踊る炎(5)
「何をやってるんだ、それを放せ」
突然のことだ。
横から腕をつかまれた。
反射的に上着から両手を放してしまい、リヒャルトは慌てる。
炎の中に没しかけたそれを追う右手。
しかしその手首をも拘束され、後方へ引きずられる。
「お放しなさい。私の上着がっ……!」
「上着など放っておけ、リヒャルト殿」
名を呼ばれ、リヒャルトは驚きと共に相手を見返す。
「……ル、ルイ・ジュリアス殿」
低い呻き声は、炎のたてる音に呑みこまれてしまった。
そこにいたのは、ウィーン防衛司令官から多大な信頼を寄せられている若き連隊長だ。
自信に満ち、周囲からの期待を行動で返すことのできる同僚。
何よりリヒャルトが大嫌いな相手であった。
火を見て混乱し、彼をつけていたことを失念していたが、これ見よがしに現れて一体どういうつもりなのだ。
日中、こいつの馬に乗せられて敵から逃げた記憶が蘇る。
腹の奥で嫉妬心がざわついた。
リヒャルトはルイ・ジュリアスの手を乱暴に振り払う。
「放しなさい。流浪の身の貴方のものと違って、私の上着は特別なのですよ。当家の紋章が刺繍されているのですから。だから、燃やしてしまっては絶対に絶対にいけないのです」
「紋章? な、何を言っているんだ?」
とにかく退けと押しのけられるのを、リヒャルトは背を丸め踏ん張って堪えた。
──そうです。いくら父に気に入られていようが、貴方はこれを持ってはいない。だからいっそ燃やしてしまいたいのでしょうが、そうはいきませんよ。
しかし体格差は圧倒的だった。
ルイ・ジュリアスは猫背の小男をなんなく押し退け、片手にさげていた金属製の大鍋を両手に持ち替えるや否や、リヒャルトの上着に向かって叩き付けるようにしてそれを被せた。
瞬間。
炎が大鍋の中に閉じ込められ、リヒャルトの前髪を焦がしていた熱気が消える。
そこからのルイ・ジュリアスの行動は早かった。
自分も上着を脱ぐと、鍋に収まりきらず周囲でちろちろ燃えていた火に被せ、足を地面にこすりつけるようにして何度も踏みしめる。
「あ、貴方の上着にも……」
家の紋章は付いている筈、という言葉をリヒャルトは呑み込んだ。
上着よりも、紋章よりも、火を消すことが優先事項だ。
そんなこと、言われなくとも分かっている。
しばらくたってようやく動きを止めたルイ・ジュリアスが、息を整えながらこちらを見やった。
「もう大丈夫だろう。怪我はないか、リヒャルト殿」
彼の行動は適切だ。悪いところなど探しようもない。
「な、何ですか。わざとらしく私をかばって。一度ならず二度までも。そんなに父に褒められたいのですか」
ぽかんとした表情でこちらを見つめる男を、精一杯睨み付けた。
「火災担当はこの私です。私の任務遂行を邪魔して、あげくに手柄を横取りしようなど浅ましいにもほどがあります。そうまでして父に取り入ろうなど!」
「じ、自分はそんなつもりじゃ……」
「いいえ、お黙りなさい!」
リヒャルトの悲鳴──そんなものあげたつもりはなかったが、ちょっと大きな声を出したのがそう聞こえたのかもしれないと、彼は自身を納得させた──を聞いて火を見付け、慌てて民家から大鍋を借りてきたのだとルイ・ジュリアスは言う。
同時に、見張り兵の詰所へ助けを求めに走るようと家人に頼み、自分はここへ駆けつけたのだと。
い、言い訳がましいですとリヒャルトは断じた。
自身が駄々を捏ねていることは分かっている。
しかし、ことあるごとに正論を吐くこの男が、とにかく我慢がならないのだ。
「リヒャルト殿、火を見て気が動転しているんだな。落ち着いて……」
「ば、馬鹿にしているのですかぁ!」
リヒャルト、遂に怒鳴った。
こちらを見やるルイ・ジュリアスの戸惑いと心配の表情が次第に緩み、口元が歪んだから。
つまり、にやついているように見えたのだ。
「ば、馬鹿になんてするもんか。リヒャルト殿、あんなに嫌がってたのに火災班の仕事をちゃんとこなしてるんだなって。真面目だなって思って……」
「ルイ・ジュリアス殿。そ、それは完全に馬鹿にした言い方です」
「そんなことはないんだけど」
笑みは今度ははっきりと。
苦笑という形で作られた。
「籠城戦で一番怖いのは火だろ。狭い市内で逃げ場がないんだから。ひとたび火災が起これば戦争どころじゃなくなる」
だから閣下は、対策をリヒャルト殿に任じられたんだろうな──笑みに、ほんの少し苦いものが混じったように見えてリヒャルトは焦った。
「わ、私はどうせ地味ですから。腕も立たないし、頭の回転も速くない。だからと言って細かいことが得意なわけでもないですよ。バケツ配りが性に合ってます。貴方には分かりませんよっ!」
機転がきいて事態の流れを冷静に読めるルイ・ジュリアスは、戦場で活躍する類の人間だ。
この戦いでそれなりの人数を任され、統率力も身に付けていくのだろう。
第一、彼の朗らかな人柄は誰からも好感を抱かれるものだ。
その証拠に、ルイ・ジュリアスの周囲にはいつも人が集まっている。
明るい明日が見えているというのに、なぜ沈んだ表情を見せるのだ。
不意にリヒャルトの胸に憐憫の情が込み上げた。
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