第9話「これは恋なのでしょうか」
—暇だったら相談に乗ってくれないか
そんなメッセージが届いたのは、朝早くの事だった。折角の日曜日だというのに、砂川から届いたメッセージで目が覚めた。
ゆかりは終電まで喋り続け、杏里が眠りについたのは真夜中になってからだった。
現在時刻は朝八時。普段よりは随分遅い目覚めだが、もう少し眠っていたかったなぁと大きな欠伸をしてスマホを取った。
—特に予定は無いです。どうかしました?
仕事の相談ならば、きっと仕事中にしてくるはずだ。そうではない、プライベートな話題だから、わざわざ休日に連絡をしてきたのだろう。
返事をすると、すぐさま既読が付いた。もしかしたらスマホを手に持ったまま固まっていたのかもしれないが、そんな砂川を想像してみると何だか面白い。
—昼は奢る。
成程、それならばとびきり良い物を食べさせてもらおうと、杏里は「待ち合わせは何処ですか」と返事をした。
出かける予定など無かった筈なのに、今からせっせと支度をしなければならない。昨日は風呂にも入らず寝てしまったし、大急ぎでシャワーを浴びて化粧をしなければ。
大きな伸びをしてベッドから降りると、杏里は眠たい目を擦って脱衣所へ向かった。
◆◆◆
「…何か、疲れてます?」
待ち合わせ場所にしていた焼き肉屋に到着すると、疲れ切った顔の砂川が「よう」と片手を上げる。
何故昨日も休みだった筈なのにこんなに疲れているのだろう。ライブの後で興奮していて眠れなかっただとか、そういう事だろうか。
「ちょっと…考え事をしてたら眠れなくて…」
「考え事…ですか」
既に幾つか注文を済ませているが、まだ昼間である為酒を頼むのはやめておいた。砂川も同じようで、二人揃ってウーロン茶を飲んでいる。
「昨日、山内とライブに行ったんだ」
「ああ…ゆかりからも聞いてます」
「…山内、何か言ってたか?」
「何か、とは」
ちびりとウーロン茶を飲む杏里に、砂川は気まずそうな顔をして俯いた。普段堂々と胸を張っている男が小さくなっている姿を見るのは新鮮な気分だ。
「ライブの後、感想戦しようって事でカラオケに入ったんだ」
ぽつぽつと話し始めた砂川は、話しているうちにゆかりが突然帰ってしまったと困り顔で言った。
何か気に障る事を言ったのだろうかと不安げな顔をしているが、どうして帰ってしまったのかを話してしまえば、ゆかりが砂川に想いを寄せている事をバラしてしまう事になる。
「いやあ…砂川さんは悪くないと思いますけど」
悪いか悪くないかで言えば悪くない。
だが、ゆかりから話を聞いている杏里は、今この場で砂川にどんな顔をしていれば良いのか分からない。
居心地悪いなあなんて考えながらグラスを置くと、砂川はぐいとテーブルに身を乗り出して杏里の顔を凝視した。
「嫌われたくないんだ!」
「え」
「俺がでみだって知っても、引くどころか喜んでくれたんだ!良きでみ友としてこれからも一緒に推し活したいんだよ!」
必死の形相だが、その言葉は今のゆかりには嬉しくない言葉だろう。
さてどうしようと考え、杏里は少し身を引きながら笑った。
「えっと…多分ゆかりも砂川さんとライブ行けるの嬉しいと思います。昨日も超楽しかったって言ってましたし」
「本当か?それなら何で…」
「元々、ゆかりって男の人に慣れてないんです。だから、多分ライブで大興奮して、二人きりでカラオケって密室じゃないですか?緊張が限界で逃げちゃったのかなー…なんて」
苦しい。これは絶対に苦しい!と内なる杏里が叫んでいるが、砂川は「そうか…」と小さく呟いて座り直す。
何か考えているようだが、杏里はどうにかして昨日逃げ出した言い訳をしなければと考える事に必死だった。
「山内って、男慣れしてると思ってた」
「失礼な」
「だって、山内可愛いだろ?あ、これもしかしてセクハラか?」
慌てて口元に手を当てた砂川に、杏里はずいと体を寄せる。
可愛いという言葉は本当だなと問いただしたいが、焦ってはいけない。
「ゆかりはですね、めーっちゃ努力してる子なんです」
「そ、そうなのか?」
「そうです!週三でジム通って、毎日カロリー計算して食事をしてるんです。スキンケアだって、季節に応じてケア用品変えてるんですからね」
これは全て昨日ゆかりから聞いた事だ。日々せっせと自分の手入れをして、もう絶対にあの頃には戻らないぞと頑張っているらしい。
「毎日きっちり化粧して、髪の毛巻いて、服だって流行りのものリサーチして自分に似合うもの着てるんです!ゆかりの可愛いは努力の賜物なんですよ!」
「お、おお…女の子は色々大変なんだな…?」
突然杏里が力説し始めたせいか、砂川は若干引いている。本当にゆかりはよく頑張っているし、その努力が実を結んでいる。
可愛いと言われる事は嬉しいと昨日も言っていたし、可愛いと言ってもらえる自分が好きだし、そういう自分になれた事が嬉しいのだとも言っていた。
「あれだけ可愛いですけど、自分を磨いて推し活するばっかりで男の人とどうこうなるとか無いんですよ!」
「そうなのか…何か悪い事言ったな」
申し訳なさそうな顔をしている砂川に、少し熱が入りすぎたと杏里は反省しながら座り直す。こほんと小さく咳払いをして、もう一口ウーロン茶を飲んだ。
「そうかあ…じゃあ、嫌われたとかじゃなくて、緊張してて逃げちゃったんだな」
「多分!そうだと!思います!」
信じただと!!
内なる杏里が有り得ないと叫んでいるが、素直に信じてくれたのならこれ以上の事はあるまい。
「絶対喜ぶと思うんで!また誘ってあげてください!」
「お、おお…分かった、そうする」
ふんふんと鼻息の荒い杏里の前に、いつの間にか来ていた店員がタンを置いた。一人で元気な杏里に変な表情をしているが、取り繕う事は出来なかった。
◆◆◆
折角の休日に職場の上司と食事に行っただけではつまらない。食事を終えて解散したが、何となく真直ぐ帰る気にはなれず、杏里はふらふらと街を歩く。
買い物をしようにも、別に欲しい物は無い。生活必需品を買うのなら家の近くで済ませれば良いし、服を眺めてみても心惹かれない。
大人しく帰れば良かっただろうかと若干の後悔をし始めた時、杏里はふと目に入った看板を見て立ち止まる。
ユキの大型看板は、交差点からよく見える位置に設置されている。ファンが写真を撮ってSNSにアップする事も多く、杏里も設置されたばかりの頃に撮影しに来ていた。
相変わらず綺麗な顔をして、ユキはにっこりと微笑んでいる。迎えに来たよとキャッチコピーが書かれた、この間配信されたばかりの新曲用に作られた看板。まさか迎えに来た相手が自分だとは思わなかったが、何も知らずにあの看板を眺めていられたのなら、もしかしたら胸を高鳴らせていたのかもしれない。
ゆかりは久しぶりの恋を諦めないと言った。応援してほしいと言った。杏里も、応援するから頑張れと言った。
では自分は?
好意を向けられる事には慣れていない。それが誰であろうと、きっと一歩引いてしまう。
いつまでも別れた恋人の事を忘れられず、引っ越しも済ませたというのに夢に見る程しっかりと存在を刻み込まれている。
元恋人を忘れる事が出来たなら、健斗の手を取る事が出来るのだろうか。素直に、真直ぐに好きだと言ってくれるあの優しい人を、愛する事が出来るのだろうか。
いつまでもユキの看板を眺めた。信号はとうに変わっているのに、立ち止まり続ける杏里に通行人たちは怪訝な表情を向けた。
—杏里も、頑張ってね
昨日ゆかりが帰り際にそう言った。何をどう頑張れば良いのかは分からないが、自分から連絡するくらいはしても良いと思った。
スマホを取り出し、いつものSNSを開く。DM画面を開き、するすると文章を綴る。
—今暇?
たったそれだけの文だったが、健斗はすぐに返事をくれた。
—休憩中!どしたー?
特に用事があったわけでもなく、ただ思い付きで送ってしまったが為に、続きの話題をどうすべきか頭を悩ませる。
暇だったから?何となく?
どう送ろうと考え、悩んだ末目の前にあった看板の写真を撮ってそのまま送った。
—看板見てたから、何となく
—やだあ、俺イケメン
なんじゃそらと小さく噴き出し、杏里は「新曲人気ですなぁ」とまた返す。
いつまでも信号待ちのままでは邪魔になるからと端に除けている間に、健斗から何やらQRコードが届いていた。
—追加してね
どう見ても定番メッセージアプリの友達追加用のものだろう。そちらの方がやり取りしやすいのならと、杏里は大人しく健斗を友達追加し、「やっほう」とだけ送った。
すぐさま付いた既読。何か返事が来ると思っていたのだが、来たのは電話だった。
「もしもし?」
『やっほー!文字打つより早いかなと思って』
聞こえてくる聞きなれた声。ドキドキと胸が高鳴るのは、ユキの看板を見ながらユキの声を聞いているせいなのか、それとも想いを寄せてくれていると知っている相手からの電話だからなのか、それとも別の理由があるのか分からない。
『今日休み?』
「うん。さっきまで職場の先輩とご飯食べてた」
『良いなー。何食べたの?』
「焼肉。ご馳走してもらっちゃった」
ぽんぽんと続く会話。話していて楽しいと思うのは、顔を合わせていてもいなくても変わらない。
「健斗さんは、今何してるの?」
『俺?今ねー、レコーディングしてた。丁度休憩でさ』
「あ、待って情報解禁まだなら詳しく話さないでね!公式発表待ちたいから!」
『律儀なオタクめ…分かった、秘密ね』
休憩なのならば、付き合わせていないで休ませてやった方が良い事は分かっている。まだ話していたいというのは、杏里の我儘なのだから。
「ごめんね、休憩中に…喉休めた方が良いでしょ」
『俺が話したくて電話してるから気にしないで。あー…でもそろそろ戻れって…』
「じゃあ戻って。また連絡するね。お仕事頑張って」
『なんかめっちゃ頑張れそうな気がする!良い曲に仕上げるから楽しみにしてて』
それじゃあねと言い合って、杏里はそっと終話ボタンをタップする。
ドキドキと煩い胸を落ち着かせるように、静かに深呼吸を繰り返す。看板のユキは変わらず微笑んでいるままだし、先程まで電話をしていたせいで、耳には健斗の声が残っている。
健斗の声というべきなのか、それともユキの声というべきなのか分からないが、今は健斗の声だと思っていたかった。
推しであるユキと電話をしたのではなく、健斗と電話をした。また声が聞きたい。DMでのやり取りでは無くて、メッセージアプリを教えてもらえた。これで文でのやり取りだけではなく、電話もする事が出来る。それが嬉しかった。
「…帰ろ」
この浮ついた気分のまま帰りたい。いつもならイヤホンを嵌めてユキの曲を聞きながら電車に乗るが、今日はユキ以外の曲を聞く事にした。
今はまだ、健斗の声を耳に残していたかった。
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