ニュースはご覧になりましたか?」
「いえ…見ていません」
「そうですか」
赤塚の隣で後頭部を掻いていた健斗が、徐にスマホを取り出し、何かを検索して杏里に差し出した。
—ユキ、高級マンションにて熱々同棲生活!
大見出しの文字を三度読んだ。書かれている文字を認識する事は出来たが、その言葉の意味を理解するまでに少々時間が掛かる。
「え…?」
「写真は撮られていないようですが、このようなネット記事が出ましてね。私も知らなかったので問い詰めたら…まさか本当に自宅に女性を住まわせているとは」
杏里はこの部屋に転がり込んでから一度もマンションの外に出ていない。信二を警戒していた事が一番の理由だが、もし万が一健斗と二人で歩いている時に騒ぎになるのが怖いというのも理由の一つだった。
記事に目を通すと、ユキが自宅マンションに交際相手であるA子さんを呼び寄せた…といった内容だった。何も知らないファンならば、あまりに情報量の少ない記事を鼻で笑うのだが、事務所としては鼻で笑うだけでは済まないのだろう。
赤塚が言うに、女性人気の高いユキが女性関連のニュースで騒ぎになるのは困る。まして、今は大きなライブを前にしているとても大事な時期なのだから、恋人だと言うのなら弁えろという事らしかった。
「ユキ、お前もだ。大事な時期なんだから、女に現抜かしてる暇なんか無いんだ。自分でも分かるだろう?」
「俺、別にドル売りしてるわけじゃないんですけど」
「だとしてもだ。既にSNS上では騒ぎになってる。この間の曲だって、もしかして恋人に向けた曲なんじゃないかと騒いでるファンだっているんだぞ」
それは本当の事だと言いかけた健斗を止めるように、杏里は声を張った。
「あの!…出て行きます。明日にでも」
「えっ」
「物わかりの良い方で安心しました」
完全にトドメだった。
元気な時ならば、いくら芸能人でもプライベートな事に首を突っ込まれる筋合いはない筈だとか文句を言えたのかもしれないが、ストーカー被害に遭い、数時間前に仕事を失った今の杏里の精神状態でのこの騒ぎは、冷静に物事を考える事が出来なかった。
「ちょ…待って、杏里ちゃん?自分の状況分かってる?」
「分かってるから出て行くんだよ。ごめんね、迷惑ばっかりかけて」
「俺がおいでって言ったから…ちょ、待とう。一回落ち着こう?」
引き攣った笑みを浮かべている健斗の後ろで、冷めきった顔をしている赤塚がフンと鼻を鳴らす。今にも泣きそうな健斗に何か言うでもなく、赤塚は軽く一礼をして出て行った。
「信二、逮捕されたんだ」
「は…?」
「さっき電話があって、うちの会社に乗り込んできたんだって。砂川さん殴って、その場で現行犯逮捕。そんで、こんな騒ぎになったのは私のせいだからってクビになっちゃった」
ぱたぱたと涙が零れ落ちる。みっともなく震えた声で何があったのかを説明するのだが、健斗の顔を見る事は出来なかった。
「何それ…意味わかんないんだけど」
「私も良くわかんないよ。ごめん、今ちょっと…一人にしてほしいかも」
心配そうに杏里の肩を掴んでいる健斗の手を押し退け、寝室へ籠城する事にした。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
健斗には沢山迷惑をかけてしまったし、一番恐れていたスキャンダルという迷惑までかけている。
情けない、悔しいと泣き続ける杏里の声は、外まで聞こえないように布団が受け止めてくれた。
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