陰気なマリア(3)
「王宮(ホーフブルク)はどうだ?」
バーデン伯の言葉に、市長とグイードが首を振る。
王宮は作戦本部にしているし、一部は兵士の駐屯所としても使用している。
皇帝とその家族の私的な空間はさすがに人の気配はないが、将校や兵の出入りが激しい建物にこっそり入り込むことは不可能だ。
「ならば、シュテッフルの塔はどうだ」
今度はウィーンの代名詞たる聖シュテファン大聖堂の名を挙げた。
シュテッフルと愛着を込めて呼ばれるその塔は、市のどこからでも見上げることができるこの都市の象徴的建造物だ。
路地を伝って歩いてきた一行は、ほどなく市の中心に建つ聖シュテファン大聖堂の正面に出ることになる。
壁に囲まれたウィーンの中で、大聖堂の前に立つ者は一瞬の開放感を得るであろう。
どこを見回しても建造物の石色がせせこましく立ち並ぶ街で、そこだけが空への入口のように感じられたのだ。
目の前に聳える石で造られたゴシック様式の聖堂は壮麗で、神への祈りを捧げる場所として相応しいものと思われた。
十二世紀に建設された聖堂は一度火災で焼失したものの、その後増改築を繰り返し今に至る。
建前とはいえ、何ものに対しても開かれた扉。
教会建築特有の大きな窓。
三角の屋根の上には塔が建てられており、見上げる尖塔が空の青を容赦なく穿つ。
その両脇には天に登るかのように高い塔が聳えていた。
南側は「異教徒の塔」という名で呼ばれ、ロマネスク様式の高さ百三十七メートルを誇るものだ。
さて、その塔である。
上まで登れば見晴らしが素晴らしく、市壁外も遠くまで見通すことができる。
ウィーンを囲むように布陣する敵軍を観察するのにもちょうど良い。
ただ、塔の階段は狭く急であり、今は敵の砲が飛んでくる危険もあるため、市民や避難民は立入禁止にしていた。
だが、見張りを置いているわけではない。
つまり、こっそり入り込んで隠れるには絶好の場所のひとつであることは確かだった。
「見てきてくれ」
百三十七メートル上を見やったシュターレンベルク、後ろの二人を振り返ることなくそう言った。
グイードとバーデン伯に対してである。
グイードは素直に従う様子をみせるが、バーデン伯は一旦塔の先端を振り仰いでから、信じられないという表情で指揮官を見据えた。
派手な赤い上着の裾を握りしめつつ、たちまち目つきに険が含まれる。
「シュ、シュターレンベルク伯のご令嬢なんだから、ここは父親がいくべきじゃねぇのか」
塔は上に行くに従って細くなり、螺旋状の階段も急角度になる。
しまいには頼りない梯子になると知って、渋っている様子だ。
そんなバーデン伯の前で、シュターレンベルクは大袈裟に顔をしかめた。
「俺は若いころ足をやった覚えが。今も痛む……痛たた……」
「ぼくも齢で……」
市長も便乗して、急に腰を擦りだした。
「シュターレンベルク伯、あんたさっき馬でグラシを駆け回ってたって報告が……」
「痛っ、痛たた。寒くなると足が……」
「今は七月だろうが!」
叫んでバーデン伯は、突然年寄りアピールを始めた二人の前で足を踏み鳴らした。「クソッ」と一声吠えて、意を決したように入口に向かう。
グイードは、すでに教会の入口扉を開けてバーデン伯を待っている体勢だ。
「そんなに不満ならば、階段を登りながらおれが歌を聞かせてやろうか。気がまぎれよう」
「やめてくれ、グイード殿! どんな拷問だ」
「えっ、どういう意味だ?」
その後ろ姿を見送りながら、市長がクスッと笑みを零したのが分かった。
シュテッフルの塔の下で、そんな市長と顔を見合わせるシュターレンベルク。
市長は笑みに形作られた唇を、器用に歪めてみせる。
「防衛司令官殿には申し訳ないのですが、今はご令嬢を探している場合ではないのですよ」
「……分かっている」
市長が、諸侯の逃亡について苦言を呈しているのは分かった。
逃げたのは軍でも主要な位置を占める将校数人である。
麾下の兵を置いての逃亡なので、防衛側の人数が大きく減ったというわけではない。
そうはいっても、兵士らに与える衝撃は少なくないだろう。
彼らの穴を、指揮官である自分が埋めねばなるまい。
市長は暗にそう要求しているのだ。
今日一日で防衛計画が大きく狂ったのは確かだ。
だが、何があったとしてもこのウィーンを守り抜くことが防衛司令官である自分の務めである。
シュテッフルの塔を見上げ、それからシュターレンベルクはぐるりと周囲を見渡した。
都市は巨大な市壁に囲まれている。
市の中心に位置する聖シュテファン大聖堂の、一際視線を引く高い塔と一体化して、遠くから見ればウィーンは一つの巨大な要塞のように見えるであろう。
壁は煉瓦を含む強度のある複数の物質で構成されており、火に強く物理的攻撃にも相当程度耐えうる造りだ。
数メートルという厚みのある壁の上には巡視路が造られており、交代で今も歩哨が周回している。
等間隔で十二か所に設置された陵堡を、外から見えないように安全に移動することができたものだ。
さらに市壁の外のグラシと呼ばれる空き地の存在。
郊外の建物と市壁の間には、二百メートルほどの何もない空間が存在する。
戦略上、この空き地(グラシ)は大きな意味を持ったのだ。
敵が市に迫る。
空き地のため遮蔽物は一切ない。
その動きを市壁上からは目視で確認できる。
つまり、丸裸の奴らを砦から狙い撃つことが可能なのだ。
十二の陵堡はいびつな角度を多用して設計されており、それはつまり攻撃の際の死角を完璧に消すという役割を果たす。
角度をつけた射撃は敵には脅威となるからだ。
それが机上の空論でない証拠に、オスマン帝国軍は市から相当距離をおいて布陣していた。
敵も怖気づいたか、あるいは後続の味方軍を待って更なる大軍に膨れ上がろうとしているのか。
奴らは定石通りの市門への一斉攻撃もしてこないし、銃や砲による集中砲火もない。
愚者のように不正確なシャーヒー砲の攻撃を繰り返すだけ。
一定の距離をおいて、きれいに三日月型に布陣している。
そんな所から砲を撃ったところで、届きはしないというのに。
それでも彼らは、身を隠す木一本すらないグラシが不気味なのだ。
だから逆にシュターレンベルクとしては相手の力量を計りかねているところである。
それなりに経験を積んだ指揮官であれば、一度撃ち合えば何となく相手の力と今後の戦局が見えてくるものであるが、籠城を決め込むならばその機会は失われよう。
ただし、この完璧な要塞を抱えて野戦を選択する理由はない。
ウィーンは容易に落ちない。
普通に対峙していて砲が届かないとなれば、攻撃方は隙を突いて一気に迫り梯子をかけて壁を登るか、市壁の下に向かって地下道を掘る、もしくは正面から市門を攻撃するしかない。
守備側としてはこの三点に対しての対策と防御を施すだけでいいのだ。
ヨーロッパ最強の要塞の内で、全ては万全に推移する筈。
押し潰されそうな責任感に、自分が負けてしまわない限り。
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