復讐の剣を(5)

 ウィーン防衛司令官は、しばし眼をしばたたかせていた。

 パチパチと眼を閉じたり開いたりするものの、異物感は消えない。

 グラシに舞う砂塵が、眼球を傷つけたのかもしれなかった。


 この数日は夜半から早朝にかけて時間を選ばず、連日襲撃を行っていた。

 精鋭を率いて市門を出て、狙いすましての突撃。


 決して門から出ないと宣言していた指揮官であるが、ここにきて事情が変わってきた。

 音楽や砲撃──とにかく敵軍の圧力が強すぎて、市民らが参ってしまっているのが傍目にも分かる。

 景気づけという訳ではないが、自軍の活躍を示してやらねば都市生活は立ち行かなくなってしまうのだ。


 オスマン帝国の大軍団相手に目立った損害をもたらすことはできないが、限られた範囲での砲の無力化、トンネル掘りの阻止はできる。

 それにいつ襲われるかということで、敵軍は夜間に無駄な警備を増やす羽目になるわけだから、地味に相手の体力を削る効果もあるわけだ。


 パチパチ。

 瞬きを繰り返す。

 おそらく涙の成分が枯れてしまったのだろう。

 だから眼が乾いて、小さな埃や砂でも気になってしまう。

 眠れていないことも関係あるかもしれない。


 砲撃を受けたカプツィナー教会の瓦礫を、数日かけて撤去したところである。

 市民の心の拠り所となっていた教会が、無残に崩れた衝撃にも、心は乾いていた。


 この防衛線、不本意だがウィーン市民を巻き込まざるをえない。

 ならばせめて彼らを危険には晒さぬよう軍人が矢面に立つべきだと決意したというのに。

 それなのにカプツィナーの犠牲者数は数十人に及ぶ。

 怪我人の数はそれ以上だ。


 そもそも数万の敵軍に囲まれ、救援の目途すらないという現状。

 市民の血を一滴たりとも流させまいなんて決意は、しょせん幻想にすぎないのだ。


 ウィーンは確実に疲弊している。

 死者の数は加速し、怪我をした者、避難する家を失った者もいる。

 戦いが終わった後の諸問題にまで考えを巡らせると、重いため息がこぼれた。

 誰が対処するのだろう──考えるまでもない。

 もちろん、俺だ。


 もっとも戦後処理とは、この籠城戦を耐え抜いてからの話となるわけが。

 戦いが終わった後、考える頭がこの胴にちゃんと付いているか、それもまた疑問だというのに。


 身体が重い。

 死んだ者がのしかかってくるようだ。

 右腕もズキズキと痛む。それから左足も。

 足を引きずりながら、シュターレンベルクは王宮に足を踏み入れた。


 自分の部屋には、このところ戻っていない。

 エルミアの死体が消えたあの夜からずっと。

 今もあの部屋に彼女がいるような気がして。

 扉を開けた瞬間、鬼のような形相で襲い掛かってくるような予感と、それでいて、部屋に誰もいなかった時の落胆を想像するとどうしても足が遠のくのだ。


 重い足取りは、自室とはまったく違う方向へ向かっていた。

 王宮広間は細かく区切って怪我人の治療場所にしてある。

 狭いウィーン市内のこと、王宮といえども有効活用しなくてはならない。


 その広間を突っ切った先で、シュターレンベルクは立ち止まった。

 重厚な造りの扉を三度、叩く。

 返事を待たずに室内に足を踏み入れた瞬間、鼻孔をくすぐる深い香気に、思わず深く息を吸い込んだ。


「あっ!」


 小さな叫び声。

 同時に机に座っていた人物がこちらを振り向く。

 市長ヨハン・リュベンベルクであった。

 腹に包帯を巻いており、上着だけを羽織った姿だ。


「ジジィ……市長殿、何やってるんだ」


 思わず声が裏返ったのは、市長の前に秤が置かれていたからである。

 机の横には大量の黒い粉が入った箱と、蝋で塗られ艶々と光沢を放つ紙の束。

 その向こうの木箱には、見慣れた小さな包みがいくつも入っていた。

 市長がマスケット銃の装填時に使用する、弾薬と火薬をまとめた物を作っているというのは一目瞭然だ。


「防衛司令官殿。嫌ですね。あなた、こんなところに何をしにきたのですか」


「いやいや市長、そっちこそ何やって……」


 ヨハンは崩れた瓦礫で怪我をした。

 腹に巻かれた包帯は血で汚れているではないか。


「火薬の分包など、怪我人の市長がしなくとも。安静にするように言われたのでは?」


 彼の手から包み紙を奪い取ると、ヨハンは小さな声で「白々しい」と呟いた。


「は、何……?」


「大方グイード殿らに邪魔者扱いされ……いやいや、休んでいるようにでも言われて居場所がなくてここに来たのでしょう」


「ぐっ……」


 図星である。

 怯んだシュータレンベルクの様子に、市長の横から「アハハッ」と軽やかな笑い声があがる。


「あなたには、やるべきことが沢山あるでしょうが」


 別に花を持って見舞いに訪れたわけでもない。

 王宮に来たついでに寄っただけだ。

 歓迎を受けると思っていたわけではないが、こうも邪険にあしらわれるとは。

 自然、やつあたりの矛先は別の所へ向く。


「フランツ、お前は何でこんな所で市長殿の邪魔をしてるんだ」


「えっ」


 金髪の少年が大きな双眸をこちららに向けた。

 寝台の横の椅子にちょこんと腰かけ、両手で包むように椀を持っている。

 室内に漂う香気は、ここから立ち上っているようだった。

 心外であるというように、白々しく目を見開いている。


「アウフミラーがくれたんだ。この豆、グラシに落ちてたって。カフェの豆だね。煮出してみたら美味しくって、市長さまにも飲んでもらおうと思ったんだ。パンも作ってきたよ。シュターレンベルクも食べる?」


 いらねぇよ、とシュターレンベルクの怒声。


「なんで怪我人の市長がせっせと火薬を分包していて、元気なお前がのんきに座ってパン食ってんだよ」


「ち、違っ。僕だって、さっきまで手伝って……」


 スプーンを使って、秤の天皿にそろりと火薬を運んでいた市長の手が止まる。


「うるさいですよ。いいから防衛司令官殿。ご自分の仕事にお戻りなさい」


 追い出す態勢だ。

 しっしっと手を振られムッとするシュターレンベルクを見てパン屋が笑うが、次の瞬間、自分も追い立てられていることに気付きあんぐりと口を開ける。


「ぼくは治療をしながら、この部屋で執務をとります。あなたたちも自分の仕事をなさい」


 今日別れれば、明日生きてまみえることができるかどうか分からない。

 ウィーンは今、そんな街になりつつある。

 市長と防衛司令官の視線が絡み合う。

 ウィーンを頼みますよと、その目は強い光を放っていた。


     ※ ※ ※

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