カーレンベルクの戦い(4)
「……エルミア?」
華奢な姿。
部屋の中央に立ち尽くす人物の髪の黄金色が、シュターレンベルクの魂を射抜く。
つややかな白い肌。
頬から顎、首にかけてのなめらかな曲線。
果実のように艶めく唇。
幻ではない。
確かな質感をもってそこに居る。
ゆっくりと近付いて。
「エ、エルミアなのか……」
恐る恐る手をのばし指先が触れると、細い肩はビクリと震えた。
構わず背に腕を回す。
様々な感情が、愛おしさと共に込み上がってくる。
「エルミア、エルミ……ア?」
抱きしめた身体の意外な薄さに、ふと手が止まった。
彼女が一言も喋らないことに訝しさも芽生える。
抱きしめたまま、その顔を覗き込んだ。
そこにあったのは、冴え冴えとした緑の光。
──違う!
弾かれたように身体を離したその瞬間。
「エルミア」が初めて口を開いた。
「……エルミア・マルギトは土の下にいたよ」
高い声。
だが、それは甘やかな女のものではない。
「誰だ、お前……」
エルミアに見える。
この人物は、紛れもなくあの女の顔をしていた。
幽霊? 呪い? そんな馬鹿な……。
そのとき、目の前の「女」がニヤリと笑ったような気がした。
誰だなんて、尋ねる間でもないでしょうに。閣下──と。
そう、ここはシュターレンベルク自身の部屋。
今ここにいるのは、あの小僧だ。
鍵のかかるこの部屋に、とりあえず閉じ込めておけとシュターレンベルクが自ら命じたのだから。
救援軍が近付いている。
どう転んでもウィーンには、じきに他国の軍が入って来ることになろう。
決戦に勝てば救援軍が。
そうでなければオスマン帝国軍が。
そのとき、こんな所に閉じ込められたままではややこしいことになりかねない。
こっそり逃がしてやろうと思い立ってここまで来たのだ。
ここに閉じ込めた人物は何かをやらかしたのかもしれない。
しかしシュターレンベルクが、フランツから悪意を感じたことはただの一度もなかったから。
「エルミア……いや、フランツなのか? 誰だ?」
思考がまとまらないのは疲れのせいもあるかもしれない。
何せこの二か月、ちっとも寝ていない。
よく見れば分かるのかもしれないな。
この顔をじっと見れば、この人物が誰で、何故こんな風にここに立っているかが理解できるはず──そう思ってその顔を覗き込んだときのこと。
胸に衝撃。
そいつの拳がシュターレンベルクの上体に叩きつけられたのだ。
見下ろすと、細い肩がわなないている。
整った顔を大きく歪め、緑の双眸からポロポロと涙をこぼしながら、少年は唇を噛みしめていた。
「なんで……姉さんが……」
無抵抗にその場に立ち尽くしながら、シュターレンベルクの思考はようやく鈍い回転をはじめた。
この者の名はフランツ・マルギト。
さっき彼は言っていたな。
エルミア・マルギトは土の下にいたと。
アウフミラーの描画を思い出す。
天使の顔はフランツにそっくりに見えた。
だが、待て。
あの顔を、シュターレンベルクは他にも知っている。
そう、天使は柔らかく、たおやかで女性のような容姿であった。
あの絵はきっとエルミアを思って描かれたものに違いない。
何故今まで気付かなかったのか。それほどに天使と彼女はよく似ていた。
それらが両立するのは、エルミアとフランツがそっくりだったからだ。
ようやく思い至った。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
二人は同じ明るい緑色の瞳を持っていたというのに。
「どういうことだ。お前は一体エルミアの何なんだ。土の下ってどういう……」
この部屋の窓には、外から板を打ち付けることになっていた。
捕えたフランツの脱走を防ぐためである。
しかし兵士らは皆、それぞれの仕事で手いっぱいだったのだろう。
窓はそのままになっていた。
だから内から簡単に鍵を外し、フランツは庭へ出たのだろう。
そのまま外へ脱出するには、さすがに王宮には兵士の数が多く、断念したと思われる。
しかし忙しい兵士らは皇帝の庭になど目を向けない。
フランツは何度も庭に出たのだろう。
もしかしたらこっそり手に入れたジャガイモを植えていたのかもしれない。
力を失ったフランツの身体を押しのけ、シュターレンベルクは立ち上がる。
フラリ。足をもつれさせながら窓辺へ。
部屋を出て数歩先の地面が不自然に盛り上がっていることには、すぐに気付いた。
その一部が抉るように削られていることにも。
ちらと後ろを振り返ると、フランツも強張った表情で同じ所を見ていることが分かる。
おりしもの雨で地面はぬかるみ、まるで何かを埋めたかのようにその山の一角は崩れていた。
吸い寄せられるように数歩。
シュターレンベルクはその場にしゃがみ込み、両手を使って土を払う。
黒い土の下に布のような白が、まず見えた。
違う、人の肌だと気付いた次の瞬間、白を縁取る金色の糸が目に留まる。
髪の毛であった。
土にまみれているものの、それは美しく輝いている。
次いで見えたのが、緑だ。
金のまつ毛に縁どられた目蓋がうっすらと開いており、そこから緑の瞳がこちらを覗いている。
「………………」
唇をかすかに震わせるものの、声は出なかった。
小刻みに振動して力が入らない両の手を懸命に動かし、土をきれいに払いのける。
無機質にシュターレンベルクを映す緑色の眼球は、硝子玉のようでピクリとも震えない。
細い身体をそろりと抱き上げると、土塊がぼとぼとと落ちた。
触れた肌は氷のように冷たく、四肢は硬直している。
「エルミア……こんな所に……」
──生きている筈がないとは分かっていた。
だが、現実にこうやってその亡骸を目の前にすると、例えようのない喪失感に苛まれる。
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