赤い三日月(4)

 一瞬、怯んだ男の身体めがけて彼女は突進する。

 男が小さく悲鳴をあげたのは、致命傷には程遠いとはいえ、刺された傷口に痛みが走ったからに他ならない。


 じわり……。

 シャツに赤い染み。


「違うの!」


 床に男を押し倒し、馬乗りになったエルミア。

 細い手が、今度は彼の首を押さえつける。


「なにが……違っ?」


 抑え込まれた不利な態勢は、二人の力の差を消していた。

 男は必死に両腕を動かし、女の身体を押しのけようともがく。

 そんな彼の額に、ポツリと透明な雫が落ちた。


「オスマンじゃないわ……」


 エルミアの緑色の瞳は、溢れんばかりの涙をたたえ、男を愛おしげに見下ろす。


「わたくしがこんなことをしてるのは、オスマンの為なんかじゃない……」


 エルミアのブラウスの留め具の隙間から、キラリと銀色が零れ落ちた。

 十字架だ。

 銀の軌跡が揺れるのを、男は霞む視界に捉える。

 救世主の磔姿ではなく、簡素なただの十字架。

 それは、カトリックの都ウィーンでは見慣れぬ形状のものであった。


 喉を潰さんとばかりに圧しあてられる手の平。

 揺れる銀。


「なぜ……?」


 気道が狭まり、男の喉から「ヒュー」と悲鳴のような音が漏れる。

 女の涙は止め処なくなく男の顔を濡らしていた。


「いつも誇り高い貴方が好きだった。ずっと好きだった……ほんとよ」


 瞬間、女の全身から力が抜ける。

 突然抵抗を失ったことで、男の腕が女の胸元を押した。

 あっけなく横向きに倒れるエルミアの姿は、まるで糸の切れたあやつり人形。


「エ、エルミ……?」


 咳きこみながらも男は起き上がり、倒れた女の顔を覗きこむ。

 そして、絶句した。


 彼女の滑らかな肌は色を失っている。

 薄く開いた唇は強張り、隙間から覗く小さな歯の白さが異様に浮いて見えた。

 半開きの目蓋。

 瞳からは光が失せ、長い睫毛は凍り付く。


 ──息をしていない。


「エルミ……何で? 死んだ、のか?」


 ──俺が殺した?


 力をこめたつもりはなかった。

 だが幼少期から戦場で銃を、剣を操っていた腕は、か弱い女の身体など簡単に損ねてしまうのかもしれない。

 震える指先がなぞる頬は、ぬくもりと柔らかさを兼ね備えたいつもの彼女のもの。

 この女は、柔肌の下にどんな思惑を隠していたというのか。


「オスマンの為じゃないなら、何でお前はこんなことを……?」


 ふわり。

 焼き菓子の甘い匂いが立ちのぼる。

 さっきまでガレットを頬張っていた口は、しかし今や動くことはない。

 このまま放っておくと、四肢の硬直とともに身体から徐々にぬくもりが失われるであろう。

 花弁のように柔らかかった唇も、鉄のように固くなるのだ。

 彼は戦場で何度も死を見てきた。

 乱れる心と裏腹に、死体を見慣れすぎた男は、己の頭の隅で理性が冷静に指示を出すことを感じる。


 ここは王宮。

 今は皇帝や追従の者はいないといっても、包囲戦の最中だ。

 この建物が空になっているわけではない。

 むしろここは現在、司令部のようになっていて、貴族や彼らの軍隊が自由に出入りしているのである。

 こんな所に死体を置いておくわけにはいかない。


 持ち出すか?

 いや、人目を避けて遺体を運び出すのは困難であろう。

 ならば、ここで何とかしなくてはならない。

 素性も分からない、しかもオスマンと通じていたかもしれない難民の女が一人いなくなったところで誰も気に留めやしない。


 幸いここは一階だ。

 窓の外は庭。

 表側の庭は物資の置き場所として使われているが、こんな裏庭にまで来る者はいない。


 それならば、庭に埋めるというのが現状もっとも簡単な死体処理法であろう。

 そうと決まればシャベルの用意を。

 夜が明けるまでに始末をつけなくてはなるまい。


 無感動に立ち上がった男の頬で水滴が転び、爆ぜるように床へ消えた。

 女が零した涙か、それともそれは男のものであったのか。

 足取りを乱すでもなく彼は部屋を出て、廊下へ消える。

 しばらくしてから大振りのシャベルを手に戻ってきた。


 感情を失った眼が見開かれたのはそのときのことだ。

 彼は、自室の扉を後ろ手に閉めた体勢のまま凍りついた。

 部屋の中央に倒れ伏したエルミアの姿がないのだ。


「どこへ……?」


 はじめは、喜んだ。

 そうだ、少し押しただけだ。

 あれしきのことで人が死ぬ筈がないではないか。

 いたずらっ気を起こした彼女が、きっとどこかに隠れているのだ。

 こちらの混乱っぷりを見て、笑いながら出て来るに違いない。


 だが、呆けたように立ち尽くす男の周りで時間だけが空しく過ぎていく。

 窓の外から届くシャーヒー砲の単調な飛来音に我に返ったのは、どれくらいの時が過ぎてからのことだったろうか。

 エルミアが現れる気配はない。

 もしかしたらあの女はもともと存在していなかったのだろうか──そんな思いまでも去来する。

 皇帝もいないこの小さな都で、三十万からなる敵軍を迎えうつ羽目になった最高司令官が、その職務の重さに耐えかねて作り出した美しい夢、それとも安らぎの幻想──それが彼女だったのか。


「いや、そんな筈ない……」


 女の感触、頬に落ちてきた涙のあたたかさを、彼はちゃんと覚えていた。

 窓を開ける。


「なぁ、エルミア?」


 小さく叫んだ。

 シャーヒー砲が空を過ぎる音に合わせて声を上げるという自らの気の弱さに、敢えて気付かないふりをして。

 しかし、何度呼んでも女の返事などありはしない。


 一体、何が起こっているというのだ。

 頭の中に靄がかかったように、まともな思考ができない。

 そういえば彼女が言っていたように、ここしばらく眠っていなかったっけ。


 ふと見上げた空には赤い月。


「……エルミア、俺は狂っているのかな」


 だが待ってくれ──心の中で女に語りかける。


 正気を失うのは、俺がこの市を守り抜いてからだ。

 そう呟いてから、ウィーン防衛司令官エルンスト・リュティガー・フォン・シュターレンベルクは部屋を後にした。

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