指揮官の誇り(2)
※ ※ ※
出撃前にも関わらず、指揮官の意識は昨夜の出来事へと飛んでいた。
──シュターレンベルク、本当に僕のこと覚えてないのッ!
兵士らに拘束されながらも、フランツはシュターレンベルクに向かって叫び続ける。
──思い出してよッ! 僕は一日だってシュターレンベルクのこと忘れなかったよ!
周囲からの視線に、指揮官は首を横に振るしかない。
自分に心当たりはない。
捕まりたくないがために、パン屋が出鱈目を叫んでいるとしか思えなかった。
迂闊だった。
彼があまりに無邪気で能天気なものだから、すっかり心を許して側に置いてしまった。
神聖ローマ帝国による支配に反抗したハンガリーの民が、オスマン帝国軍の進軍に呼応して立ち上がったという話は、あながち噂だけではあるまい。
間諜としてウィーンに入り込んだり、元からこの辺りに住んでいた者たちがこの機に乗じて活動を開始したという。
それはアウフミラー一人だけではあるまい。
パン・コンパニオンなどという訳の分からない肩書を自称して防衛司令官に近付いてきたフランツの存在は、今まで怪しまなかったのが不思議なくらいに違和感を覚えるものであった。
彼らの狙いは内部での諜報活動と、あわよくば内から門を開けて軍勢を招き入れること。
今思えば最高指揮官とその娘が、まんまとそれに引っかかったという形になるわけだ。
マリア・カタリーナがアウフミラーの画帳にフランツの顔を見付けたことをきっかけに、彼への疑惑は膨らんだ。
この時期にウィーンにやってきたこと。
防衛司令官や市長に取り入ろうとしたことや、アウフミラーと親し気だったことなど、疑いの根拠は事欠かない。
思えば「フランツ」という名はドイツ語だ。
フランスでは「フランソワ」となる筈。
彼がドイツ語圏の住民であることは間違いあるまい。
もちろん彼はフランスからやって来たとは言ったが、フランス出身であるとは述べてはいない。
この時代、国境を超えることは比較的容易だし、職人が師を求めたり活躍の場を探して旅に出るのはよくあることだ。
国籍を理由に疑いを深めることは愚の骨頂である。
そうは思っても、一度生じた疑惑はなかなか消えるものではなかった。
「兄上?」
「あ、ああ……」
手が止まっていたようだ。
フランツは今、王宮に与えられたシュターレンベルクの自室に閉じ込めてある。
外からも鍵のかかる部屋は限られているからだ。
また屋根裏に監禁するなら見張りが必要だし、マリア・カタリーナがアウフミラーを刺したあの部屋を使う気にはならなかった。
第一、今のウィーンには人的余裕は一切ない。
それ故の選択である。
シュターレンベルクの部屋は一階で、大きな窓があるが、それは外から板を打ち付けることとなった。
監禁中のフランツはシュターレンベルクと話をさせてと言うばかりで、何も喋ろうとはしないらしい。
閉じ込めているわけではあるが、あの場所は安全であるし、落ち着いたら少し顔を出してやろうと考えてしまう自分の甘さに、シュターレンベルクはぞっとした。
「兄上、如何された?」
「あ? ああ、大丈夫だ」
グイードの声は、この男にしては珍しく柔らかい。
焦れているのではなく心配してくれているのだと分かり、シュターレンベルクは雑念を追い払った。
二通目の手紙を開く。
恙無きや エルンスト──。
同じ書き出しで始まるその書状は、先程よりも少し分厚いようだ。
下らない内容だったら今度こそ破り捨ててやると腹に決めてから、繊細な文字を走るように追う。
「兄上?」
グイードが横から覗き込むのを不躾だと顔を顰めることもせず、指揮官は紙の両端をグシャリと握りしめていた。
「……来るぞ」
「えっ、何がですか?」
「援軍が来るぞ」
「た、確かなのですか、兄上」
指揮官の叫びに──これは意図して声を張った──周りの兵士がざわつくのが分かる。
いつですか?
援軍は何人?
率いる将は?
我らはどのように動けば?
初めは小声、喜びよりも驚き。
むしろ半信半疑といった口調が多かった。
それが次第に興奮したざわめきと変じ、広がっていく。
ここにいるのはシュータレンベルク子飼いの数十名の精鋭のみ。
体力面だけではなく、精神的にも成熟した者ばかりだ。
何が起こってもそうそう動じない筈だが、それでも今は大きくざわついた。
シュターレンベルクとて彼らと同じ思いだ。
先程まで悪口を垂れ流していた我が主君レオポルトのこの活躍。
意外にも外交手腕を発揮して各方面に使者を送り、遂にウィーン救援軍を組織したなど俄かには信じられない。
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