第16話「覚えのないプレゼント」
寝坊して飛び起きるのは久しぶりだった。大急ぎで支度を済ませ、玄関扉を開いて飛び出した瞬間、それに気付いた。
扉を開いたすぐ目の前に、小さな箱が置かれているのだ。
何かネットで注文をしただろうか。置き配指定していた荷物を部屋に入れ忘れていたのだろうと一人納得し、杏里は小さな箱を玄関の中に投げ入れてから鍵を閉めた。
何を頼んだか全く思い出せないが、今はそれより遅刻の危機だ。走ればギリギリ間に合うか?と眉間に皺を寄せ、杏里は出来る限りの速さで駅まで走り抜く。
昔から朝には弱い方なのだが、元恋人が起こしてくれる事はもうない。一人で起きて、支度をして家を出なければならない。
いつまで経っても起きられない自分と、日頃運動をしていない自分に胸の内で文句を言いながら、信号が青に変わったばかりの横断歩道を駆け抜けた。
◆◆◆
「あーあー、朝から疲れてるね」
「自己新記録出したよ…」
何とか始業時間前にオフィスに飛び込み、杏里は自分のデスクでぐったりとしている。隣に座っているゆかりは呑気にパックジュースを飲みながら、そんな杏里の背中をぽんと叩いた。
「昨日遅かったもんね。もっと会社の近くに引っ越せば良かったのに」
「いやほんとそれ…何でそうしなかったんだろう」
引っ越しを考えた時、会社の近くを選ばなかったのは出来るだけ元恋人の知らない場所にいたいと思ったからだ。
会社帰りに待ち合わせをしただとか、一緒に電車で帰っただとか、そういう思い出を少しでも遠ざけたかったのだが、心が落ち着いて来た今は「何故その選択をしたのだ」と自分を呪いたい。
「ジムとか行った方が良いのかなぁ…前に比べて走れなくなってる」
「まず走る様な時間に起きるなってのは置いといて…ジム楽しいよ。モヤモヤする事があっても、運動してるうちに忘れられるし」
「脳筋かよ…」
ゆかり曰く、ジムでの運動は自分と向き合う事が出来るらしい。昔の自分に戻りたくないというのも理由の一つらしいのだが、なりたい理想の体型に近付けていると、自分が良い女になれたような気がするのだそうだ。
「推しのライブに行くときもさ、大勢の観客の一人でしかなくても、一番綺麗な自分で会いに行きたいじゃん?だからライブ前は頻繁に行っちゃうんだよね」
「意識高いオタクだ」
「最高の推しには最高の自分で会いに行くもんでしょ」
にんまりと笑ったゆかりは、仕事が早く終わったら今日も行くのだと言った。通っているジムは会社の近くだそうで、ジムで借りているロッカーにジャージ等を預けているそうだ。
「駅の方だから、杏里も行くなら丁度良いんじゃない?休みの日に行くってなるとちょっと面倒くさいかもだけど」
「そうだねぇ…普段は帰り遅くなる事の方が多いし…」
もし行くのなら自宅の近くかななんて事を考えているうちに、オフィス内の時計が始業時間を告げる。
簡単な朝礼をする為に集まり始めた社員の群れに紛れながら、杏里は疲れて丸まっていた背中をぐいと伸ばした。
最高の推しには最高の自分で会いに行く。
ゆかりの言葉が、何となく胸に刺さったような気がした。
健斗は背が高く、すらりとしている。顔も整っているし、誰が見てもイケメンというだろう。その隣に立つ自分はどうだろうか。太ってはいないが、細くも無い。昔は気にならなかったが、三十歳を目前にした今は何となく腰回りに見慣れぬ肉があったり、二の腕がぷにぷにしているような気がする。デスクワークが長いせいか姿勢も良くないし、こんな自分が健斗の隣に立っていても良いのだろうか、釣り合わないのではないかと若干の不安に襲われた。
業務連絡をしている上司の顔をぼんやりと眺めながら、今日の昼休みにでも調べてみようと考え、小さく溜息を吐いた。
◆◆◆
今日の仕事は順調だった。何が何でも早く帰ると朝から必死で手を動かした結果、定時退社とはならなかったが、夕飯時より少し前には退勤出来た。
昼休みにスマホでジムを調べてみたのだが、本当に通い続けられるか分からないのに月謝を払う勇気が無かった。
まずは日常生活に運動を組み込もうと、今度は帰りの電車内で筋トレ道具を探し始めたのだが、何が必要なのか分からず途中で諦めた。
無事帰宅し、やる事を済ませたらまた調べようと、杏里は炊飯器のスイッチを押す。炊けるのを待っている間にシャワーを浴びようと、杏里は服を脱いで何と無しに鏡を見た。
「うお…何だこれ」
普段まじまじと自分の体を見る事は無いが、久しぶりにきちんと見てみると思わず目を背けたくなった。
太ってはいないと思っていたのだが、やはり以前は無かった肉がそこかしこについている。気が付かないふりをしていたが、最近パンツがキツイと思う事もあった。
くるりと背中を見て、杏里は小さな悲鳴を上げた。
「尻…!」
後ろ姿が酷い。こんなお尻だっただろうかと口元を抑えてもう一度まじまじと観察してみるが、何度見てもしっかり垂れた尻となっていた。
デスクワークばかりでろくに運動もしていない三十手前の女ならばこうなるだろう。
もしかして元恋人が若い女に走ったのは、長年付き合っていて完全に油断している自分に呆れて、若くて綺麗な体に惹かれてしまったのでは?なんて事を考えて震えた。
このままでは、もしかしたら健斗に呆れられてしまうかもしれない。彼は仕事柄、綺麗な女性に囲まれているのだ。
「ごめん、やっぱり無理かも」
脳内の健斗がドン引きした顔でそう言い、杏里の喉がヒュッと鳴る。
へなへなと鏡の前でへたり込み、自分の腹の肉をぶにぶにと揉んだ。こんな感触は知らない。ゆかりも健斗も努力しているのに、自分は気にしなくて大丈夫だと何故思っていたのだろう。
こんな体を健斗に見せるわけにはいかない。彼は胸より尻派であると言っていた事を思い出し、何とかしようと決意を固める。
「ん…」
帰宅した時に部屋に持って来た、朝に見つけた小さな箱が目に入る。そういえば開けていなかったと思い出し、床に寝そべったまま箱を開いた。
何を買ったのか結局思い出せなかったが、見てしまえば思い出すだろうと、開いた箱の中身を取り出した。
「…うん?」
ビニール袋に包まれた、小さな熊のぬいぐるみ。何だこれ?と首を傾げたが、どれだけ考えても購入した記憶が無い。
ユキとコラボした商品ならばどれだけ高価でも購入するのだが、そういうわけではないようだし、そもそもぬいぐるみを好んで購入するタチでもない。
もしかして届け先を間違えているのではと慌てて箱を確認したが、おかしい。
起き配だとしたら、箱には必ず伝票が貼り付いている筈だ。だが、箱のどこにも伝票は貼られていない。
おや?と眉間に皺を寄せ、どういう事なのかを考えたがいまいち状況が掴めなかった。
もしかしたらこのアパートの住民に誰かがサプライズプレゼントのつもりで持ってきて、部屋を間違えて置いて行ったのかも?なんて考えてみたが、残念な事にアパートの住民とは顔を合わせる事すら殆ど無いし、ばったり出くわした時に軽く挨拶をする程度の関係でしかない。
「やっべー…」
自分宛ての物ではない荷物を開けてしまったと頭を抱え、このぬいぐるみはどうしようかと小さく唸る。
一先ず休日に交番にでも持って行こうと考え、手にしたぬいぐるみを箱に戻して立ち上がる。
今考えても分からない事は考えない。まずはシャワーを浴びて、食事を済ませて筋トレグッズを探すのだ。
◆◆◆
「…何で」
玄関を開き、杏里はそのまま固まった。
筋トレグッズは夜中に幾つか注文したが、注文して数時間しか経っていない朝に荷物が届くわけがない。
ちょこんと置かれた、小さな紙袋。杏里が好きな雑貨屋の紙袋である事は分かるが、どうしてそれが家の前に置かれているのかは分からない。
恐る恐る覗き込んでみると、中に入っているのは目覚まし時計の箱だった。わけが分からない。バクバクと跳ねる心臓と、小刻みに震える体が「怖い」と叫んでいるような気がした。
とにかくこれには触らない方が良いと思い、杏里は紙袋には触れずにそっと姿勢を正す。
「っ…」
アパートを見上げている誰かがいる。
杏里の部屋はアパートの二階の一室。外階段を上らなければならないのだが、玄関扉が見える位置に立っている男が此方を見ているのだ。
数日前の篠崎の一件を思い出す。会社の前に誰かいたと怯えていた彼女は、暫く恋人に迎えを頼むと言っていた。
「いやいや…まさかね」
こちらを見上げている男が足元にある紙袋を置いた人なのだろう。
部屋間違えてますよと言いたい気持ちをぐっと堪え、杏里は一度部屋に戻って昨日開いてしまった箱を持ってきて、紙袋の横に置いた。
出て来た所を見ていただろうし、部屋を間違えた事には気付いてくれるだろう。持って帰ってくださいと男を睨もうとしたのだが、男は既に居なくなっていた。
「…気持ち悪いなあ」
このアパートに住む誰かのストーカーか何かだろうか。若い女の人は自分以外に誰かいただろうかなんて事を考えながら、杏里はいつものように駅へと向かう。
耳に嵌めたイヤホンから流れるユキの曲。周りを歩いている人達も、これから電車に乗って仕事に行くのだろう。
今日も頑張りましょうねとおかしな仲間意識を持ちながら、杏里は昨日と違うゆったりとした足取りで歩き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます