道交法と、銃刀法。

西奈 りゆ

ある大雨の日に。

紅葉を蹴散けちらす暴風雨。

天気予報で数日先の大雨に警戒を呼び掛ける声を聞きながら、わたしはずぶ濡れの靴底を踏み続けていた。

不退転。わたしは引かない。一歩だって。



気持ちのいい、秋晴れの日だった。


彼と出会ったのはよく行くカフェのラウンジで、あの時わたしはアイスコーヒーを机に、その日の業務のことを思って眉間にしわを寄せていた。

大量の発注書、資料作成、会議、クレーム、後輩が持ち込む面倒ごと、顔も上げない上司・・・・・・。

出勤してから、PCと紙以外に、誰の顔もまともに見ていない気がした。


「相席、いいですか?」


だからその日初めて正面から見た顔は、彼が最初だった。

細い眉に、日焼けした精悍な顔つき。トップを長めにしてサイドを短く刈り上げた、今どきのツーブロック。営業マンだろうか。やや童顔にも見えるが、全体的に理知的に整った顔立ちをしている。30代半ばくらいだろうか。愛想の良い、自然な笑みを浮かべていた。


「お邪魔でしたかね?」


「いえいえ、いいですよ。どうぞ」


とっさに引き出した営業スマイルで、こちらも対応する。

今の今までしかめ面をしておいて今更だとは思ったけれど、これも礼儀だ。


礼を言って、彼は正面のチェアに腰を下ろした。

見れば、周りのテーブルは学生の集団やカップル、女性客でほぼ埋まり、空いた席は「女子会と合コンの間」とでも形容したくなるような、なんとも騒がしい席だけだった。人気の店なので、店内も混んでいるのだろう。


「すみません、ホットコーヒーと、この、ミニケーキアソート」


メニューをほとんど確認せず、彼は店員を呼び止め、そう注文した。昼間の営業マン(だと思う)とスイーツという、意外な組み合わせに驚いていると、はにかんだように彼は笑った。


「いや、好きなんですよ。男のくせにって、よく言われますけどね」


「めずらしいとは思いますけど、男のくせには余計ですね」


「寛大に受け取ってくださると、肩身が狭い思いをせずに済みますよ。ところで、僕、お仕事の邪魔になっていませんか。お忙しそうな感じだったので・・・・・・」


忙しくない仕事などほぼないし、スケジュール帳はそもそも閉じていたけれど、とっくに脳裏に焼き付いたその内容を、煩悶はんもんしながら反芻はんすうしていたわたしは、今更取り繕うこともないかと苦笑した。


「ええ、まあ。中途半端な立場に置かれると、いろいろとありますね。ところで、営業の方ですか? お疲れ様です」


こちらの柵に入り込まれないように話を投げる。彼のほうにも踏み入る気はないようで、あっさりと後を引き継いだ。


「はい、営業です。教材の販売をやっているんですが、こんなところで名刺配りをするのも野暮やぼですね。控えておきます」


そう言って静かに笑った彼のもとに、注文したセットと伝票が置かれた。

いちごの赤、抹茶の緑、栗の黄色、チーズの黄色・・・、なるほど、たしかにアソートだ。


「あ、せっかくだから、おひとついかがですか? ちょうど取り皿もついてますし」


唐突な申し出に、びっくりした。


「いえいえ、わたしはけっこうですから、召し上がってください」


「疲れには甘いものが効きますよ。僕もそれで営業やってるんです。いかがでしょう。ご覧の通り手はつけていませんし、社会にもまれる者どおし、お近づきのしるしにということで」


冗談なんて、何年も聞いていない気がする。

あの時は軽快に感じて少しはずんだ気持ちになったトークだったけれど、今ならわかる。あれは完全な営業トークで、その後分かる通り、彼はそこそこ大手の、優秀な営業マンだった。


問題はわたしがその営業トークに乗ってしまったことと、何だかんだでその後、彼と関係を持ってしまったこと。半年の交際を経ての、プロポーズを受け取ったこと。

結婚資金だと、何かと理由をつけて彼との間の出費がかさんでしまったこと。


そして彼の「アソート」好きが、女に対してもそうだったということだけだ。



彼の初手はからめ手だったけれど、発覚はよくあるパターンだった。


退社したのは、20時過ぎ。

例によってメモをおろそかにする後輩がやらかしたミスを監督不行き届き扱いされ、修正をかけているのにいつの間にか当の本人が退勤していて、気が付いたら社内にはほぼわたし一人だった。

よくあることだ。社員用出入り口で、いつものように挨拶もない警備員室を素通りし、外に出る。予想外の、さざめ雨だった。スマホを取り出し、Lineを確認する。


「ごめん、仕事が入った。来週でもいい?」


彼、祥吾しょうごからのメッセージだった。

「いいよ。頑張ってね!」と、思ってもないことをスタンプ付きで返信する。


週末だというのに、ぽっかり予定が空いてしまった。

もちろん直帰してもいいのだけれど、家でしめっぽく一缶空けるという気分でもない。少し、飲んで帰ろう。

そういえば何週間か前、祥吾がちらっと口にしていた、穴場の店。

いくつか聞いたことがあるけれど、うろ覚えの店名を検索してそれらしき場所がヒットしたところに、足を運ぶことにした。


「傘、買うか」


ちょうどいいところに、コンビニがある。

一番安いビニール傘は早々に売り切れていて、黒地の高い傘しか売っていなかった。

ため息をつき、眠気覚ましのボトルコーヒーと傘を持って、レジに向かった。



運がいいのか、悪いのか。

店はすぐに見つかった。そして祥吾も見つかった。

なのに傍らには、見ず知らずの若い女がいた。


この時ばかりは、黒地の傘で良かったのかもしれない。

出入り口から出てきた二人の姿に動揺していても、とっさに傘で顔を隠せたから。


「いやいや、早とちりしちゃだめだよ・・・・・・」


仕事だと、言っていたではないか。こんなありきたりの不幸話なんて、自分に起こるわけないじゃないか。

まったく根拠もないことを必死に信じて、いつしかわたしは二人の後を追っていた。


二人が次に入ったのは、ネオン街の高級ホテルだった。



その後、秘密裏に行動して突き止めた。

祥吾の「婚約者」は、わたし一人だったけれど、他に「彼女」が2人いた。

言葉巧みに、少しずつ身体と貯金を崩されたわたしは、祥吾と彼女たちとの間では、存在しない人か、「夢見てるだけ」の、“他人”だった。


その事実を知るたびに、愕然がくぜんとし、怒りがこみ上げ、こき下ろされた自分の価値のために泣いた。全員まとめて、消してやろうかと思った。


「了解! お疲れ様(^^)」


思っただけだった。

今日もまた、「残業」でのドタキャンを、無表情に許容していた。ご丁寧に、笑顔付きで。


表立ってののしればいいのに。乗り込めばいいのに。

けれど頭脳派で、かつあの整った顔をののしるほどにはわたしは自信がなくて、自分よりも格上の女たちの相手の修羅場に乗り込むほどの勇気もなかった。

それに何より、現実を認めてしまうのが一番みじめで、つらいことだった。


だから、今度は自分を騙した。

今思えば、こういう自分のなさに、つけこまれたのかもしれない。


表面上は、いつも通り。

けれど、身体は限界だった。

そして、心もごまかしきれなくなった。

生活が、崩れ去っていった。


昔から内気で、気が弱かった。

不仲の親の顔も、意地悪なクラスメートの顔も、贔屓ひいきがすぎる上司にも、態度を改めない後輩にも。誰彼の顔色を、ずっとうかがって生きていた。ものごころついた頃から、漠然と周りが怖かった。

地味で取り柄のないわたしにとって、恐ろしいもめ事を最低限に抑えるには、巣穴から外をうかがうアルマジロのように、生きるしかないと思っていたから。


でも、もう限界だった。


わたしはそれを手にした。

身体が内から溶けそうになるくらい深く息を吐いて、壁にもたれる。

ずるずると下がっていく背中を感じながら、遠い雨の音を待っていた。



予報は当たり、休日のその日は、朝から大雨だった。

街路樹、フェンス、アスファルト。街全体に、暴力的に水が、風が襲い掛かる。

鼓膜に響くこの心臓の早鐘。礼節を知らない雨風が、かきけしてくれればいいのに。

打ち付けるその音は、今日のわたしに対しても、やさしくはない。


休日出勤を装って着てきたスーツに、ビジネスバッグ。

いつも通りの書類ケースや化粧道具に交じって、それは入っていた。

付き合いでもらった、粗品の箱。その中には、箱には収まるけれど、表の品名とはまったく違うものが入っていた。


包丁。


いわゆる「ペティナイフ」と呼ばれる15㎝未満の小型の包丁だ。

手が小さいわたしは、ずいぶんと重宝している。

それが今、ハンカチ数枚で包まれて、何の関係もない土産物の箱に入って、わたしのバッグの中にいる。


怒る道具がほしかった。


そう、そもそもわたしはそれを使うつもりどころか、取り出す気もなかった。

箱に入れていたのも、ばれないようにというのもあるが、単にバッグに傷がつくのが嫌だったから。タオルで巻くだけでは、刃が飛び出しそうで不安だったからだ。


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