何者④ ——死の標識

 魄導とは、生命の根源……“魂”から直接力を放出する技術である。

 戦闘における出力はもちろんのこと、自由度も闘気や魔力とは比較にならず、一対一の戦闘に限定した場合、魄導の有無がそのまま勝敗に直結するほどにそのは大きい。


 スズランやスミレ、リンドウ、アハトなどを比較してわかる通り、魄導は個人によって大きくその形を変える。

 自らの肉体性能を限界まで引き上げる者、剣技に交えて敵を粉砕する者、“概念”と掛け合わせ比類なき力を発揮する者など。


 類似点を上げるのであれば、皆一様に身体能力を大きく引き上げている点だろう。


 魄導の会得には、自己の魂を正しく認識しなくてはならない。その過程で、人は己の肉体への理解を深め、強靭な身体能力の獲得、或いは種族によっては特異な力の発露に至る。

 彼らは力の反動に耐えるために、意識の有無に関わらず一定以上の身体能力の向上に力を割いている。


 ……では、魄導を会得する以前から並の他者を上回る身体能力を有していた者が。

 〈異界侵蝕〉に名を連ねる者が認めるだけの桁違いの魄導の出力を有する者が、その身体能力を極限まで高めたらどうなるのか。


 その答えを示すように。

 繁殖の王と 新たな紡ぎ手エトラヴァルトが黒雲の下で激突した。




◆◆◆




 掻き消え、数瞬遅れて凄絶な撃砕音が戦場を満たした。

 繁殖の王モミジとエトラヴァルト。両者共に自らの身体能力に魄導を注ぎ込んだ結果、余人の介在を許さない超高速戦闘が幕を開けた。


「その身体は、その声は、その名前は! 師匠のたった一人の親友のものだ!」


 薄闇の凶爪と銀の長剣エストックが鍔迫り合いの余波だけで大地に夥しい亀裂を走らせる。


「繁殖——お前を斬る!」


『やってみなよ、余所者が!』


 モミジの右脚がエトラヴァルトを左腕のガードの上から吹き飛ばし追従する。

 空中で体勢を立て直したエトが飛ばす銀の斬撃を両腕の薄闇色の凶爪で叩き割り肉薄、凄絶な連撃を叩き込む。


 爪の一振りで大地が割れ、剣の円環が隆起した凍土を熱されたバターのように切り抉った。

 踏み込む足が凍土を抉り、突き込む拳が空間を揺らす。一挙一動が並の人間の全力を凌駕する。その光景は正に、局所的な災害に相違なかった。



「速すぎる……!」

「目で追えねえぞ!」

「どっちが優勢なんだ!?」


 銀級上位相当の動体視力では正確な視認すら不可能な領域の決戦。

 薄闇と銀光が幾度となく交錯し、ふざけた剣戟の余波が全身を叩く。

 

「ど、どうなってるんですか!? ラルフ! 実況、実況を!」

「いだだだだだだだ!? ま、待ってくれ! ストラちゃん待って! それ以上揺らされたら俺死んじゃう!?」


 戦いの趨勢をその目で見守るのは、スズランとスミレ、リンドウ、イノリ、ラルフ、そしてキキョウの六人。

 卓越した動体視力、或いは常識外の魔眼を有さないストラはとりあえずそばにいたラルフをせっついた。


「エトくんが、繁殖の竜と渡り合ってる……でも!」


 イノリの横顔は険しい。


「それでも、押されてる……!」


 覚醒を経てなお、繁殖の王は絶対的な優位を持っていた。

 防戦一方。

 魄導により昇華した円環の斬撃と、どういうわけかエトに付き従う“聖女の鎖のわけ身”の変幻自在の防御が、かろうじて繁殖の王の凶爪と絶えず生み出される“成竜”をベースにした眷属の猛攻を凌ぎ続ける。


 しかし、攻撃に転ずる余白がない。

 そも、エトラヴァルトの剣技は根本が非常に“防衛”に傾倒している。


 そしてこの戦い。イノリたちに……ひいては豊穣の地に被害が出ていないのは、エトラヴァルトが繁殖の王の攻撃を誘導し、我が身を盾に守っているためである。


 守りたいものの存在はエトに力を与える。だが同時に、それは戦闘における強い束縛にもなる。


「——違う!」


 しかし、イノリの押されているという表現をスズランが訂正した。


「押されてるんじゃねえ。アイツは今、拮抗してる! 誰も受けきれなかった野郎の攻撃を、アイツは今!」


 それは明確なエトラヴァルトの優位点だとスズランは断言する。並んで、スミレも肯定した。


「確かに防戦一方。攻撃には転じられてない……でも! 防御に焦点を当てるなら、クソガ……エトラヴァルトは、今、繁殖の竜と渡り合ってる!!」


「頼む、お客人……いや、エトラヴァルト!」

「俺たちの家を、豊穣の地を!」


 声援が膨れ上がる。

 たった一人で強大な存在に立ち向かう青年の勇姿に、誰もが喉が枯れるほどのエールを送る。


「……しかし、あと一手」


 ミツバとキキョウの二人に支えられながら、リンドウが前へ……スズランたちの横に並ぶ。


「何か一つ、攻めに転ずる契機が必要じゃ」


 拮抗のままでは、いずれエトラヴァルトの体力が尽きる。魄導は決して無尽蔵の力ではない。放出を続ければ魂は当然疲弊する。

 いくらエトの魂の強度が常人離れしていようと、同様に常人離れした力の放出を続けていればそう遠くない未来に限界が訪れる。


「頑張れ、エト!」

「エトくん……!」


 ラルフが、イノリが。声を送ることしかできない誰もが拳を握る。

 わかっているのだ。目の前で繰り広げられる化け物同士の戦いに、満身創痍の自分達が介入できる余地はないことを。むしろ、下手に動けばエトラヴァルトの足手纏いになってしまうことを、彼らは強く理解していた。


「……馬鹿娘が。いつまで、下を向いておるんじゃ」


 リンドウは小さく、誰にも、隣のキキョウにも聞こえないくらいの声で呟く。


「お前の弟子が戦う姿から目ぇ逸らすでないぞ」




◆◆◆




 戦っている。

 自分を師と仰ぐ少年が。自分よりずっと若くて、ずっとずっと逞しい人族が。


「……わかってるのよ」


 涙に湿った声が漏れる。


「アレが、モミジじゃないことなんて……わかってる」


 わかってなお、剣を持てない。膝に力が入らない。

 カルラは、立ち上がれない。


 会いたかった。ずっと、もう一度。

 どうして戦えるというのだ。

 別人だ。あれは、親友の皮を被った竜だ。……それでも、あの身体は紛れもなくモミジのもの。


「できないわよ。あの子に、剣を向けるなんて……!」


 もしかしたら、なんて希望を抱いていた。

 400年ずっと、ひょっこりと帰ってくるんじゃないかなんて。

 死体がなかった。血の一滴すら、あの戦場には残っていなかった。

 彼女の死を決定づけるものは何一つなくて、墓の下には何もない。だから、本当はまだ生きてるんじゃないかなんて存在しない希望に縋り付いた。


 それを、目の前で打ち砕かれた。

 モミジは死んでいた。繁殖の竜に、確かに食われていたのだ。

 モミジの顔で、モミジの声で。でも、彼女はモミジじゃない。カルラのたった一人の親友ではないのだ。


「無理よ……もう」


 約束は、二度と果たせない。

 ありもしない希望に縋り続けた果てに、たどり着いたのは確かな離別。


「私はもう、これ以上——」


 ——進めない。


 その言葉を、口にする前に。


「——師匠!」


 繁殖の王モミジと戦う、エトの声が耳に届いた。


「師匠、前に言ってたよな! 『どうすれば良かったんだろう』って!」


 約束の木の下、エトに過去を語った夜、カルラは自らの迷いを吐露した。

 エトは、それに今、答えようとしていた。


「考えたんだ! 言わなくちゃいけないことがあるって!」


 薄闇の凶爪と眷属の猛攻を紙一重で凌ぎ続けながら、繁殖の王を睨みながら、エトはカルラを“視て”いた。


 打算と本音。

 戦場の均衡を崩すために、戦える人間が必要だった。

 同時に、言葉にしなければならないと、伝えなくてはならないという想いも真実だった。


「——多分、どうしようもなかったんだ! 変えようがなかったんだよ!」


「…………!」


 エトは、カルラが目を逸らし続けてきた現実を目の前に叩きつけた。


「だって、誰も悪くなかっただろ! みんなが全力を尽くした! 師匠は勇気を振り絞って戦場に立った! 爺さんリンドウも、ツバキって人も、誰も間違えてなかった! モミジさんだって!」


 400年前の戦場に過失はなかったと、を出した。


「だからこの話は、モミジさんの命の旅は、そこで終わりなんだ」


「……なら、なら! 私はどうすればいいのよ!?」


 激情に駆られてカルラが叫んだ。

 瞳から大粒の涙をこぼし、溢れ出る感情の矛先をエトに向けた。


「天才だって、希望だって持て囃されて! そのくせ臆病で何もできなかった! アオイさんのお兄さんが死んだ時も、モミジが目の前で食われた時も、何も! 守れなかった!!」


 頬を伝う涙を拭うことすらなく、カルラは戦場のど真ん中で後悔に心を塗り塗り潰す。


「現実と向き合うのが怖くて、逃げ続けて! 目も耳も塞ぎ続けた! そんな私が、一体どうすればいいのよ!?

教えてよ、エト!」


「——繋げ!!」


「っっっ!?」


 腹の底から、凄まじい戦闘音すらかき消す大音声をエトが叫んだ。


「モミジさんが! アンタの親友が繋いだその命を! 想いを!! 前に繋げ!!」




◆◆◆





「400年前の結末に失敗なんかなかった! そこにあるのは、モミジさんが、命をかけてアンタを守ったことと、今日まで豊穣の地が存続しているって事実だけだ!!」


 死は、事実だ。一つの命が終わりを迎えたという、その旅路が終わったことを告げる純然たる事実だ。それ以上でも、それ以下でもない。


「受け入れるしかないんだよ!」


 苛烈さを増す繁殖の王の攻撃を凌ぎながら、俺は、俺自身にも言い聞かせるように言葉を尽くす。


「死んだ人間はそこで終わりなんだよ! どれだけ俺たちが願っても、続きが紡がれることはない! どんなに華々しい日々も、苦難に満ちた道程も、何もない荒野も! 全部、等しく終わるんだよ!!」


 過去は変えられない。

 一度紡がれた筋書きを書き換えることは、俺たちにはできないのだから。

 ガルシアの、アルスの死を、変えられることはできない。流した涙を戻すことはできない。でも——


「それでも! を紡げるのは、俺たちだけだ!」


「——っ!」


 背後、師匠が僅かに息を呑んだ。


「——〈鬼王〉の物語は敗北だった!」


 スイレンは、戦いの最中で死んだ。

 それはつまり、彼が繁殖の竜に敗北したことを意味する。

 だが、それでも彼は英雄として後世に名を残した。

 その先を、《英雄叙事オラトリオ》は僅かながら記録していた。


「彼はあと一歩届かなかった! 繁殖の竜を止めることができなかった! でも! 彼の背中に勇気づけられた人たちが、〈鬼王〉の死のを繋いで、物語を紡いだ! だから今がある!」


 俯いて涙を流しても、もう一度前を向けるのなら。


「繋げ! アンタの親友は、自分の命を擲ってアンタを助けた! それが、俺たちが得られるたった一つの答えだ!」


 別の思惑があったのかもしれない。本当は、師匠も助けて、自分も生き延びようとしたのかもしれない。妄想なんていくらでもできる。それでも、残る事実はたった一つ。

 なら、俺たちにできるのはその事実を受け止めて前に進むことだけだ。


「モミジさんの死の、その先を紡げるのはアンタだけだ! ただの悲劇で、敗北で終わらせんじゃねえ! 繋げ! それは、アンタにしか紡げない“物語”だ!!」


 なぜか意のままに従う鎖を盾に繁殖の王の一撃を弾き飛ばし、踏み込み、袈裟斬り。

 魄導により拡張した斬撃圏を嫌った王が大きく後退した僅かな隙に、俺は腹からありったけ声を出した。


「それに、まだ終わってねえ! モミジは、アンタの親友はまだ戦ってる! あの野郎が記憶の全部を知らないのがその証拠だ!」


 ——ざり、と大地を梳る音がした。


「立てよ師匠! 伝えたい言葉があるんだろ! 話したいことが山ほどあるんだろ! だったら立て、カルラ・コーエンッ!!」


 返答を待たず、俺は繁殖の王へと突貫する。


『——!?』


 防御一辺倒だった俺の速攻に一瞬面食らった相手の動きがワンテンポ遅れ、鈍る。


「フッ——!」


 短い気合いと共に繰り出した袈裟斬りが角度を誤った凶爪の防御を滑り、左腕の肘から下を切り飛ばした。


 しかし、軽症。


『この程度で……!』


 細胞を膨張させた繁殖の王は眷属を生み出しながら瞬く間に左腕を再生。同時に、俺の右足下に手が伸びた。


「なにを——」


 瞬間、右足と大地のした。


「は——っ!?」


 思わず驚愕が漏れる。

 踏ん張りの効かなくなった右足を無様に滑らせ姿勢を崩らせ、そこに容赦のない凶爪の連撃が降り注いだ。


「づうっ……!?」


 摩擦の消失はほんの数秒。

 すぐさま元の踏ん張りを取り戻すが、一度悪化した態勢が俺に凄まじい不利を言い渡す。


「てめっ……なにしやがった!?」


『言うと思う!?』


「だよなぁ……っ!」


 防御を抜かれる。

 防ぎきれない凶爪が俺の全身を浅く、次第に深く抉っていく。

 舞い散る鮮血、鈍化する四肢の反応に歯を食いしばり……笑う。


「遅えぞ、師匠」


 唐紅の剣閃が繁殖の王の首元に迫り、小蝿を叩くような軽さで弾かれた。

 しかし、一瞬緩んだ猛撃の間隙を突き体勢を整え、力任せに剣を叩きつけ無理やり繁殖の王をその場から弾き飛ばした。


「ごめんなさい、エト。迷惑かけたわ」


 華麗に着地した繁殖の王は、一対の小太刀を携え刃を向けた師匠を前に、心底不思議そうに首を傾げた。


『カルラちゃん……どうして? なんで、私に剣を向けるの?』


「やめて」


 師匠は逸らしそうになる目を歯を食いしばって正面に縫い付け、毅然と言い放つ。


「あんたはモミジじゃない。それ以上、私の親友を騙らせたりしない!」


 唐紅の闘気に昂る感情を乗せた師匠を前に、繁殖の王は『そっか』と呟き、モミジの顔を右手で覆い隠す。


『本当は、カルラちゃん名付け親掌握して、モミジ憑代を壊すのが手っ取り早かったんだけど……もういいや』


 手を取り払ったそこには、狂気の滲む竜の仮面が出現していた。


『豊穣もまとめて、全部喰らえばいい』


「——エト、力を貸して」


 師匠は震える体で、それでも前を向いていた。


「アイツから、モミジを取り返したい。あなたの力を貸してちょうだい」


「——言われるまでもねえ。師匠、これを」


 俺は虚空から一着のを取り出し、師匠に託す。

 〈鬼王〉の羽織を受け取った師匠が目を見開いた。


「これは……!」


「キキョウが、アンタに渡せって。アンタが着るべきだ」


 一瞬の躊躇の後、カルラは勢いよく羽織を身につけた。

 白い羽織の着用は、〈鬼王〉の、守護者の名の継承を意味する。

 ここに、カルラ・コーエンは〈鬼王〉の異名を背負って大地に立った。


「俺が切り開く。アンタに降りかかる障害の全てを、俺が斬り伏せる。だから、言葉を、想いを、力を——ありったけ伝えてこい!」


「——ええ!」


 400年を埋める、刹那の旅路が始まる。

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