願いは儚く(4)

「……マリアさん、大丈夫かな」


 フランツが小声で呻いた。

 マリア・カタリーナとアウフミラーをちらちらと交互に見ては困ったように首を振る。

 のどかな口調ではあるが、どうやら二人を心配しているのは確かなようだ。


 あらためて思う。

 このパン屋、実に不思議な存在だと。

 何せあの防衛司令官の懐に簡単に入っていった。

 それは息子である自分には到底近付けない距離だ。


 父のことを考えたせいだろうか。

 リヒャルトの胸にふつふつと込みあげる思い。

 妹を押し退けるようにしてアウフミラーに向き直る。


「あ、貴方はご自分が何をしたのか分かっているのですか。市内にいる者は皆ウィーンのために戦っているのですよ。理由があって兵士として働けない者だって、土木作業や雑用に従事して互いに支え合っている。それなのに貴方ときたら妹をたぶらかして……オスマンからいくら貰ったのです。言いなさい!」


 妹が何も話さないならばと口を開いたのだが、言葉は次から次へと迸る。

 怒りだけではない。

 悔しいのだとリヒャルトは悟った。

 この男のせいでウィーンもルイ・ジュリアスも市長も妹も──。


「ここにいるからって、何故ウィーンに生命も財産も精神まで捧げなきゃならないんだ」


「あ、貴方は……!」


 喉の奥が裂けそうに痛む中、尚も声を張り上げかけたときのこと。

 ポンと肩を叩かれた。

 細い指だ。

 マリア・カタリーナの手だと気付き、振り返ろうとするリヒャルトは、しかし勢いよく後方に引き倒された。


「あいたっ、何をするので……」


 見上げた先に灰色の背中。


「あんた、言ったじゃあないの。オレは絵を描きたいんだぁなんて。兵役を免除してもらえて、お父さまには感謝しているんだよぅって。全部……全部嘘だったのね!」


 低い声。

 女の声とは思えない。

 それは地の底から響く地鳴りのように聞こえる。


「敵のテントがどうとか言ってたけど、あれは敵の様子を見てきたんじゃあないわね。逆。こちらの情報を伝えに行ったんだわ」


「……そうだけど」

 一瞬、黙り込んだもののアウフミラーは吐き捨てた。

「それを言うならマリアだってオレを裏切ったろ。結局そっち側なんだよな。父親に告げ口するんだもん。まぁいいよ。心底あてにしてたわけでもないし」


「あ、あたしはあんたを信じてたわ……」

 女の声は低く、空気をびりりと震わせる。

「信じてた。でも、あの女……絵の中のあの女は誰なのよ」


 嫉妬の感情に顔を歪める灰色の女。


 マ、マリア・カタリーナ──叫ぶようにその名を呼んだ己の声の悲壮さに、リヒャルトは驚いてしまった。

 妹があまりにも不憫で?

 それとも、アウフミラーの物言いに憤って?


「マリア・カタリーナ。あ、あの……」


 しかし、よびかけの先をどう続ければ良いかは分からない。

 妹もこちらを振り返りもしない。

 それでも……と、リヒャルトが口を開きかけた時だ。


 グイードの歌が、不意に途切れた。

 曲が終わったわけではなく、唐突に止んだのだ。

 これは何かあったのだろう。

 もしかしたら怪しまれたのかも。


「そ、そろそろ……」


 引き揚げましょうかという提案は、しかし途中でかき消えた。

 マリア・カタリーナの手に銀色の輝きを認めたからだ。

 場に緊張が走ったのが分かった。

 自分がそれに乗り遅れたことも。


「マリアさん、駄目だよッ!」


「うるっさい! 放っておいてちょうだい。ねぇ……あんた画家になりたいだの彫刻家になりたいだの好き放題言ってたけど、全部嘘っぱちだったっていうのね。ルイの言うように、市内の様子を敵に報告するために絵を描いていたのね」


 パン屋に向かって怒鳴って、それからはアウフミラーに対しての静かな口調。

 その声に危うさを感じながらも、しかし誰も動かない。

 陰気なマリアの本領発揮か。

 恨み言を口にしながら、その手には短剣を握り締めていたのだ。


「あんたなんて死んでしまえばいいんだわ」


 切っ先が少しも震えていない様が、彼女の静かな怒りを表していた。


「そうよ。あんな女に奪われるくらいなら、あたしが首を刎ねてあげるわよ。その方がずっとマシ!」


「マリアっ……!」


 リヒャルトが叫ぶ。

 止めなくては。

 いや、しかしどうやって?

 下手に刺激しては余計にまずいことになろう。


 不本意なことに、フランツに向かって縋るような視線を送ってしまった。

 しかし、パン屋も同じ目をしてこちらを見ていることに気付く。

 一瞬、二人して困ったように見つめ合ってから、これでは埒が明かないと我に返る。


「マ、マリア・カタリーナ……落ち着いて、この兄の言うことを聞くのです」


 説得をしようとした時だ。

 静かな笑い声。

 僅かに空気を震わせるだけの声だが、兄の身体を凍り付かせるには充分であった。


「いいよ、マリア。殺してくれて」


「そ、そうよね。どうせあんたは死刑になるって決まってる……」


「かもな。知りもしないウィーンの兵士に殺されるなら、マリアに殺された方がずっといい。オレだって最後まで誇り高くいたい」


「あ、あんた一人を死なせやしないわ。あたしもきっと……」


 初めて短剣の切っ先が揺らいだ。

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