ひそむ闇(1)
曇天の空に、薄明りを見付けた。
そこだけ雲が薄いのだろう。
一筋、二筋と射し込む光が、どうか壁の中へと降り注いでくれますように──市壁内に閉じ込められた者たちは思わず祈りの形に指を組んだであろうか。
それともウィーンっ子の誇りであるシュテッフル、その天高く聳える塔が、我々の為に雲をも破ってくれる筈だとうそぶいたであろうか。
塔には我らの指揮官の姿がよく目撃された。
愛用のマスケット銃を片手に、市壁の向こうに続々終結するオスマン帝国軍の大軍勢を観察している様子は、市民らの目に頼もしく映ったものだ。
一三七メートルの高さを誇る塔は見張り台としてはもってこいだ。
ただし空に近いその位置は、常に突風吹きすさぶという状態である。
戦時である今は的になることを恐れて外してあるが、常ならば掲げられている大きな旗がせわしなくはためいているところだ。
※ ※ ※
ここに来ると大きく息を吸える。
敵軍の動向を探る為という名目で、シュターレンベルクは比較的手すきな夜間は塔に登ることが多くなっていた。
石造りの狭い螺旋階段を登った先にある小部屋。
頑丈な造りの窓枠に腰を凭せて足をぷらぷら揺らすと、一人であることの安堵感に肉体のこわばりが緩むのが分かる。
短髪を揺らす風、冷たくて清浄な空気、そこには都市特有の匂いも家畜臭も混ざってはいない。
眼下に視線を転じると、愛すべきウィーンの街が、驚くくらい小さく見える。
精巧なおもちゃの模型のような街は、見張りの兵士より数倍多い篝火に照らされ、こんな時間なのにウィーンが寝静まる様子はない。
市壁の半月堡(レヴェリン)や角堡(ホーンウォーク)、王冠堡(クラウンウォーク)──堡塁の形状によって呼び名が変わる──市壁の陵堡は、それぞれに角度と形状が異なっている。
各陵堡にも、多くの兵士らが立ち働いているのが見てとれた。
市中に闇を作ってはならない。
闇には何かが潜んでいるものだ。
完璧な布陣を敷いても、闇から延びる手に足を捕まれたら引き倒されてしまう。
市門への侵入を許してから、見張りの数は倍に増やした。
絶大な信頼を置いていた市門をあっさり抜けられた衝撃は大きい。
あの時はセルゲンティティの組織の弱さにつけこんで何とか勝利を収めたものの、危機感は強まった。
大してあてにしていなかった皇帝の援軍交渉の一日も早い成功を祈るまでに。
篝火に縁どられた市内から視線を転じれば、市の際を流れるドナウ川と市壁を囲む空き地(グラシ)は、まるで黒い蛇のように街を取り囲んでいた。
民家などの遮蔽物がないことを示すこの暗闇の存在が、今のウィーンの生命線なのだ。
蛇の向こうには、こちらに負けじと篝火を灯して布陣するオスマン帝国軍が見える。
その陣容は、地面という夜空に浮かぶ赤い三日月のようであった。
不必要に多くの篝火を作って虚勢を張る必要もないほどの大軍であるのは、体感する圧で分かる。
灯かりは南に西にぐるりと囲みを作り、東のドナウ川の対岸も抑えられていることを否応なく見せつけた。
夏の夜の風が頬を打つ。
一三七メートルの高さの塔からはオスマン帝国軍の頭上を越えて、さらに遠くまで視界を広げることができた。
日中であれば緑揺れるウィーンの森や、伸びゆくケルントナー街道、遠くの白頭山脈も見渡せることだろう。
それらすべてが、今は闇に沈んでいる。
皇帝の援軍を期待してはいけないと分かってはいるが、そこに一点の灯かりもないことにはやはり落胆を禁じ得ない。
襲撃からこっち、オスマン帝国軍はシャーヒー砲のみならず、コロンボルナ砲やフンバラという城壁破壊用の重砲を持ち出してきた。
本国からの支給物資として、相当数の砲が持ち込まれたのだと察せられる。
それらの大砲は比較的射程が長く、グラシの向こうから街に届きかねないほどのものであった。
空き地(グラシ)がなければウィーンは数日とて持つまいと思う。
更に敵軍はトンネル掘りにも力を注ぐようになっていた。
ウィーン側からの砲撃に対して、まるで壁を造るかのような形で市壁に対して並行に盛り土を積むもの、あるいは市壁に向かって真っすぐ垂直に伸びるもの。
完全な坑道ではなく、地面に穴を掘る塹壕を長くつなげたような形状のトンネルが日々掘り進められていた。
実際、これが市まで到達することはあるまいが──こちらの砲の射程に入れば集中砲火をくれてやるつもりだ──それでも用心にこしたことはないと、市民にも掘削の音には注意するようにと触れを出しておいた。
下手に総攻撃をかけられるより、トンネル掘りに精を出してくれる方が余程安心できると思う。
これなら時間はかかるわ、進行はまちまちだわ、いざとなれば妨害することだって可能である。
しかも彼らは悪天候日はこの作業を休むのだ。
互いに砲撃や夜襲を警戒しているとはいえ、長期戦を想定して陣を構えているわけだ。当面はこの膠着状態が続くだろう。
「カラ・ムスタファ・パシャといったか……」
敵の司令官の名である。
自分と同世代だという。
遠い異国にまで大軍を率いてきた男に、シュターレンベルクは思いをはせていた。
有能なのであろうか。
それとも自分と同じように皇帝の無茶に振り回されているだけであろうか。
オスマン帝国皇帝(スルタン)メフメット四世は、政治に無関心であると聞く。
政局が不安定になっても趣味の狩猟に興じているという話だ。
カラ・ムスタファ・パシャはそんな皇帝の元で、大宰相として国の経済、軍事、内政を一手に担ってきたという。
きっと胃の痛い日々を過ごしてきたに違いない。
立場は違えど共感する部分はあるかもしれないと思う。
彼はそれほどに黄金の林檎を欲しているのだろうか。
戦乱に明け暮れるヨーロッパ──この林檎はもうすぐ朽ちてしまうかもしれないのに。
吹き抜ける風に、ふと火薬の匂いが混じった気がした。
弾かれたように窓枠から室内へと飛びのく。
しかしそれが己の服にしみついた匂いだと分かり、苦笑して坐り直した。
そういえばグイードが言っていたな。
籠城戦に先は無いと。
こういうことなのか。
段々と心が弱っていき、自ら潰れてしまうのだろうか。
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