ひそむ闇(3)
「どうかされましたか、司令官殿」
「い、いや……」
せわしなく肩を上下に動かして首を振る。
どうにもこそばゆい。
ジジィ、お前が気味の悪いことをほざくせいだなんていうわけにもいかず、曖昧に頷く。
「それはそうと、最近いつもあなたにくっ付いている子はどこに?」
「フランツか? 寝てるんじゃないですか。パン屋は朝が早いんだとか訳の分からんことをほざいてましたから」
嘘だ。本当は撒いてきた。
夜間も塔の上で偵察するなどと知られてみろ。
差し入れのパンやら何やら作って押しかけてくるに違いない。
あの馴れ馴れしい少年は、ことあるごとに新作と称するパンを司令官に食べさせようとしてくるのだ。
はじめは食事代わりにと思って食べていたのだが、そのうちうんざりしてきた。
「もういらん」と言うと、受けた衝撃の大きさを表すようにその場に蹲って泣き出してしまったのだ。
それを往来でやられたものだからたまらない。
分別ある大人が、頑張り屋の少年を邪険に扱ったということで市の住人から呆れた目を向けられたものだ。
市中の食糧──主に小麦の──価格高騰について、フランツが泣きわめきながら防衛司令官に抗議してくれたことを、住民たちは知っているのだ。
彼のおかげでウィーン市長ヨハンと、防衛司令官シュターレンベルクの連名で食品価格の固定を命じる触れが出されたことから、今やこの余所者のパン屋は市中でちょっとした救世主扱いを受けているとか。
「何ですかね、あのパン屋。フランツと言いましたか。防衛司令官閣下の隠し子なんじゃないかと評判ですよ」
「か、隠し子? 何ですか、それは!」
「市中で噂になってますよ。パン屋のフランツは、防衛司令官が余所で産ませた隠し子に違いないと」
「………………」
呆れてものも言えない。
向こうが勝手に馴れ馴れしく寄ってくるだけで、こちらとしては何も特別な態度をとっているつもりはない。
なのに、よりによって隠し子などと面倒臭い類の噂を振りまかれるなど。
「そんなものいるわけないでしょうが。何だってそんな下らない噂。ジジィ……いや、市長殿も否定してくれれば良いものを」
「いやいや、怪しいものだと思って」
「市長……。第一、俺とあいつは全然似てない。あんな声の大きな、人の話を聞かない、よく食う、神経の太い、騒がしい小僧……俺とは全然……」
フフ、司令官殿、動揺していますねとヨハンが笑いをかみ殺す。
苦情を言いかけて、しかしシュターレンベルクは口をつぐんだ。
フランツの明るさに救われているのは、確かであったから。
「俺の子供はあんなに馬鹿で素直なわけがない。俺の血を引いたものはひねくれて臆病で、人を陥れることばかり考えていて……」
脳裏に浮かぶあの光景。
敵兵の侵入を許したあの瞬間。
市門の傍に見た灰色のドレス。
背が高いことを卑下するように姿勢を丸めたその姿は、シュターレンベルクにとって見慣れたものであった。
「あのとき門を開けたのは……俺の娘です」
ハンガリー系の間諜が入り込んでいるとは聞く。
多くの者が間者に対して気を張っている中、まさか白昼堂々、しかもすぐ側に防衛司令官がいるというのに門を開けるとは。
門兵も外には警戒するが、内には無防備だったのだろう。
近付いてきたのが陰気な面をした小娘一人であったなら尚更のこと。
我が娘が何ということをと、衝撃で足が震える。
大体、最初からおかしかったではないか。
母や姉妹弟らが避難しているというのに、一人で危険な市に残るなど。
「ルイ・ジュリアスを殺したのも、多分娘だ。リヒャルトなわけがない。あいつにそんな度胸はない。もしかしたら放火も……」
あれは敵兵による火矢ではなかったし、失火でもあるまい。
間違いなく放火だ。
「司令官殿……」
何か言いかけて、しかしヨハンは黙ってしまった。
慰める言葉も見つからないといったところか。
第一、慰めてすむような事柄でもない。
「頼みがあります。市長殿」
「な、何でしょうか」
改まったように向き直った指揮官の表情は、月の光無き夜のように沈んでいた。
「娘はカプツィナー教会にいるはずです。市長殿、マリア・カタリーナから目を放さないでいてくれないか」
本当なら疑いが生じた時点で拘束すべきなのは分かっている。
だが、我が娘に対してそれは忍びない、なんて思うのは歪んだ親心に他ならない。
「……分かりました。ぼくにできることならば」
追求せず、下手に慰めることもなく頷いてくれたのはヨハンなりの情けであったろう。
日頃チクチク嫌味ばかりの市長に、シュターレンベルクはこの時ばかりは心から感謝した。
「防衛司令官殿、昼間の市街戦は市民らの活躍に助けられたでしょう」
「ああ、窓からの攻撃が危機的状況を一変させた」
「市街戦では準備がものをいいます。ああいった事態を想定して、包囲前から市門近くの民家に武器や投石用の礫を用意していたのですよ。市民らと一緒に何度も練習をしてね」
もっとも、あのような事態にならぬように市門の守備をしっかりしてもらわなければなりませんがね、防衛司令官殿──一言、いつもの嫌味で釘をさしてから、ヨハンは塔の小さな窓から身を乗り出して月を見上げた。
「土を水で煉った粘土状の武器を考案して、市民らに教えたのはあなたの息子ですよ」
「リヒャルトが?」
頷くヨハン。
こちらの様子を窺うように見つめる目には、月と星が映り込んでいる。
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