Iの遺書

九十九春香

一「姉からの辞令」

         一


「高校生活といえば青春。部活、勉強、委員会など三年間の全てを賭け、何物にも代え難い日々が得られる」と何処かで聞いたことがある。

 しかし俺はそうは思わない。中学時代から高校生活に期待なんてした事は一度もない。何をしても一番にはなれないし、運良くなれたとしてもすぐに後ろから抜かされるのがオチだ。代え難い日々など、俺には必要ないのだ。

と、あの時の俺はそう思っていた。今思えば恥ずかしい。勝手に決めつけ、悲観し、全て分かった気でいたのだ。

 少し自分を小馬鹿にするように笑いながら、俺は席を立った。手には"卒業証書"と書かれた本がある。

 俺はゆっくりと、徐々に暖かくなり始めた日差しを受けながら、昇降口に向かって歩いていく。不意に少し先から声が聞こえてきた。聞き慣れた、心地の良い声だ。

 きっとあの頃の俺が聞いたら鼻で笑われるだろう。嘘をつけと。しかし、俺は確かに手に入れたのだ。「何物にも代え難い日々」というやつを。

 俺は声の方に歩を進めながら悪戯に笑うと、あの懐かしい日々の事を思い出していた。





 虚しい。実に虚しい。

 俺は静かな廊下を抜け、昇降口で靴を履き替える。

 毎日毎日同じ事の繰り返しの日々。朝起きて、学校で授業を受け、家に帰る。この繰り返しだ。

 効率の良さを重視する俺にとっては、家事をやらねばならない為すぐに帰れるのは良いことだ。だがここまで代わり映えのない日々には流石に呆れてしまう。

 俺はため息をつきながら昇降口を後にする。すると、後ろから覚えのある声に呼び止められた。


「おーい! 待てよー」


 俺は立ち止まる事なく、昇降口から離れた場所の校門に向かって進んでいく。しかし、声の主はそれを見越していたのかスピードを緩める事なく、俺の隣に並んだ。


「ふう、追いついた」


 声の主、四橋よつはし嵐士あらしは一呼吸だけで息を整えると、いつも通りの満面の笑みで語りかけてきた。


「よお! 珍しいな、この時間に春馬はるまがいるのは」

「そうか?」

「そりゃそうだろ! 春馬といえば、いつも特に用事も理由もないのに、退屈そうに放課後の教室で本を読んでるだろ? だから今日みたいに放課後すぐに家路につくなんて驚きを隠せねぇよ!」


 放っとけ。お前に言われんでも意味がないことくらい分かってる。

 俺は心の中で言い返しながら、口にはしまいと紡いだ。理由は簡単だ。この男にそんな事を言っても無駄だからだ。

 この四橋嵐士という男は、我が旧友にして悪友。平均より一回り高い身長で常日頃から誰彼構わず愛想を振り撒きまくっている変人だ。成績こそ俺と同じくらいだがとにかく運動神経が良い。中学時代に助っ人として参加した陸上の大会では、大会記録を引っ提げて帰ってきた程だ。

 しかし、運動部には所属していない。昔理由を尋ねた事があったが、「運動は好きだけど、勝負事は嫌いなんだよな」と言っていた。きっと50m走9秒台の俺には分からない理由があるのだろう。

 そんな人気者の超人さんは、俺に対してはまあ口が減らない減らない。口を開けば、屁理屈、言い訳なんでもござれ。しまいには「春馬が俺をそうさせるのさ」ときたものだ。だからそんな男に何を言っても無駄なのだ。

 そんな、嵐士に負けず劣らずの言い訳を心で反芻していると、嵐士は鞄から一つの紙を取り出した。利き手でひらひらと紙を振ると、嵐士はさっきとは違って少し悪戯に笑い出した。


「今時間あるか?」

「ない」

「つれねえな」


 嵐士はそう言って、諦めた様な口振りを見せながら俺の動きを静止するように手を出す。ここまでして止めるならさっきのはなんの茶番だ。

 効率の悪いやり方で止めてきた嵐士に呆れつつ、俺は得意気に出された紙に目を通す。


「なんだこれ」

「見れば分かるだろ」


 目の前に出された紙には【生徒会立候補】と書かれている。


「分かった上で聞いてる」

「効率の悪い聞き方をするなよ。「立候補するのか?」って聞けばいい」


 その通り。そう聞けばいいのは分かっている。しかし、なにか嫌な予感がするから聞きたくない。

 俺はその予感が的中しないように祈りながら歩調を速めた。しかしまたしても嵐士の大きい手は俺の行く末を阻む。


「なんだよ。お前が立候補するのに俺は関係ないだろ」

「いやいや、もう気づいてるんだろ? 回りくどいな」


 回りくどいのはどっちだ。それならさっさと用件を言え。

 俺の苛立ちが伝わったかようやく嵐士はもう一枚の用紙を鞄から出して言った。


「一緒に生徒会に入ろうぜ」

「断る」

「早いな」

「いや、時間を取らせたな。俺は生徒会には入らないから気にせず立候補をすると良い。では俺はこれで」

「待て待て待てって」


 嵐士は足早に大通りを進んでいく俺を長い脚で阻んだ。


「邪魔だ。タイムセールに遅れるだろうが」


 そう、俺は今日姉から重要な任務を仰せつかっているのだ。その名もKobeスーパー地獄のタイムセール。戦争の終わりを告げられた現代日本において、唯一の主婦の戦場とも言える場所だ。そこに行くには相応の覚悟が必要というもの。最早店はすぐそこだ。こんな所で無駄足を喰らっている場合ではない。


「それは悪い! でもこっちも結構重要なんだよ」


 嵐士はわざとらしく手を口に当てて焦ったかに思えば、すぐに手に持った紙をひらひらと泳がせた。

 これじゃあ埒があかない。というよりコイツは俺の次の言葉を待っているのだ。正直コイツの策略に嵌まるのは癪だが、今ここでコイツを納得させうる言葉も時間も持ち合わせてはいない。そして何よりとても効率が悪いだろう。それは俺好みの展開ではない。

 仕方ない、コイツの策略に乗ってやるか。俺は嵐士の手から紙を奪い取ると、止まった足を動かした。


「検討だけしてやる」


 何とも格好悪い幕引きだがこれにて終幕。効率的最適解には叶わないのである。





 包丁を慣れた手付きで動かし、食材を弄んでいく。ふと、夏の終わりを告げる曲がテレビから聞こえてきたので、そのリズムに合わせて刻まれた食材を順番に鍋に入れた。

 野菜を炒めながら時計を確認すると既に十八時を回っていた。炊飯器を開けて先程炊いたご飯を混ぜ、料理も佳境に入っていく。

 鍋に水を適量、煮込んだら火を止めて味付けのピースをポトポトと入れる。ゆっくり大きく混ぜながら軽く味を見た。うむ、悪くない。最後に定番の蜂蜜を入れた所で、玄関のチャイムが家の中に鳴り響いた。


「ただいま〜、良い匂い! 今日はカレーね!?」


 ドタドタと忙しない足音で玄関を抜けた声は、勢い良くリビングに入ってくる。


「ただいま!」

「ああ、おかえり姉さん」


 振り返らずに俺が答えると、姉―園原そのはら海荷うみかは不満気な声で発した。


「ちょっと〜、お仕事で疲れたお姉様をもっと労ってよ〜。今日も上司のパワハラと戦って来たのよ? アイツ私より仕事出来ないくせにさ〜」

「風呂は沸いてるぞ」

「それだけ?」


 これ以上何があるのだ。風呂を沸かし、料理もあと少しで完成する。延いては日課の肩揉みまでする所存であるというのに何が不満か。俺は手を止めずに黙る事で不満を表した。海荷にも伝わった様で、口を尖らせながら風呂場の方へ歩き始める。

 やっとか。そんな俺の考えも見え透いたのか海荷は風呂場から顔を出しながら、


「春馬も一緒に入る?」


 と一言。だがこれも予想通り、というかいつも通り。無視を決め込み調理に没頭する事で姉の撃退に成功したのだった。




 テレビから流れる音楽で片耳を楽しませながら、俺は出来立てのカレーを口に運ぶ。目の前でも同様に、いや、少し俺より楽しそうに海荷もカレーを味わっていた。

 海荷は残り半分程のカレーを残しながら、


「で、今日は学校で何か面白い事あった?」


と尋ねてきた。俺は当然の様に答える。


「何もない」


 ここまでがテンプレ、いつも通りの光景だ。なんてことない、日常の風景。だが今日は少し違った。


「ウソ、ね」


 いつもならここで、「あらそう」と言って終わる海荷が、今日は何故か粘ったのだ。

 失敬な。俺は冗談をこよなく愛する面白可笑しい男だが、嘘はつかない。当然反論した。


「何でだよ。嘘をつく道理がない」


 しかし海荷は俺の反論に狼狽えない。


「いーや、絶対ウソよ」

「根拠は?」

「姉の勘」


 なんとも信じ難い根拠だな。だが事実、特に話すような事は起きていない。それをこの姉にどう納得させようか。

 すると、海荷はおもむろに席を立ち、なんと俺の鞄を漁り始めたのだ。


「お、おい。流石に姉弟でもそれは……」


 俺のか細い声など届くはずもなく、海荷は乱雑に俺の鞄を漁っていく。次々に部屋に撒き散らされる荷物達を、俺はただ呆然と眺めるしかなかった。


「んー、これじゃない、うーん」


 いや、そもそも何を探しているのだ。これじゃないってことは明確な何かを探しているということか、或いは適当な言葉を見繕っただけなのか。取り敢えず何でも良いから手を止めろ。


「おい、もういいだろ。何もないって」


 若干語気を強めたのが効いたか、探し物がないと気づいたのか、海荷の動きは最初の勢いをなくしている。

 しめた。このまま興味を無くしてくれれば俺の荷物達は救われる。最後に「後片付けしとけよ」、これで完璧。言う事無しだな。

 しかしその時、運命の悪戯か神の気まぐれか、は姿を現した。


「なによこれ」


 海荷は生徒会立候補用紙をひらひらと振っている。


「嵐士に渡されたんだ。生徒会に立候補するんだと」

「アンタは?」

「しない。するはずないだろ」


 多分この時だ、この時に俺の運命は決まったのだろう。何故この時適当な言い訳をしなかったのか。俺は今後部活に入るからとか、別の委員会に属してるからとか、嘘でも何でも今日この日さえ乗り越えれば、海荷は追求するタイプではなかったのだ。

 未来の俺の金言など聞こえるはずもなく、俺は海荷の次の台詞を待つように黙り込んだ。そしてその結果、


「アンタも入ればいいじゃない」


このザマだ。


「いや何でだよ。入らないって」

「んーん、入るのよ」


 マジでなに言ってんだ。俺が入らないと言ったら入る訳がないだろう。俺はかなり不思議そうな顔をしていたが、海荷はそんな事はお構いなしに用紙に何やら書き始める。


「えっと、そ・の・は・ら……」

「おい、出さないぞ。ていうか勝手に書くな」 


 重い腰を上げた俺は海荷の手から用紙を取り上げるが、既に記入は終わっていた様だ。


「じゃ、明日出してね」


 なんて無邪気な笑顔だろうか。とても七つも上とは思えない。だが俺にそんな笑顔が効くと思っているのか。


「出さん」

「駄目、出して」

「出さんと言ったら出さん!」

「出すの!」


 こうなったら平行線だ。しかし、俺にも負けられない理由がある。絶対に生徒会には入りたくないのだ。放課後を拘束されるなどまっぴらだ。しかし、海荷も譲る気はなさそうだ。うむ、こうなったら奥の手を使うしか無い。


「この話は終わりだ。さっさと食べ終わろう」


 そう、無理矢理終わらせるのだ。俺より更に上位の面倒くさがりである海荷は、意外に無理矢理、話を終わらせると良かったりする。

 用紙をポケットに仕舞いながら腰を上げ、追いかけてこない海荷に勝利を確信したその時、俺の確信は紙ペラの様に破られた。


「じゃあ今後一切お小遣いなし」


 は? 今、何を言った? とても正気ではない言葉に俺は動きを止める。聞き間違いであってくれと、俺はゆっくり振り返ると、海荷はさっきと同じ無邪気な笑顔をこちらに向けているではないか。


「アンタが生徒会に入らないなら、お小遣いなし」


 海荷は再度確認するように呟く。やはり聞き間違いではなかったのか。俺は動揺を隠せないまま聞き返した。


「お前、正気か?」


 俺のストレートな言葉に、海荷は表情を崩さない。


「至って正気よ。で、どうするの?」


 これで正気とは。いや、寧ろこれが園原海荷の本領とも言えるのか。

 今でこそ、亡き両親の代わりを自ら買って出てくれ、大学に進まず高卒で働くことで俺を養ってくれているが、元々は面倒くさがりの我儘姫。小さい頃は、それはそれはこき使われたものだ。

 こうなっては誰にも止められない。多分止めようとする方が労力を使うだろう。そして嵐士の時と同様に、それは俺好みの展開ではない。

 仕方がない。効率的に行こう。


「分かった。出すだけ出そう」

「それでよし!」

「但し、本当にやりたい人間がいて、俺が入る事でその人が弾き出される形になったら俺は身を引くぞ」

「当然! それで構わないわ」


 そう言うと海荷は立ち上がり、席に向かっていく。

 やれやれ。漸く食事にありつける。

 俺は自ら茨の道に歩き始めた事に気づきながら、目を逸らし、冷めたカレーの続きを食べるしかなかった。






――――第一話 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る