欺瞞と救済

「この戦争には、二つのターニングポイントがあります。一つは三分間のリミット。もう一つは、僅か三十秒のリミット」


 自身が“観測の概念保有体”であることを明かしたフェレス卿は、戦争の要所のみを語る。


「この分岐点は必ず訪れます。その時が来たら、どうか最善を尽くしてくださいね」


「随分と曖昧だな。詳細な情報は話せないのか?」


「ンフフ、当然の疑問ですねえ。答えから言いますと、できません」


 フェレス卿は右手の白手袋を糸へと分解し、手のひらの上で複雑怪奇に絡まらせる。


「未来とは、無数の糸によって紡がれています。この糸とは、即ち生命。そして未来は、たった一本の、ごく僅かな変化で大きく姿を変えます」


 無数の糸がフェレス卿の手のひらの上で変幻自在に形を変える。その中の三本が赤く染まる。


「この赤をキミの仲間たちだと思ってください」


「なんでわざわざ迂遠な表現をするんだよ」


 そこは俺でいいだろ。


「ンッフフ! まあいいではないですか。分岐点の存在を知ること、それそのものが未来に影響を与えるのです。言わんや分岐点の正体を伝えようものなら、分岐点そのものが形を変えることすらあり得ます」


「……つまり、最低限の情報しか話せないのは、アンタの観測をより正確にするためか?」


「50点、ですねえ」


 相変わらず胡散臭い笑みを浮かべるフェレス卿は、トントン、と自分のこめかみを叩いた。


「ボクの観測自体は常に正確ですよ。しかし、は不確定なのです」


 無数の糸が、空に向かって葉脈のように分岐する。


「ボクは常に無数の可能性の未来を観測しています。分岐点とは、未来の収束を確定させるポイント。そしてボクには、


「……アンタには、辿り着きたい未来があるのか」


「ンッフフ! 正解ですよエトラヴァルト」


 フェレス卿は満足そうに頷き、そして妖しく光る瞳で俺を見つめる。


「そのためには、キミに……キミたちに仔細を伝えてはいけないんですよ」


「それじゃ、俺に正体を……概念保有体であることを伝えたのは、その未来のためか」


 フェレス卿は力無く首を横に振った。


「いえ。これに関してはボクなりの誠意ですよ。キミに事実を伝えたことによって起きる変化は、ボクには見えない」


「どういうことだ?」


「ンフフ。観測の概念保有体であるボクにも、見えないものがあるということです。エトラヴァルト、キミの糸は、ボクには見えない」


 無数の糸の中に、不可視の糸を思わせる半透明の糸が数本、出現する。


「ボクの……いいえ。観測の力をもってしても見えない糸というものはしばしばあるのです。エトラヴァルト、キミもその一人なんですよ」


「さっき赤い糸を俺以外で喩えたのは、俺の糸が見えないからか」


「その通りです。キミを直接観測できなくても、その周囲の変化を観ればある程度の予測は立ちますからね」


「それなら……四つ質問したい」


 フェレス卿はゆっくりと頷いた。


「まず、一つ目。俺の質問には正直に答えてくれるか?」


「未来の変化に関わらないことであれば」


「わかった。……アンタは、アルスの死を予見していたのか?」


 無意識に右手が剣の柄を探った。理性でそれを制して、返事を待つ。


「……残念ながら、見えませんでした」


 フェレス卿は、首を横に振った。


「彼女もまた、観測外の存在でした。彼女の死はボクにとっても予想外のことだったんですよ」


「なら、次だ。アンタの望む未来に、リステルの平穏はあるか?」


「——もちろんですよ」


 即答。フェレス卿は、間違いないと首を縦に振った。


「ボクの見たいものは、リステルなくしては見られないのですから」


 しかしそれは、遠回しに。リステルの生存は二の次であることを言い含んでいるようだった。


「最後の質問だ。アンタは、【救世の徒】って組織を——」


「エトラヴァルト」


 瞬間、フェレス卿の纏う空気が変わった。

 重々しく、威圧的な声に俺の舌が痙攣した。


「彼らについて、キミは今知るべきではない」


「それは、知っているって肯定でいいのか?」


 翡翠色の瞳が鈍く影を帯びる。


「ええ。ボクもできる限り話してあげたいところですが……キミが何をどの程度知っているかわからない今、ボクは話すべきではない。そして、ボクはキミの知見を聞くべきではない」


 ——これは未来が大きく変わる分岐点である。たとえ俺の糸が見えていなくても手に取るように変化がわかるほどの。

 フェレス卿は、それ以上触れるなと言った。




◆◆◆




 エトラヴァルトが去った後、フェレスは四葉のクローバーをアルスの墓に供えた。


「見たかったですよ。キミとエトラヴァルトが、共に並び立つ未来を」


 真実、フェレスという男は望んでいた。アルスとエトラヴァルト。二人がリステルの看板を背負う姿を。


 しかし、それは叶わなかった。

 エトラヴァルトやアルス同様にフェレスの“観測”に映らない《終末挽歌ラメント》——グレイギゼリアの謀略によって、アルスは若くして命を散らした。


 何かが起きる確証があった。

 二年前の戦争において、アルスという規格外がいながら、リステル存続の未来は不確定だった。

 しかし、無軌道かつ無秩序な異界そのものといえるグレイへの対処方法を、フェレスとリステルは持っていなかった。


「それにしても、キミたちは随分と情報を与えているようですね」


 月夜の影で、誰かが笑った。


「必要経費ってやつさ。アイツらは知る権利がある」


 影の返答に、フェレスはやれやれと肩をすくめた。


「あまり急がれては観測が困難になるのでやめていただきたいのですがねえ……」


「そう言うな。アイツの成長に、テメェの願いに繋がってんだからよ。……それに、テメェに止める権利はねえよ」


 ドスの効いた声と共に、影が膨大な殺気をフェレスへとぶつける。

 その殺気を細部に至るまで“観測”したフェレスは、「それもそうですね」とため息をついた。


 物分かりのいい返事に、影がつまらなさそうに舌打ちをする。


「……にしても、そのは随分と長続きじゃねえか。その名前も。気に入ったのか?」


「ええ、それはもう」


 道化師というのは何かと便利でして——と、フェレス男は笑う。


「それにしても、こんな時間に何のようですか?」


 フェレスは、自分がエトラヴァルトに投げられた台詞をそっくりそのまま影に潜む者へ投げかけた。


「慎重なキミにしては、随分と綱渡りをしますね。今のエトラヴァルトなら、この距離でもキミに気づく可能性があるのでは? アレは、


 観測の概念は、未来を観測する。それと同時に、他者の能力や思考、知識、その他細胞の一片に至るまでを観測できる。


 フェレスを前に実力を隠すのは不可能であり、彼の目は、エトラヴァルトの飛躍を確かに焼き付けていた。


「テメェの真意を探りに来たんだよ。ま、その必要はなかったみてえだが」


 影は「なんも変わってねえ」と退屈そうに欠伸をした。


「この期に及んで、まだ英雄探しか?」


「——ええ。それがボクという存在の、ただ一つの救済ですからねえ」


 フェレスは、万感の想いを込める。


「未来を超える瞬間を、ボクは観測したい」


「ハッ、狂信者め」


 付き合ってらんねえよ——。そう言い残して、影は虚空に姿を消した。

 後には、仄かな血の香りだけが漂っていた。





◆◆◆




 昨日は大部屋で雑魚寝(寝落ち)だったが、今日はちゃんと寝室へと案内された。

 ……というか、来客用の寝室に通されたイノリと違い、俺はに通された。


「淡々と外堀が埋められていってる……」


 無論、責任を取るつもりはある。が、それはまだ二年先である。色々と気が早いというか、あのメイド長のアシストパワーが強すぎる。


 メイド長と言えば、今日の夕飯は案の定激辛料理だった。

 あのメイド長、ミゼリィの両親が家を留守にしている時は大体凶行に走るのだ。俺が学生だった頃から定期的にミゼリィが嘆いていたのを見るに、激辛料理はあの人の趣味だろう。


 死に物狂いで激辛料理を乗り越えた後に待っていたのは、明日の腹痛への恐怖である。


「明日出発の予定だったんだけどなあ」


 午後には治るだろうが、午前中には登城の予定がある。

 ぐるぐると腹を下した状態で王に謁見するのはあまりにもリスクが大きすぎるのだが?


 ……最悪は魄導で括約筋を限界強化して耐えよう。それか鎖に上手いこと圧迫してもらうか?


 考えた途端、俺の思考をトレースしたっぽい鎖が強烈に左腕を縛り上げた。


「痛い痛い。わかったから、やらないから腕を圧迫すんのはやめてくれ」


 あまりにもあんまりな使用法を検討する俺に鎖からの力強い拒絶。

 相変わらず、湯浴みの時以外は左腕に巻き付いているこいつの正体は依然不明。

 観測の概念を持つと判明したフェレス卿に見てもらっても、「妨害されてますねえ」とさらっととんでもないことを言われてしまった。


「……はあ。少し風に当たるか」


 あちらこちらへふらふらする思考を落ち着けようと、俺はベランダに出て月を眺める。

 あの丘から見えたものよりも、こころなしか小さく見えた。


「……あ。そういや俺、フェレス卿に労いの言葉もらってねえじゃん」


 《英雄叙事オラトリオ》の開花という別の目的があったにせよ、『極星世界』ポラリスの〈魔王〉からリステルの全面庇護を約束してもらったのだ。まず間違いなくあの人の目的にも寄与することなのに……。


「感謝の一つもねえじゃん。次あったらねちねち言ってやる。あと——」


 独り言でも、フェレス卿への悪口は出るわ出るわ。

 次から次へと思い出しては神経を逆撫でする道化師の無茶振りの数々を一人で反芻していれば、いつのまにか心は落ち着いていた。





◆◆◆





 エトラヴァルトが一人、フェレスの悪口大会を開いていた頃、時を同じくして。

 イノリとミゼリィは、同じ布団で川の字になっていた。


「……なんで私ここにいるのかな?」


「私の気が向いたからですね」


 用を足すタイミングが偶然被った際、ミゼリィが強権を発動させてイノリを自室まで引っ張ってきたのである。


「イノリさんとは、一対一で話してみたかったんです」


「そ、そうなんだ……?」


 自身の相棒に突如として過去から生えてきた婚約者という存在。その本人からのお誘いに、イノリは得体の知れない悪寒から背筋を震わせた。


「ほ、本日はお日柄もよく——」


「エトは、よく笑うようになりましたね」


 一体どんな話をするのかと戦々恐々として妙なことを口走ったイノリの考えとは乖離するように、ミゼリィが口にしたのはそんな安堵だった。


「……エトくん、前は笑ってなかったの?」


「笑わない、というのは正確ではないですね。エトは、ずっとだったんです」


 二年前、戦争でアルスを喪ってから、ずっと。


「……魂が、抜け落ちたみたいでした」


 そんなミゼリィの言葉に、イノリはエトと出会った頃を思い返す。

 ……言われてみると確かに、背負うものの割に、行動がふわふわとしていたというか。

 イノリがよく知るエトであれば、パーティーメンバーの募集など二の次で異界主を叩き斬りにいっていたであろうことは想像に難くない。


 初めてを表出させたのは、そういえば、ごろつきに剣を馬鹿にされた時だった。


「その様子だと、イノリさんと出会ってからはそこまで無気力というわけでもなかったんですね」


 窓辺から差し込む月光が薄く照らす部屋の天井を揃って眺める中、ミゼリィは、つい本音を漏らす。


「羨ましいなあ」


「え……?」


 聞こえた呟きに、イノリは視線だけを隣で寝るミゼリィに向ける。


「私では、エトを支えきることができなかった。私では、エトを笑顔にできなかった」


 それは、後悔や苦悩。そして、嫉妬と羨望。

 エトラヴァルトという男のを占有し続ける少女に挑み続けて、負け続けて。

 それでも、一番になりたい女の本音があった。


「だから、イノリさん。私は貴女が羨ましい」

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