第14話「失恋二人組」
恋人と過ごす時間を楽しいと思ったのはいつぶりだっただろう。散らかった健斗の部屋を片付けるのは骨が折れたが、綺麗になった部屋を見て健斗は大喜びしてくれた。
片付けさせてごめんと謝られたが、今度お礼をするからねと言った健斗の顔は、嬉しそうに綻んでいた。
「おーい杏里、帰ろうよ」
ぼうっとしていた杏里の背中をぽんと叩き、ゆかりは帰ろうと微笑んだ。
慌てて帰り支度を始めた杏里だったが、健斗と過ごしてから何だか浮かれているような、呆けているような気がしていた。
仕事はきちんと出来ているようだが、頭の片隅で健斗の事を考えている。本当に付き合いたての高校生カップルのようで、何だか気恥ずかしくなってきた。
「何か週明けからぼーっとしてない?何かあった?」
「え?!あ…いや、何も…」
「ほーん?嘘を言っている顔だね」
ニヤニヤと口元を緩ませ、ゆかりは背伸びをして杏里の肩に腕を回す。別に悪い事は何もしていない筈なのに、後ろめたいような気分になっていた。
「前に言ってた長年のお友達と、何か進展あったとか?」
「…いや、その」
「あったなこれは!」
興奮気味にバシバシと背中を叩くゆかりは、ニヤニヤとした笑みを絶やさない。やめてくれと背中を丸めて抗議してみても、ゆかりの顔には「説明しろ」と大きく書かれているような気がした。
「相変わらず仲良いな二人共」
呆れ顔の砂川に声を掛けられ、女二人はそちらを振り向く。杏里はげんなりとした顔、ゆかりはニヤニヤとした顔のままだった。
◆◆◆
三人で飲むのは久しぶりだった。
杏里が元恋人と別れたばかりの頃はよく三人で飲みに行き、落ち込んでいる杏里を励ます会を催して貰っていたのだが、落ち着いて来てからはゆかりと二人で飲みに行く事が多かった。
「で、何を盛り上がってたんだ?推し活か?」
呑気にビールを飲みながら言う砂川の隣で、ゆかりはワクワクとソワソワしている様子を隠さない。
早く話せと視線で訴えられ、杏里はどこからどこまで説明すべきかを考える。
「そのぉ…彼氏が、出来まして」
「えっ」
もごもごと歯切れの悪い言い方をする杏里の向かい側で、小さく声を漏らして動きを止めたのは砂川だった。
「お、おめでとう」
視線をうろつかせ落ち着かない表情だが、祝福してもらえた事で杏里は「ありがとうございます」と言葉を返す。
砂川の隣で気まずそうな顔をしているゆかりの表情の意味は分からないが、何だか居心地の悪い今は早く話題を変えたいなという事しか考えられなかった。
「超おめでたいじゃん!」
目をキラキラとさせるゆかりは、テーブルに身を乗り出す。事情を知っているくせにと言いたくなったが、一緒に座っている砂川は何も知らない。
砂川も気まずそうな顔をしながらビールを飲んでいるが、興味が無いわけではないようで、伺うような視線を杏里に向けている。
「どんな人なんだ?」
「…とても、優しい人です」
健斗の事を詳しく話す事は出来ない。どこまで話して良いのかも分からない。二人に嘘は言いたくないが、誤魔化せる程口が上手いわけでもない。それならばいっそ、話さない方が良い。
「それじゃ分からん。もっと詳しく」
「そんなに気になる事かね」
「だってほら…色々あったし?」
心配してくれているのは何となく分かる。分
かるのだが、新しい恋人は少々訳アリなのだ。
「今回の相手は、大丈夫そうか?」
真直ぐに、心配しているような目。
ぎゅっと唇を引き結んだ杏里は、散々な目に遭った以前の恋人を思い出して目を閉じる。
—後輩が妊娠したんだ。俺の子
そう言ったあの時の彼の顔を忘れる事が出来ない。
後ろめたいと思ってもいない、これは当然の事だとでも言いたげな顔をしていた彼の顔を今でも夢に見る。
「信じたいと、思える人です」
健斗ならば大丈夫、そう信じたい。
十年も一途に思い続けてくれていたのなら、これから先も自分だけを見てくれる。大切にしてくれると信じたかった。
「そうか…幸せにな」
にっこりと微笑んだ砂川に、杏里も穏やかに微笑む。事情を知っているゆかりは余計な事を言わないように気を遣っているつもりなのか、口を開かず黙って座っている。
いつかきちんと話さなければ。隠し事をしているような気持ちで何だか心苦しいが、今はまだ、新しい恋人は大丈夫だとだけ伝えるに留めた。
◆◆◆
杏里が駅に向かって歩き出し、砂川とゆかりは二人で歩く。送って行くと言い出したのは砂川だが、ゆかりは砂川が今は杏里の顔を見られないのだろうと何となく察していた。
「…大丈夫ですか?」
「何が?」
「その…杏里の事、好きなんですよね?」
つまり砂川は今失恋したばかりなのだ。何でも無さそうな顔をしてはいるが、内心落ち込んでいるのではと心配になった。
そっと顔を見上げるゆかりは、どう励まそうかと考える。
「あー…まあでも、好きな子が幸せならそれで良いよ。元々恋人になりたいとか、そこまで考えてなかったし」
へらりと笑う砂川は、大丈夫だと付け足してゆかりを見下ろす。
その表情が痛々しく見えて、ゆかりはぎゅっと拳を握りしめて口を開いた。
「私じゃ、ダメですか」
「は…?」
「杏里の代わりにはなれないかもしれないですけど…私、砂川さんが好きです!」
一世一代の告白のつもりだった。
失恋したばかりの、弱った心につけ込むようなタイミングになってしまったが、一緒にいたいという気持ちは本当だ。
「その…ごめん、何て言ったら良いか」
ああ、困らせている。そう理解した瞬間、ゆかりは今すぐに消えたいと顔を俯かせた。
何故今言ってしまったのだろう。勢いに任せて口にしてしまった言葉を、今すぐに喉の奥に戻せたらと願うのは、おかしな事だろうか。
「すみません、私…杏里がどんな話をするのか分かっていて、砂川さんが一緒に来るのを止めなかったんです」
オフィスで砂川を飲みに誘ったのは杏里だった。色々と心配を掛けたから、きちんと報告する為に一緒に来ませんかと誘ったのだが、ゆかりはそれを止めようと思えば止められた。
今日は女子会とでも言えば、きっと砂川は無理についてこようとはしないだろう。
ただあの時は、これで砂川の杏里に向ける想いを断ち切る事が出来ると思ってしまった。
諦めてほしい、少しでも良いからチャンスが欲しい。そう思って止めなかった。
「気を使わせて悪かったな」
苦笑した砂川は、ぽんとゆかりの背中を軽く叩く。歩き続ける二人の足音は止まらない。
家の近くまで送ってもらおうと思っていたのだが、今はもう砂川と二人きりで過ごす時間に耐えられそうにない。
「今はまだ、同じアイドルが好きな仕事仲間としか思えない」
「そう、ですか」
「でも気持ちは嬉しかった。少し…考えても良いか?」
可能性が無いのなら、いっそのことはっきりそう言ってほしかった。
優しい人だから、傷付けないようにやんわりと断られたのだと思った。溢れてしまった涙をどうにかして止めようと、ゆかりは鼻から大きく息を吸い込み、肺を膨らませて顔を上げた。
「私諦めが悪いので!今後もでみ活誘いますから!」
「おう、誘ってくれないと寂しい」
「気まずいとか思わないでくださいね!ガンガン誘いますし、アタックしますから!」
「…そこまで堂々と言われると、ちょっと面食らうというか」
「迷惑だったら正直に言ってくださいね。その時はすっぱり諦めて、でみ仲間兼職場の後輩のままでいますから」
涙で濡れた顔のまま微笑み、ゆかりは堂々と胸を張る。
昔の自分から変わったのだ。あの頃の、背中を丸めて縮こまっているだけの女じゃない。
好きになった相手に想いを告げる度胸は付いた。それが叶うか叶わないかは別として、昔の自分から変われたのだという自信は持てた気がした。
「うん、わかった」
「でも今日は落ち込んでるんでここで帰ります!送ってくださってありがとうございました!」
ぺこりとお辞儀をして、ゆかりは砂川を置いて走り出す。踵の高い靴でよく走れるねと杏里に言われた事があるが、今日もいつも通り全力疾走だ。
置いて行かれた砂川は呆けているが、それを知らないゆかりは、また溢れて止まらなくなった涙で頬を濡らしたまま走り続けた。
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