指揮官の誇り(4)
※ ※ ※
八月終わりから続いていた小雨は、九月に入って本降りに転じていた。
連日の雨。
ウィーンの頭上は厚い黒雲に覆われ、切れ目から陽の光を拝めることはまれになっていた。
今もまだ夕刻だというのに、宵に入ったかのように周囲は暗く沈んでいる。
先程まで激しく降っていた雨は徐々に粒を小さくし、勢いをなくしていった。
奇襲にはうってつけの頃合いである。
頼みの精鋭たちが騎乗したことを確認し、それから陵堡を見上げる。
壁の上からこちらを見下ろす兵らに頷きを返した。
ケルントナー門は開けない。
代わりに通用口代わりにしている小さな門が静かに開かれる。
騎手を乗せた馬たちは静かに市壁の外へと滑り出た。
「兄上、おれが先に……」
割り込むようにグイードが先に門の勝手口を抜ける。
彼の人選により特に腕の立つ者から順に続いた。
声はあげないし、物音も立てない。
手筈通りである。
門をくぐった瞬間、グイードの馬が駆け足になったのが分かった。
二百メートル弱の距離など、馬の全速力では数秒だ。
それでもほんの少し速度を緩めて走るのは、頭上の陵堡からの砲撃を待っているから。
地上の騎兵と呼応して、壁の上の砲が照準を定める。
その第一弾が火を噴き、じわじわとグラシに侵入しつつある敵陣営の柵と遮蔽物を吹き飛ばした。
──グラシへの侵入だけは決して許すな。蹴散らせ。
それが今回の作戦の目的だ。
こちらが市門をきっちり閉めて壁の中へ籠るのを良いことに、ここ数日相手は少しずつ距離を詰めてきた。
ウィーンとしての命綱である空き地(グラシ)に、少しずつ侵入してきたのだ。
それは何としても撃破しなくてはならない。
敵の砲の射程圏内に入ってはならない。
入ってしまえば、シャーヒー砲ですらウィーンにとって脅威となる。
グラシをきれいに開けておくことには、そういう意味があるのだ。
防衛軍がこうやって奇襲に頼るのはオスマン帝国軍が「敵が改宗するまで戦う」連中であるからだ。
ヤン三世率いる援軍到着日時の目途が完全に立ったならともかく、見切り発車で正面からの戦端を開くわけにはいかない。
ずるずると地獄に引きずり込まれるだけだ。
「お・お……おおーっ!」
静かな出発だったが、それだけに高まる感情は激突の瞬間に爆発する。
雄叫びを発してグイードが敵軍に迫った。
騎乗しながらも正確にマスケット銃の狙いを定める様子が、後方からも確認できる。
ウィーンからの砲撃で吹っ飛んだ敵軍の柵の向こうで、何人かが動く影が見える。
一番手前の頭に狙いをつけた瞬間、しかしその姿は何故かフッとかき消えた。
「クソッ」
やや後方を走るシュターレンベルクの銃口の先でも、同じ現象が起こっている。
もちろん、敵兵が消えたのではない。
地面に掘った穴に隠れたのだと分かる。
これがオスマン軍のトンネルか。
「厄介な物を造りやがって」
トンネルといっても、市民たちが噂するように地中を完全にくり抜いて空洞を掘っていくというような代物ではない。
遠征先で道具も限られる中、そんな物を造りあげるのは物理的にも難しいだろう。
彼らは人の腰ほどの深さの塹壕を掘った。
そしてそれをウィーンに向かって掘り進めたのだ。
掘った土を穴の際に積み、山のような形に盛る。
それはつまり、簡易的な堀と土塀といっても差し支えないだろう。
これはウィーン陵堡からの攻撃に対して盾の役目を果たす。
盛り山に沿ってご丁寧に柵まで拵えてあった。
もしこれを都市に向かって垂直に掘り進めては、角度的にトンネルの後ろ側がウィーンからの砲撃、銃撃に晒されよう。
オスマン軍はこれを市壁に対して並行に掘ったのだ。
何度もジグザグに曲がり、その度に角度を少しずつ変えながらウィーンに近付く。
そうすることによって、より多くの兵が塹壕の中に身を隠しながら、市に近付くことができる。
これがオスマン軍の造るトンネルであった。
塹壕に身を隠しながらの攻撃を侮ることはできない。
こんなものをいくつも造られて、放置するは命取り。
ゆっくりとではあっても確実に市に近付かれるのは何としても阻止しなければならない。
薄暗がりの中での奇襲のため、敵に塹壕内で迎撃態勢をとって出迎えられるという心配は少ないが、それでも危険はある。
精鋭が縦一列になって突っ込むという今回の戦法だと、相手の射撃によりこちらに犠牲が出たとしても、それは先頭の一騎だけですむ。
面で守る敵軍に対し、一点を鋭く突くという戦術だ。
先頭の騎兵は一番危険が大きいこととなるのだが、この役はグイードが買って出てくれた。
薄闇の中、雨に濡れた地表を震わす軍馬の突撃。
怒声に近い雄叫びをあげながら、グイードがオスマンのトンネルに到達した。
マスケットは放り捨て、槍を振りかざす。
咄嗟に塹壕の中に身を隠した敵兵を上から狙い刺した。
銃による攻撃に対しては塹壕の中に隠れれば良いが、頭上から槍で突かれては敵とてひとたまりもあるまい。
グイードが槍で敵兵士らを牽制する間に、二番目に続く兵士が土塁の上に黒い粉を撒いた。
三番目の兵士が手にした松明をそこに投げ捨てる──そこで起こる小さな爆発。
ウィーン守備隊の得意の戦法である。
四番目から六番目の兵も、別の場所でそれぞれ同じ作業を行う。
三騎一組となっての、あらかじめ指定されていた動きであったから、精鋭たちの行動は早かった。
列の後ろ──最後尾から見やるシュターレンベルクの眼に、小さな爆発の連なりは地上に咲く花のように映ったものだ。
可憐な花はグラシに侵入しつつあるオスマン陣営防御柵を次々に崩し、掘り進めた塹壕の土を容赦なく埋め戻す。
慌てて塹壕から飛び出した敵兵は槍の餌食となった。
よし、と小さく呟く。
奇襲は成功だ。
トンネルを崩すのはあと十数メートル程の長さで良い。
敵の増援が来る前に撤退だ。
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