陰気なマリア(5)
これは一体どういうことだ、とシュターレンベルクの後ろからバーデン伯の呻き声。
どうもこうもない。自体はきわめて単純だ。
「すまない。誘拐は娘の狂言のようだ」
「はぁ?」
稚拙な脅迫文に、何となくそんな気はしていた。
おそらくは父への反発心からの所業であろうが、何を思って降伏を促す手紙など寄越したのか。
しょせんは大貴族のお嬢様、考えて書いたのかもしれないが安直な企みであるとすぐ分かる。
娘の筆跡まで知らないから確証はなかったのだが、こうして事実を突きつけられると衝撃は大きい。
「お忙しい市長殿まで、偽の脅迫状に巻き込んで申し訳なかった」
指揮官の謝罪を手で制して、市長は奥の暗闇に視線を送る。
そこには三人目の人物がいた。
隠れていたわけではあるまい。
灯かりの届かない位置にいたため、気付かなかっただけだ。
「お前は……?」
若い男だ。
マリア・カタリーナより背が高い。
その姿はシュターレンベルクにも見覚えがあった。
「閣下、その節は……」
「あ、ああ……元気でやってるようだな」
この状況で、間の抜けた返答であることは自覚している。
偽装誘拐の一味と思しき男と、我らが指揮官が顔見知りであるらしいと分かり、グイードとバーデン伯の視線がシュターレンベルクの背中を刺す。
「いや、その……」
徐々に都市に近付くオスマン帝国軍に対し、シュターレンベルクの家族はじめ、市中の貴族が疎開準備をしていたときのこと。
じきにウィーンの市門は閉められる運びとなり、街に残る市民に志願兵を募っていた頃合いだ。
マリア・カタリーナが避難民の青年を連れてきたのは。
絵描きを名乗るその青年は、ここ美しいウィーンの街並みを絵に描かせてくれとシュターレンベルクに直訴したのであった。
戦時ということで、許可が必要だと考えたのかもしれない。
絵くらい自由に描けと、良心的兵役拒否者の名簿に入れてやったことを思い出す。
名はたしか、アウフミラーといったか。
娘が市民に慈悲をかけるなど珍しいと思った程度だ。
あの時は忙しさに目が回っていて気にも留めなかったのだが、成程。
マリア・カタリーナはこの男に入れ込んでいるのであろう。
「ア、アウフミラーは関係ないわ。あたしが勝手に考えてやったことよ」
一丁前に男を庇っていやがる。
知らず、シュターレンベルクは額に手を押し当てていた。
ため息がこぼれる。
「……つまり、シュタ―レンベルク伯の親子喧嘩に、ご令嬢の色恋が絡んで、こんな騒動になったってことか」
「すまない……」
返事をする気力もないが、要約すればバーデン伯の言ったとおりである。
ふざけるなっ──伯が小声で吐き捨てる。
怒りのあまり、その声は震えていた。
彼の腹立ちはもっともだ。
市長まで巻きこんでこの体たらく。
やり場のない苛立ちは、自然、いつまでも膝をさすって呻いている息子に向かう。
「リヒャルト!」
「ハイッッ!」
「妹をちゃんと見張っておけ。今度こんな騒ぎを起こしたら承知せんぞ」
「な、なんで私が……はっ、ハイッ!」
裏返った声に、父の理不尽に対する恨みがにじみ出ている。
何度か謝罪の言葉を口にしつつ、指揮官一行は若い三人に背を向け納骨堂から出て行った。
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