指揮官の誇り(6)

     ※ ※ ※


 その夜遅くのこと。


 シュテッフルの塔からオスマン帝国軍陣営に向けて砲弾の雨が降った。

 劣勢に立たされたウィーン守備隊の、せめてもの抵抗とでもいうかのように、このところ連夜続けている攻撃だ。


 その指揮はグイードに任せて、ウィーン防衛司令官は市壁上の巡視路、篝火の傍で渋面を作っていた。

 すぐ隣りでバーデン伯がびくついているのが分かるが、苛立ちは抑えきれない。

 手にした書状を破ろうと、震える指に力を込めてはすんでのところで思いとどまる。

 この動作、本日何度目であろうか。


「シュ、シュターレンベルク伯。あぁ? 分かってるだろ。冷静になれよ。そんなもの破ったって何も……変わらねぇよ?」


 じろりと睨まれ、バーデン伯の語尾が掠れた。

 ビクビクするなら付いて来なきゃいいんだと思うが、さすがにシュターレンベルクも口には出さない。

 わざわざ怖がらせてやる必要もない。


 そうすると、こちらに寄り付こうともしない息子リヒャルトの態度は逆に潔く思えてしまう。

 息子は息子で攻撃部隊にはできない仕事に力を尽くしているのは知っている。

 防火体制の確認や、市民の訓練。

 市長が言っていたっけ。彼は実によくやっていますよ、と。


 誰に言われなくても、そんなことは分かっている。

 不器用な息子は、奴なりにこのウィーンを守ろうと懸命に働いているのだ。

 息子のことを考えたからではあるまいが、怒りによる指の震えが止まった。


 ──三十万の軍勢は刻一刻膨れ上がり、このままでは数日の後にも貴市が灰燼に帰すであろう


 書状の差出人はカラ・ムスタファ・パシャ。

 オスマン帝国軍総司令官による、これは重ねての降伏勧告書状であった。


 ウィーン防衛軍による度重なる奇襲攻撃は無論鬱陶しいであろうが、彼らにとって大して痛手にはなっちゃいない──文面からは、そんな余裕すら感じられるではないか。


「カラ・ムスタファとはどんな男だろうな」


 通常ならば二か月も対峙していれば、直接会うことはなくとも、相手指揮官の人となりは感じられるものである。

 しかし数を頼りの包囲戦術の中に敵指揮官の顔は、そしてその色はしかと見えてこない。


 スルタンの命により、遠い異国から何か月もかけてウィーンにまで出向いて来た男。

 各地方から招集した軍をまとめ上げている将。

 大軍を完璧に掌握できているのだろうか。

 兵からは慕われているのだろうか。

 もしも途方に暮れ、どうしようもなく思いながらもここに立っているならば自分と同じだ。


 ──……伯!


 バーデン伯の声に我に返った。


「シュターレンベルク伯、らしくねぇな。敵に人間性を求めるなんて。奴を前にした時、戦えなくなるぞ?」


「うるさい! 言われなくても分かってる」

 声を荒げかけたところで、自制の念が働く。

「……分かっている。心配いらない。さて、返事でも書くか」


 気分転換に伸びをするかのような軽い口調にバーデン伯はフンと頷き、それから「あぁ?」と怒鳴った。


「返事って、カラ・ムスタファ・パシャにかよ。放っとけよ。無視だよ。陛下が援軍を引き連れて戻ってきたら、こっちも一斉に打って出る。そいつが返事だ。だろ?」


「これだから……」


 単細胞は困る。

 物事を一面からしか見ようとしない。

 シュターレンベルクの口元にのぼる意地の悪い笑みを認めたか、バーデン伯の頬がピクピク引きつっている。

 これはマズイと、指揮官は肩をすくめた。

 心の中だけで罵ったつもりだが、顔に出ていただろうか。


「バーデン伯。そういうつもりじゃないんだ」


 何とか取り繕っておこう。

 またへそを曲げられては敵わない。

 彼の力量を目の当たりにした今なら、尚更そう思う。


「おい、どこへ行く?」


 腹を立てたろうか。

 バーデン伯はくるりと背を向けると、赤い上着の裾をなびかせながら、陵堡の階段を下りてしまった。

 そのまま兵士詰所に駆けこんでしまう。

 短気な伯のことだ。

 腹を立てたのだろうか。


 しくじったとため息をついたのもつかの間、すぐにバーデン伯は戻ってきた。

 手には紙とインク、それからペンを持っている。

 詰所から調達してきたらしい。


「手が動かせねぇんだろ。敵に返事を書くなら、わたしが代筆してやろう。言え……仰ってください、防衛司令官殿」


「バーデン伯……」


「右手の怪我ならわたしのせいだ。代わりくらいはしてやる。一言一句違えず書くよ」


 意外な申し出に目を見開く指揮官に対して、バーデン伯は尚も詰め寄る。

 ほら、わたしだって役に立つだろうが。任せろ、と。


 バーデン伯の今日の銃撃は見事だった。

 まさかこの男……俺に庇われた時からずっと、銃の練習をしていたわけじゃあるまいな──ふと過よぎった考えが、あながち創造の産物でもなさそうで、シュターレンベルクは少々怯む態度を見せる。

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