23 奔走の果てのみずうみ
巨人族の解放は100年以上まえに建国王マルサリスによっておこなわれ、それにより巨人族の集落は凍てつく雪原から火の国にもどった。
ブルーベックが生まれたのは〈ひざまずく者の山〉と呼ばれる大陸の中央に位置し、四カ国にまたがる巨大な山脈群の一端だった。沙漠の国にほど近いものの、火の国の領土に属する高所だった。
山岳地帯だけあって集落は街や村と呼べるほどの体裁はととのっておらず、ブルーベックの脳裏には、物置のなかをリスが駆けまわっていたり、屋根裏ではミミズクが頚をかしげていたりする光景が記憶されていた。
集落の人口は100をこえず、ひっそりとした谷間に50に満たない萱葺の住居が造られていた。
人口の大半は大人で、身長も2メートルをこえる者が多かったが、森や渓谷になじみ、家畜を飼い、地に根ざした農業をいとなみ、河やみずうみで漁撈にとりくみ、めだつことなく暮らしていた。
ブルーベックの両親は鍛冶屋をいとなんでいた。
鋤や鍬といった農具をはじめとして包丁やハサミといった生活用品を主に製造していたが、その出来のよさには定評があり、近隣の銀鉱で使用されるツルハシなども全般的にひきうけていて重宝されていた。
忙しさのわりには裕福な暮らしではなかったが、ブルーベックは不満をいだくことも空腹に悩まされるようなこともなかった。
父親は暇をみてブルーベックを狩りにつれていき、竹と麻ひもでキジを撃ち落とせる弓矢をつくる方法や、網でイワナを追いこむコツ、食べられる野草の判別やヒグマに追われたときの対処法など、多くのことを教えた。
母親は赤熱した鉄をうつ父親の補佐をしながら販売係もつとめ、夜は読書や詩作にふける趣味をもっていた。鍛冶屋をおとずれた顧客に万全の知識や経験でとりいって常連をつくるそのすがたを、ブルーベックは幼い目にやきつけていた。
ブルーベックは両親のそういった卓越した部分を尊敬しており、みずからの血筋にはなにか特殊な能力がそなわっているのではないかという優越感を、両親たちの背景にみることができた。
母親は物事に熱心にとりくむ人によくみられる傾向のひとつとして、いささか気難しいといってもいいぐらいの固有の哲学をもっている人物で、幼いブルーベックに向けても多くの思想を語り、そのほとんどをブルーベックは理解できずに忘れてしまったが、ブルーベックの人間性は母親のそういった面につちかわれたといっても過言ではなかった。
つまるところブルーベックは、物資にめぐまれなくとも豊かに暮らすことができたのである。
そんな環境のなか、一人息子なうえ、集落におなじ年頃の子どもがいなかったせいもあり、ブルーベックは落ち着いていて従順な性格に育った。
日がな声をあらげることもなければ、腹にすえかねるようなことがあっても憮然と閉口するだけで、物に当たったり周囲に反抗することもなかった。
惜しむことなく、率先して大人たちともつきあうブルーベックは集落においてもかわいがられた。
巨人族が身体的な変異をみせるのは10歳あたりからで、それに満たないブルーベックは大人たちからすると小人のようなものだったので、余計に庇護の対象になった。ブルーベックが7歳になった3年まえまで、そんな平穏な日々がつづいた。
三年まえのその日、空はどんよりとした曇りで、冷ややかな霧が森にたちこめていた。
ブルーベックは釣竿と魚篭をもって徒歩で一時間ほどの近隣のみずうみに釣りにでかけていた。
曇りの日には早朝から昼まえにかけて釣りをすることが多かった。
だから日常的な行動の一環として、ブルーベックは湖畔の定位置でずっと釣り糸をたれていた。
あたりは上々で、いつもなら笑みのひとつもこぼれるような具合だった。父親はほめてくれるにちがいないとブルーベックは得意になっていた。
しかしそんなとき、ふと風向きが変わった。
ブルーベックは樹木の枝葉をみつめ、不可思議な感覚にさいなまれた。うなじがぴりぴりした。
ブルーベックは目を細めて風を読んだ。
胸の奥がよどんでいるような決まりの悪さに、しばらく口をつぐんでいた。
空を覆う雲が色濃くなっていった。
(雨がふりそうだ……)
ブルーベックは、流れる雲がうずまく様子を眺めながらそう思った。
視線をおろすと、空を反映した湖面もまた濃い灰色をしていた。
そのままうつむいた。
足もとを蟻の群れが歩いていた。
ブルーベックは靴さきからこみあげてくるようないやな予感を味わって、瞳を閉じた。
そして、風の音に耳をすませた。
そのとき、かすかな爆発音がとどろいた。
ブルーベックはあわてて集落のほうをみた。
けむりがみえた。モクモクとおびただしい量の黒いけむりが、まるで大蛇のようにうねりながら空にのぼっていた。
危機に瀕して、のどが鳴った。
ブルーベックは釣竿を放ってたちあがると一目散に駆けだした。
いつもはのぼったりおりたりを楽しく感じる、地面からつきだした樹木の根っこがとても邪魔だった。
全力で走っても20分はかかる距離だった。ブルーベックは何度もころびそうになりながら森を駆けぬけた。
なにが起きたのか思いをめぐらせると、まぶたの奥には悪夢が現実の光景のようにうかびあがり、たちどまれば恐怖で泣いてしまいそうだった。
永遠につづくような奔走を経て、ブルーベックは集落の入口までたどりついた。
予感は的中していた。
住み慣れていた集落は一変していた。
住居はことごとく破壊され、広場にあった集会場は炎上していた。
そこかしこに見知った人々が傷つき、倒れていた。
けがをして冷や汗を流し歯噛みしている者もいれば、痙攣している瀕死の者もいて、遠目にも確実に息絶えていることがわかる者もいた。
ブルーベックはかたわらに、頚がない死骸がころがっているのをみた。
頚は見当たらなかったが、着ている服の柄から近所の人だということがわかって目をそむけた。
ドクドクと動悸がうち、涙がにじんだ。孤独や不安が牙をむいて襲いかかってきた。
集落が紛争にまきこまれたのだ。
ブルーベックは両親の名を呼んだ。
声がふるえて、ちいさくなってしまった。
そのまま這うようにして家まで向かった。
家は倒壊していた。強い嵐をうけて横倒しになったかのようなひしゃぎかただった。
そこで、もう一度両親の名を呼んだ。
すると、家の裏手からかすかな返事があった。
母親の声だった。
ブルーベックは声のほうに急いだ。
母親は家の裏にあるニレの樹にもたれかかっていた。
ブルーベックを視認しても、母親は蒼白の顔で片目を閉じただけだった。開いているほうの瞳は苦渋に満ちていた。
「だ、だいじょうぶ――!?」
ブルーベックが近寄ってかがむと、「あの徽章は火の国の騎士団だわ」と母親は口惜しそうにつぶやいた。
「風の魔法かしら。突然襲撃されたの。私は倒れた家の柱にはさまれただけ。あばらが何本か折れたかもしれないけど、内臓はたぶん無傷」
ブルーベックがみると、母親は脇腹をおさえていた。
「――父さんは?」
ブルーベックは周囲をうかがった。父親のすがたがみえなかった。
「あの人は銀鉱山にいるはず。でも騎士団のねらいも銀脈かもしれない。火の国は長年、あそこの採掘権を掌握したがっていたようだし……」
ブルーベックはよくわからず、くちびるをかんだ。
母親はみずからの思考を整理しているようにみえた。
「あるいは、ちがう目的があるかもしれないけど」
母親はにじむ汗をぬぐいながら、やがて「とにかく、あなたは逃げるのよ。いい?」とブルーベックをみた。
母親の瞳には、灼熱の炎がゆらめくように光っていた。
ブルーベックが唖然としていると、「いい? 騎士団はいずれここにまたもどってくる。あの人も行方がわからないし、いまの私にはあなたを守ることはできないわ。わかるかしら――あなたが無事であることが私たちの望みなの。私たちはおそらく火の国の囚われ人になる。だからあなたはここにいないほうがいい。ここから走って、安全なところ……どこかべつの国まで逃げるのよ」
ブルーベックはかぶりをふった。
「無理だよそんなの。父さんはきっとだいじょうぶ。だから父さんを待って三人で逃げようよ。だめならみんなで戦うんだ!」
「――現実をみなさい」
しかし、母親は声を低くした。
「あなたは私たちの息子。だからこの窮状をみれば、それが可能かどうかはすぐにわかるでしょう。逃亡だってたやすいわけではないわ。連峰を走りつづけなければならないのよ。騎士団の追っ手だって、ないとはいいきれない」
「……でも」
ブルーベックの目から涙があふれた。
「私たちのための最善の決断。わかるわね? わかるはずよ。それに不可能なことではないわ。あなたはあの人からたくさんの知識を学んでいる。山脈を通ってべつの国にいくための近道だって、あたまに入っているはずよ。必要な能力だってすべて身につけている。……いい? あなたは泳げるの。だから、一人で岸を離れていける」
ブルーベックは嗚咽をもらした。別れの予感が宵闇のようにブルーベックをつつみこんでいた。
母親はふるえる手でブルーベックの頬に手をそえた。
「ここからは独りよ。これからきっとつらいことや悲しいことがたくさんある。それらをあなたは一人でうけとめなくてはならない。でも忘れないで。あなたが生きてきたのは、たくさんの命があなたを助けてくれたから。思いだして。あなたはたくさんの命に生かされてきたの。わかるでしょう? たくさんの命があなたを生かしてくれたのだから、どんなときでも、生きることをあきらめてはいけない――」
そのとき、村落のはずれのほうで怒号が響いた。
母親はブルーベックの肩に手を置いて、ブルーベックをふりかえらせた。
そして「さ、いって。騎士団がもどってきたのかもしれない――」と背中を押した。
まるで岸辺のボートのもやいをといて、そっと押しだすような推進力だった。
ブルーベックはうつむいた。
複雑な思いが去来していた。
しかし、少しの沈黙ののち、ちいさく「きっとまた逢えるね」とつぶやいた。
そして、ふりむかなくとも、背後で母親が微笑したことがわかったので、ブルーベックは地面を蹴った。
最初はまぶたをかたく閉じていたため、壊れた木材にひっかかってころびそうになったが、ブルーベックは草食動物のように加速して、走りだした。
しばらくはなにも考えられなかった。
いろいろな思いが錯綜し、たくさんの映像が脳裏をうずまいた。
幼かった頃のこと、両親との思い出、季節ごとの集落の光景など、なにげないものばかりだった。
集落の領内をあとにすると、一般には認知されていない〈ひざまずく者の山〉の秘密の小路に入り、ひたすら走りつづけた。
目的地は決めていなかった。
とにかく走れるところまで走ろう、そう思った。
森を、山道を、岩棚を、洞窟を、未来の不安や孤独の恐怖にあとおしされながら、ブルーベックはひたすら駆けぬけた。
三日三晩、脚を動かしつづけて、ブルーベックは巨大な古木のもとでたちどまった。
その頃にはもう、あたまのなかはまっしろになっていた。
古木の幹がほこらのようにえぐられて空洞になっており、かくれることができそうだった。
ブルーベックは古木のうろに腰かけた。
全身がガクガクふるえ、激しいのどの渇きをおぼえてきたが、そのまま眠りについた。夢はみなかった。
翌朝、ブルーベックはいいしれない虚脱感のなかで目を醒ました。
ヒヨドリの鳴き声がしていた。現実があまりにも極端に変化しすぎて、心が順応できていなかった。
それでもブルーベックは気力をふりしぼってたちあがった。両親の名に恥じない行動をとらねばならないとみずからを鼓舞した。
ブルーベックはふたたびまえに踏みだした。滝があれば水を飲み、エネルギーを得るためだけにユリの根を掘り、アカモノの実を摘んで口にした。
やがて山脈をぬけても脚をとめずに、つらなる草原の丘を駆けた。
騎士団の追っ手はなかったが、ブルーベックはもっと大きなものに追われていた。
それはまるで夕暮れに長く延びた自分の影のような黒い孤独だった。
ブルーベックはひたすら逃亡した。
遮二無二遠くをめざした。
闇夜のなか、絶望のふちはいつでも、ブルーベックのすぐ背後にあった。
それでも、幾夜が明けて、視界が開けたとき――ブルーベックは、湖畔にいた。
それは巨人族の集落の近場にあったみずうみと、とてもよく似ていた。
ブルーベックは長い距離を走って、ふたたびおなじところに舞いもどってきたのではないかと夢想した。
しかし、すぐに夢は醒めた。
なぜなら、おだやかな風にのってくる匂いは故郷のものとはちがっていた。
ブルーベックはぼんやりと湖面をみつめた。
透明の水面に波紋がいくつもたっていた。
そのときようやくブルーベックはつかれを感じた。
脚が鉛のように重く、もう一歩も動けなかった。
あたまがもやもやとしていた。上空を脚の長い水鳥が通りすぎた。湖面に映るみずからがぼやけていた。相継ぐ波紋で、輪郭が何度もぶれた。
知らない土地だった。遠くまでやってきたことを実感して、ブルーベックはとても心細い気持ちになった。
それでも全身にしびれにも似たつかれがあったため、涙は流れなかった。
ブルーベックはただ、水面でゆらゆらとゆれている自分を眺めていた。
ふと――背後から、声をかけられた。
「おい、どうした? そんなところでなにしてる?」
ひげをたくわえた初老の男性が、ブルーベックのまえにまわりこんできた。
男性はおっかなびっくりといった態度で、ブルーベックの瞳をのぞきこんだ。
ブルーベックは集落をでてから、はじめて人間に遭遇した。
男性は魚篭をもち、麦わら帽子をかぶっていて、竿を肩にかけていた。
釣り人のようだった。
ブルーベックは無言のまま、男性の顔をみて、釣竿をみて、故郷のみずうみを想って、少しだけ泣き笑いのような表情になった。
ブルーベックはそうして、草原の国の〈星のふる丘の街〉にたどりついた。
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