赤い三日月(2)

 つと、女の手が伸びた。

 男の右手に触れ、その親指を握り締める。


 それは、マスケット銃を持つことに慣れた武人の武骨な手だ。

 ふにゃりと柔らかな感触に、男の陽に焼けた頬に僅かな赤みが差す。

 誘っている……わけではないのは明らかだ。

 エルミアは、ガレットをまるで飲み込むのが惜しいようにモゴモゴと口の中で転がしながら渋面を作ったのだから。


「閣下、すぐにイーッとなって爪を噛む癖はお止めなさいな。最高指揮官ともあろう方が、まるで子供みたいですわ」


 閣下と呼ばれる身分の男ではあるが、彼女の言うとおり右手親指の爪はガタガタであった。


「……でも、苛つくことばかりなんだ。将にも息子にも」


 指揮官の短気は有名であった。

 すぐに癇癪を起こして部下に対して怒鳴りちらす。


「彼らを信じてさしあげて。少なくとも、この戦争が終わるまでは」


「信じていないわけじゃない。ただ、あいつらは自分勝手で……」


 口をつこうとした不平を、じっとり睨むエルミアの視線が押しとどめる。


「苛々したときは少し我慢するの。怒鳴る前に大きく息を吸って、頭の中で三つ数えて。それから、その人の気持ちを考えてみるの」


 そんな悠長な──鼻で笑う男に肩をすくめてみせて、女はぽつりと呟いた。


「閣下は昔からお優しい方ですわ。わたくしはよく知ってますもの。市民の方だってみんなそう仰ってるわ。それなのに、どうして部下の方には伝わらないのかしら」


 どこを見ているのだろう。

 まるで遠い世界を見つめるようにうつろな表情。

 夢の中にいるように緑色の瞳は濡れている。


 男が声をかけるタイミングを失したところで、クスリと笑い声。


「まぁいいですわ。閣下がお優しいことは、わたくしが一番分かってますもの」


「何を言って……」


 頭ひとつ分、下に位置するエルミアの顔を覗きこむ。

 まだ口の中に残っていたのか、前歯だけを動かしてガレットを噛む様子は、彼がよく知っている意地悪な天使のような彼女だ。

 右手を伸ばしかけ、こぼれた刃先のような自分の爪先に気付き、男は逆の手で彼女の頬に触れた。


「エルミア……」


 どう捉えても、これは良い雰囲気というやつである。

 ゆっくりと寄せた顔を、しかし細い指がガシッと受け止める。


「イタッ!」


 顎をエルミアにつかまれ、そのまま押し返された。


「痛いっ……」


「あら、お忙しいはずの閣下が何をなさるのかしら」


 自分には不釣り合いなほど若いこの女は、男の操縦の仕方を知っているのであろうか。

 いつもこうやって可愛らしい声でやり込められる。

 美しい金髪と、どこか物悲しく揺れる緑の瞳。

 悪戯っぽく微笑をたたえる唇、華奢な体躯──有り体に言えば、女は彼の愛人であった。


 名門貴族の長である男が自身の屋敷に、あろうことか本妻が留守の間に若い愛人を連れ込んでいると噂されてはまずいので、彼が王宮に与えられた私室に匿っているというわけだ。

 本来なら不謹慎極まりないと眉を顰められるところである。

 だが、戦争の混乱の中で皇帝一家と追随の者たち、宮廷の主要な人物が慌ただしく首都を出払ったこともあり、彼が愛人と何処に暮らそうが咎められることはない。


「エルミ……痛っ、痛い……」


 意外なほどの力強さで顎をつかむ手が、ようやく外れた。


「閣下……」


 エルミアの表情が硬く強張っていることに気付き、男は痛む顎をさする手をとめる。

 その時、彼女が口を開いた。


「閣下、お願いがありますの」


「お願いか? 珍しいな。言ってみろ」


「どうか、オスマン帝国軍に降伏なさって」


「……なに?」


 思いがけぬ言葉に、男の目元が凍りつく。


「オスマン帝国軍はウィーンを完全に取り囲んだというじゃありませんの。しかも数は三十万人だなんて。そんな途方もない大軍、いくらウィーンの市民の皆さんが勇敢であっても敵いっこありませんわ」


「……どこでそれを?」


「そんなの、どこだって良いでしょう! ドナウ艦隊が崩れたら、ウィーンはお終いではありませんか」


 閣下、今のうちにどうか降伏を──そう告げる女の声はやけに落ち着いていて静かなものだった。真剣な眼差しに、男は違和感を覚える。


「なぜ、お前がドナウ艦隊のことまで知っている?」


「そ、それは……」


 明らかに、言葉に詰まった様子。


「あの……ガレットを買ったパン屋さんが言っていたから」


 男が眼を細める。

 その仕草から、彼女は「不穏」を読み取ったようだ。


「ほ、包囲が始まってから、閣下はちっとも眠っていらっしゃらないでしょう。わたくし不安で。だから……」


「心配はいらない。幼い時から戦争に駆り出されてきた。戦場では俺は寝なくても平気だ」


 その声は、窓の向こう──夜空に浮かぶ三日月よりも鋭く、堅いものだった。


 女は顔を俯ける。

 長い金髪に覆われ、その表情を窺い知ることはできない。

 やがて、肩が小刻みに震え始めた。


「エルミ……」


 泣かせてしまったか──男に動揺がみえる。

 焦りが、疑惑の感情を消し去ろうとするその刹那。

 女の唇の隙間から音が漏れた。


「……クッ、ククッ」


 肩の震えは大きくなる。

 呆然と見つめる男の前で、ついに女は両手で己の胸をかき抱くようにして笑い転げた。

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