52 胸の空洞

 じっさい、しばらくニーナの精神状態は高揚していた。

 夢見た土地を発見したよろこびはひとしおで、実家からつれてきたぬいぐるみたちをベッドにならべているときは、鼻歌さえうたっていた。

 エドバルドの木彫りのみみずくは、主人の軍務に同行していったため不在だった。ぬいぐるみたちとみみずくが、いっしょにいられないことが残念だった。

 

 代わりに(エドバルドが贈ってくれた)銀の水差しを窓辺に置いた。

 衣服も明るめのものを選び、ふだんはステージ衣装でしか着ないようなフリルのたくさんついたスカートなどを履いたりした。

 

 側用人の娘と姉妹のようにさわぎながら町周辺を観光したり、海辺を散歩したりもした。

 崖から入り江におりると、まるでかくれがのように静かだった。


「ここにいると安心できるのです」とフロスとレポロに宛てた手紙にも書き添えた。

 実家にもそのように報告し、長期滞在をもうしでた。季節の草花をみて、潮風に吹かれて、そうして過ごすことで落ち着けるのです――だれも異論をとなえるはずもなかった。


 人魚に関する資料も読ませてもらった。

 人魚たちの青史は無機質な叙事文であり、遠いことのように思えたが、最後の人魚ことマティスについては、やはり「とりのこされた者」として共感を得るところはあった。


 そして、そのせいか――翌日、なんとなく午睡をとったとき、ついにニーナは悲しみに囚われてしまった。

 とても短く、浅い夢だったけれど、そのなかでニーナはマティスに同化していた。


 最後の人魚と化したニーナは棲みなれた岸を離れ、どこまでもひろく、そして深い海をたった一人で泳いでいた。

 それはたまらなく孤独で、胸がはりさけそうだった。


 ニーナは胸をおさえながら目を醒まし、荒れ狂う鼓動と、耳鳴りと、のどの痛みにうちふるえた。

 だれにでもいいからすがりたい気持ちだったが、側用人は外出しており、ニーナがベッドでもがいていても、宿泊室が二階だったせいか、施設の人たちには聞こえないようだった。


 ニーナはずっと慟哭していたが、やがて側用人が買物から帰ったときには、涙は涸れて泣きやんでいた。

 そのとき、窓辺にて夕陽をみていたニーナが、ふりかえり微笑した顔は、とても老けこんでいるようにみえた。


 なんとなく旅にでたけれど、現実はどこまでも現実であり、ニーナもまた例外なく悲しみに侵されてしまった。

 ひとりぼっちがこわい。

 足もとが崩れ落ちるような恐怖心が、全身を寒くした。


 ときに手や脚を動かすことさえ億劫になったが、まわりの人を悩ませてはいけないので、態度にはださないようにつとめた。

 しかし、側用人に意識して笑いかけたり、研究者の冗談につくり笑いをしたりと、無理をすればするほどに、ほんとうの自分が乖離していくような気がした。

 ほんとうの自分は影になり、ぬけがらの自分の足もとにへばりついているみたいだった。


 風の強い日、ニーナは崖のうえまで歩いていき、海をみた。

 側用人は施設で洗濯をしており、ふりかえれば二階のベランダで物干しをするさまがみえた。

 ニーナがみつめていることに気づくと、側用人は手をふってきた。

 ニーナもあわててそれにならう。


 崖の岩にこしかけて、海のうねりを見下ろした。

 空は青く、海も遠くまでおだやかだった。

 ニーナはあれこれと思いをめぐらせた。

 風に流される白い雲のように、まとまったかたちにはならなかったけれど、ニーナは感覚として、自分がまだエドバルドの死をもてあましていることに煩悶とした。


 実感がない。

 まだどこかで生きているのではないか――なんとなくそんなことを思い、それからどんどんむなしくなった。


 ニーナは思わずたちあがる。

 そのまま岩塊に沈みこんでいってしまうのではないかというくらい全身が重くなってきた気がして、それに抵抗したのだ。

 胸に空洞があるようだった。


 王都では親しい人の悲劇にともなう自死も多かったのだという。

 むなしく開けられた穴はうまることがないのだろう。

 ニーナは崖のぎりぎりまであゆんでみた。

 靴さきの小石を蹴り落としてしまって、まるで自分が落下したかのようにどきっとし、平衡感覚があやふやになり、ニーナは胸に手をあて動悸をおさえる。

 目も閉じた。


 踏みだす勇気はなかった。

 身を投げることなどこわくてできない。

 鼓動がおさまったあと、ニーナは崖から1メートルところの大きめの平らな石にたち、しばらくたたずんでみた。

 跳びおりる度胸もないとわかると、なぜかみょうに落ち着いていた。

 あたまがまっしろだった。


 するとごく自然に、ニーナは歌いだした。

 まるでだれかにあやつられたかのように息がくちびるからすべりだし、賛美歌のワンフレーズを口ずさんだのだ。

 まるで音符を吹きだしているみたいな気持ちだった。


 やがて一曲を最後まで歌い切ると、心はもっと透きとおっていた。

 悲しみをほんの少しだけ、吐きだすことができたような気がした。

 悲嘆は無限の泉のようにわいてくる。

 だから、わずかでもそれを発散することができるのは、悲しみに溺れてしまわないための防衛手段だったのかもしれない。


 よほど雨がふっている日以外は崖に通った。

 そこがニーナの練習場のようになっていた。

 側用人はニーナの歌唱に気づいているようだったが同行はしなかった。

 ニーナが歌う理由を察していたからだろう。

 しかし、そんな日々もやはり長続きはしなかった。


 その日もニーナは平石に立った。

 そして晴れた空と崖下によせる波の音に耳をすませ、エドバルドのピアノ伴奏をイメージしながら、組曲を最初から歌いはじめた。

 エドバルドも好きだった作曲家フランツの旅と死を主題にした組曲だった。


 上空を旋回するノスリが高い声で鳴き、海面にはときどき、種類は判別できないが大きな魚の群れもみえた。

 観客が大勢いるような気がして、ニーナはだんだんと調子がでてきた。


 ニーナがその組曲にとりくんだ理由は、みずからの人生を投影したわけではなかった。

 ただなんとなく自然と口をついてでたのがその曲だったのだ。

 ニーナはあたまのなかで、主題としての死と現実の死を、べつのものとして認識していた。

 あくまで共感を切り離した、芸術としての歌をうたったのである。


 しかし、その歌曲が終盤にさしかかったとき、思わぬ事故が起きた――舞台としていた平石が突然ななめにずれ落ちたのだ。

 じっさいは石だけでなく、崖のふちから1メートルくらいの岩盤がえぐれて落ちたかっこうになる。


 ニーナはまるでそりですべるみたいに、足をすくわれたのだ。

 驚きで一瞬なにが起きたのかわからなかったが、思考は思いのほか冷静になる。

 歌曲が佳境にさしかかっていたので、身ぶり手ぶりにあわせ、重心を前傾にかけつづけていて、そのせいで岩盤を圧迫してしまったのかもしれない――そんなことを考えた。


 しかし、そんな余裕もつぎの瞬間にはなくなった。

 視界がものすごい速度で回転する。

 空や海や崖がめまぐるしく映りかわり、落下の恐怖がのどもとからあふれてくる――そして(死にたくない!)とニーナが血走る目で、そう叫ぼうとするやいなや、落水したのだった。


 側用人がニーナの不在に気づいたのは、それから数時間後だった。

 なぜなら施設裏の倉庫にて、溶岩石の臼でパン粉をひく作業に没頭していたからである。

 あわてて研究者や町に報せ、人を集めて捜索したけれど、ニーナを発見することはついにできなかった。


 事情を知らない側用人は、ニーナの自決を推測した。

 みずからが油断していたと考える理由はそこにある。

 それがかんちがいだと説明できる人はだれもいない――。

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