第7話「オタクの休日」
推しを応援するのは、ファンならば当然の事。ネット上で配信をしているのなら、すぐさま駆けつけるのも、当たり前の事だ。
「それでねー、この間母さんから送られてきたんだけど…見てこれ!」
画面の向こうで笑っているユキこと健斗は、段ボールに山ほど入った食糧を見せている。
一人暮らしを始めた頃と同じように息子を心配しているのだろうが、もうそこまで心配しなくとも充分食べていけるだけの男になれたと笑った健斗は、画面に向けてひらひらと手を振った。
「母さん見てるー?息子こんなに食べられない!」
箱の中身の殆どはレトルト食品のようだが、その他にも米まで送ってくれたようで、がさごそと音を立てながら引っ張り上げていた。
「俺自炊あんまりしないからすっごい助かるんだけどね!今度誕生日にプレゼント贈るからねー、欲しいもの決めておいてねー」
微笑ましい姿に口元を綻ばせた杏里は、スマホを眺めながら水を飲む。ユキは昔から親を大切にするとファンの間で有名だった。
父親を早くに亡くしている為、女で一人で育ててくれた母を心から愛している。母の日や誕生日には必ず贈り物をしているし、何を贈ったら良いかな?とファンに問いかける事もあった。
「あ、母さんから連絡きたわ」
嬉しそうな顔をして、スマホを弄るユキが口元を緩ませる。文面を読んだのか、けらけらと笑いながらスマホを置いた。
「ティファニーのネックレスが欲しいって!母さんティファニーで朝食を好きだもんなー。俺見た事無いんだけど…」
コメントでは「お母さん良いなあ」だとか、「私も見た事ないー」なんて言葉が並んでいる。杏里も映画は見た事が無いし、ハイブランドもさして興味が無い。
仕事の都合上ブランドには詳しくなければならない筈なのだが、そんなお金があるのなら、推しに貢ぎたいと思ってしまうのだ。
「あの女優さん誰だっけ?」
名前が思い出せないのか、ユキはコメント欄を眺めながら誰かが教えてくれるのを待つ。
「オードリーヘップバーンでしょ?」というコメントに反応し、「それだ!」と手を叩いた。
「あの女優さん綺麗だよね!名前思い出せなくてアレなんだけど」
へらりと笑って、そのまま自分が好きな映画の話だとか、最近気になっている映画、面白かったドラマの話などが続く。
そういえば昔から健斗は映画が好きだったと思い出し、杏里は何となく懐かしい気分になった。
「今度見たい映画があるんだよねー。ネタバレにならない程度に感想戦するから、皆も見てみてねー」
そろそろお終い!と、ユキはばいばいと手を振って配信を止める。不定期開催土曜日ライブと題されたライブは、大体一時間程のライブだったが、ファンにとっては大切な時間。
舞台上で見る推しよりも、画面上で見る推しの方が、何となく距離が近いと思える。
コメントを打ち込む事が出来るし、運が良ければ反応も貰える。オフに近い推しを見せてもらえるし、舞台上には届かぬであろう「大好きだよ」という推しへの愛を伝える事が出来るような気がした。
ユキもネットライブを大事にしている。ファンの皆と話せる気がするからと、随分頻繁に行っているし、時折SNS上で話題を募っては、またライブを開いてその話題について話す事もある。先日は「サンタさんは何歳まで信じてた?」という話題だった。アンケート機能を使い、幾つかの選択肢があったが、杏里は「小学校低学年」という選択肢を押していた。
配信終了と映し出されている画面を見つめながら、杏里はぼんやりと考える。
画面で見る健斗は、ユキにしか見えない。いつだって顔を見れば胸が躍るし、楽しそうに話している姿を画面越しに見るだけで嬉しくなる。
健斗と親しくなり、ユキに対する気持ちが萎んでしまうのではないかと心配していたのだが、どうやらそれは心配いらなかったようで、ユキはユキとして今まで通り推していくつもりだ。
ただ、健斗との関係はどうしたら良いのか分からない。友人としての付き合いはもう十年続いていると思っている。この先もこのまま仲良くしていけたらなと思うのだが、健斗は友人ではなく恋人としての関係を求めている。
その想いに応えるには、覚悟が無かった。
健斗の事は好きだ。それが恋情なのか友情なのかは別として、好きな人間ではある。この先も共にいたい。
だが、自分が隣に居る事で、健斗ではなくユキに迷惑がかかるのではないかと考えてしまうのだ。
ユキは今人気のアーティスト。女性のファンも多いし、もし万が一スキャンダルにでもなったら仕事にも影響が出るかもしれない。
今まで他の有名人の数多くが、恋愛事で大炎上するところを見て来た。どれだけ有名人であろうが人間なのだから、誰と幸せになっても良いじゃないかと思っているのだが、杏里のような考え方の人間ばかりではない。
自分のせいで、ユキが炎上したら。
そう考えると、どうしても怖い。ユキは健斗であり、健斗はユキ。別々の人間であるような気がしていても、切り離せないのだから。
◆◆◆
「ねえ杏里、ちょっと良い?」
ゆかりからそんな連絡が来たのは、ユキのライブが終わって一時間程経った頃だった。どうかしたのかと返事をすると、今から行くと連絡が来た。明日も休日だし拒む理由も無いのだが、もう夜も遅いのにどうしたのだと心配になった。
インターホンが鳴ったのは、それから約十五分ほど後の事。近くまで来てから連絡したのだなと溜息を吐いたが、涙目のゆかりを慰める方が先だ。
「どしたの…」
「ちょっと…あの、色々あって…!」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、ゆかりは玄関で涙を零す。詳しく聞かせてもらおうと、杏里は早くお入りと宥めながらゆかりの手を引いた。
居間に連れて行き、いつもの場所にゆかりを座らせてからお湯を沸かす。外は寒かっただろうし、触れた手がとても冷たかったのだ。
「ティッシュ、いつもの所だから使いなー。着替える?スウェットしかないけど」
「ありがと…」
棚にしまっていたマグカップを出しながら着替えるよう促すと、ゆかりは慣れた様子で隣の寝室へと入って行く。見られて困るものは無いし、来た時に使って良いよとゆかりの物を置くスペースがあるのだ。
「あっち」
沸かしたての湯をティーパックを入れたカップに注ぐ。少し跳ねた湯が手に触れたが、火傷をするほどではない。ちゃぷちゃぷと適当にティーパックを動かして砂糖を入れた。くるくると混ぜているうちに、着替えたゆかりが戻ってくるのが見えた。
「はいどーぞ、熱いから気を付けてね」
「ありがと…」
「で、どうしたの?」
少し落ち着きを取り戻していたゆかりだったが、何があったのか事情を説明しようと口を開くと、徐々に目尻に涙が溜まる。
声を震わせながら言葉を紡ぐゆかりが何を言っているのか、聞き取るのは難しい。
何とか聞き取れた部分を掻い摘んで理解すると、砂川と色々あったらしい。
「好きな子、いるって」
「おお…成程」
先日ゆかりは、砂川が好きなのだと話してくれた。ずっと優しい先輩だと思っていたのだが、昨年仕事で助けてもらってから意識するようになり、今は完全に惚れてしまっているらしい。
「無理…ほんとに無理…」
「諦めるのは早くない?好きってだけで、付き合ってるとかじゃないんでしょ?」
「そうだけど…でも勝てない相手なんだもん」
「知ってる人なの?会社の人?」
泣きじゃくり、それ以上話そうとしないゆかりの背中をそっと摩りながら、杏里はどう慰めようかと考える。
確か今日は砂川とライブに行く予定だっと聞いているのだが、楽しかったと話を聞くつもりだったのに何があったのだろう。
「ていうか、告ったの?」
「そんな勇気無いよ!勝ち目ないのに!」
ぐすぐすと泣いているゆかりが落ち付くまで、杏里は黙って背中を摩ってやる事にした。
きっと落ち着いたら吐き出したくなるのだろう。そうなったらきっとお腹も空くだろうし、何か作ってやって、摘みながら聞いてやろう。冷蔵庫には何が入っていただろう。何も無かった気がする。ぼんやりとそんな事を考えて、杏里はそっとティッシュを差し出した。
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