願いは儚く(7)

「オレをオスマンのスパイだって思ってるんなら、違うよ。オレはハンガリー側の人間だ」


「ハンガリーですって? それならば、我が国の属国ではありませんか。何を血迷ってこんな恐ろしいことを」


 リヒャルトにとっては素直な思いが口に出ただけだ。

 しかしアウフミラーは一瞬大きく顔を歪め、慌てて俯く。

 再び顔をあげた時は、皮肉な笑みを湛えた気怠い表情に戻っていた。


「神聖ローマ帝国のレオポルトの軍は、属国のオレたちの村を守っちゃくれなかったよ。それどころか、軍の通り道になって村は荒らされた。家は焼かれ、抵抗した父と兄たちは殺さた。母はオレを連れて難民としてウィーンに来たんだ。何年前のことだっけな」


「村を……」


 シュターレンベルクが絶句し、アウフミラーから顔を背ける。


「壁の中で暮らす金はなかったから、グラシに立つ小さな小屋で細々と暮らしたよ。生活が苦しくても、病気になっても、神聖ローマ帝国は何もしてくれなかった。母はペストで死んだ。羨ましいくらい、あっさりと」


 そこでアウフミラーはシュターレンベルクとグイードを見据えた。

 相手が視線を逸らせようが、無理矢理にでもその視界に入るように身体を曲げてまで。


「オレはこの国を不幸にするためなら、オスマンの味方だってするよ。仲間がいるだろうって言ったね。うん、ヨーロッパ中に仲間は沢山いる筈だ。全ハンガリー人がオレと同じ思いでいるよ」


 この男の言うことを何故黙って聞いているのです──そう叫び出したい。

 しかし声は出ない。

 喉の奥が張り付くのをリヒャルトは感じた。

 そんな恨み言を今になっていうなんて。

 そもそもハンガリーがさっさと神聖ローマ帝国に与すれば不要な争いはなかったはずだ。

 我が国とオスマン帝国を天秤にかけるような振る舞いをしてきたから、結局戦火が広がって……。


 理詰めの反撃ならいくらでもできよう。

 だが、そんな独りよがりの言葉が傷ついたアウフミラーに届くわけないということは痛いほど分かる。


「……アウフミラー」


 父の押し殺した声。

 怒っているに違いないとリヒャルトは思った。

 父は若い頃からオスマン帝国との戦いに従軍していた。

 当のハンガリーにも何度も進軍したのを知っている。

 弱者の憎しみの言葉など一蹴するに違いない。

 そう思っていただけに、父の次の言葉にリヒャルトは耳を疑った。


「すまない、アウフミラー。お前の村を目茶苦茶にしたのは……多分、俺だ」


 何言ってるのとフランツが叫ぶ。

 そんなのシュターレンベルクのせいじゃないよと。

 仮にそうだとしても、戦争だったんだよ。仕方ないじゃないかと。


 リヒャルトも同感とばかりに頷いた。

 しかし父は手に足に、重い塊をつけたかのようにうなだれたまま。

 敵指揮官の思わぬ謝罪に、アウフミラーは足元を睨む。


「そんなの、今更謝られても何にもならないよ。死んだ人は戻ってこない。オレたちにとっては恨みの対象だけど、閣下は多分……ウィーン市民にとっては良い将軍なんだよ」


 市民にとっては……というところで声が震えたように感じる。


「でもオレだってウィーンに同じことをしてやった! 火を付けて、それを見られたからルイ・ジュリアスを撃ってやった。マリアに盗ませた銃でね。閣下と市長は殺しそこなったけど、いずれはオスマン軍が殺してくれる。将校も貴族も皇帝も市民も……みんな殺されたらいいんだよ」


 高く低く──唸るような小さな声。

 次の瞬間には大きな叫びとなったかと思うと、ぶつ切れるように唐突に止まった。


「やめなよ、そんなこと言うなってばッ!」


 フランツ一人が、まるでここにいる面々に憚るように小さな声でアウフミラーを宥める。


 そうだ、そんなこと言ったら駄目だ。

 リヒャルトも思う。

 そんなことを言ったら父が怒る。

 自分や家族のことだけならまだしも、部下や皇帝のことまで言われてはさすがに……。


 そこでようやく気付いた。

 怒らせたいんだ。

 いや、それだけじゃない。

 尚も恩情をくれようとする指揮官を挑発するのは、きっとアウフミラーは殺されたがっているのだと。


「命乞いなんてしたくない。せめて誇り高く終わりたいんだ」


 不意に泣き出しそうにアウフミラーは顔を歪めた。

 声は震える。

 リヒャルトのすぐ隣りでシュターレンベルクが顔をあげた。

 何か言うのだろうかと身構えたその瞬間。


 灰色の塊がアウフミラーにぶつかった。

 肉と肉が激突する衝撃音。


 何が起こったのか、その時は分からなかった。

 息を呑む音が、やけに大きく聞こえる。

 これはフランツのものか。

 次いでグイード、そしてシュターレンベルクの怒声。


 それから唸るような細い声。

 震えている。

 泣いているのか。

 それが妹の呻き声であると気付いた時、リヒャルトはようやく事態を理解した。


 目の前には床に崩れるアウフミラー。

 腹に見覚えのある短剣が埋もれている。

 傍らに膝をつき、うなだれているのはマリア・カタリーナであった。

 上半身がゆらゆらと前後に揺れて、触れることも、声をかけることすら拒んでいるかのよう。


 そんな彼女の傍でフランツは両手で顔を覆う。

 奪った筈の短剣をいつのまにか掠め取られていたことに気付いたグイードが頭を抱え、そしてシュターレンベルクはその場に立ったまま大きく口元を歪めていた。


 妹を助けなくては──。

 マリア・カタリーナがアウフミラーを刺したことに気付いたリヒャルトが声を張り上げる。


「は、早く救命を! グイード殿、胸から剣を抜いてください。医者を呼ぶのです」


 瞼を痙攣させているアウフミラーの傍らに座り込んだ。

 妹のためにも、この男を死なせてはならない。

 しかし、リヒャルトの思いは、憐れなくらいあっさりと無視された。

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