【三題噺 骨・無視・家族】黒い骨

 ぺっ……。


 妹が吐き出したのは、魚のそれによく似た――真っ黒な骨だった。

 一瞬家族の食卓に沈黙が広がるが、次の瞬間には父も母も兄も、何事も無かったかのように笑顔で話し出す。しかしその団欒だんらんに妹が加わることは無い……少なくとも明日のこの時間までは。


 兄妹に起こる現象が異常な事で、我が家の風習が世間一般では理解されないのだと気づいたのは小学校中学年になってからだった。

 食事中、兄と妹の口には時折黒い骨が現れる。形はいかにも魚の骨のようだし、骨が刺さった時のリアクションもそっくりだ。しかし魚を食べている時以外でもお構いなしに骨は現れ、そしてそれを合図に家族はを始める。丸々ぴったり24時間、いないものとして扱われる。食事も出てこないし習い事の送り迎えもなくなる。本当に10歳になる直前まで、これがどの家庭でも行われていると思っていたのだ。当たり前のこと過ぎて、皆言わないだけなんだろうと。

 もう1つ不可解なこととして、3人兄弟の真ん中の僕だけ、黒い骨や無視のルールとは全くの無縁だった。骨が口から出てきたことは一度もないし、家族が無視をする中でも僕は普通に兄や妹に話しかけていた。そしてそれを両親に咎められた記憶もない。"骨や無視"に全く疑問を抱かなかった僕だが、この事について一度だけ、父親に尋ねたことがある。贔屓の球団が勝って機嫌のよかった父は、笑顔を浮かべたまま、時が来れば教えてやると僕の頭を撫でた。


 そして僕が高校生の時、"その時"が訪れた。

 白髪が目立つようになった両親と思春期を迎え口数の少なくなった妹、そして大学生になった兄に僕を加えた5人は、本家から送られてきたカニの山に舌鼓を打っていた。大学進学を機にバイトを始めた兄は、事あるごとにバイト先や客への愚痴を零すようになっていて、その夜もいつも通り威圧的な店長の下で働く事の大変さを説きつつ、口癖となった"もっと楽なバイト先ねぇかな"を繰り返していた。

 その声が不意に止むと同時、僕が手を伸ばしていたむき身のカニに赤黒いものが大量に降りかかる。視線を上げると、赤い泡を口の端につけた兄が、ゆっくりと後ろ向きに倒れていくところだった。


 一瞬、食卓の時間が止まる。





 ―—そして、次の瞬間にはまた、箸を動かす音、カニの身が醤油に浸される音、咀嚼する音が始まった。


 自分でも自覚のないままに、僕は怒鳴っていた。いつもとはわけが違うんだぞ。こんなに血が出てるのに、それでも家族なのかお前ら。死ぬぞ、兄ちゃんが本当に死ぬぞ。

 息と血が混ざるゴボゴボという音が、僕を現実へと引き戻す。そうだ、まずは兄の介抱をしないと。兄の上体をそっと起こしたところで、どこにも黒い骨が落ちていないことに気が付いた。家族が皆、無視を続けているということは"骨"がらみであるのは間違いない。とすれば、まだ骨は兄の口の中に刺さっているのだ。血でぬめる口内に指を突っ込み探っていると、歯とは違う感触に触れる。これだ、と引き抜いたものは、果たして黒い骨だった。





 けれどおかしい。


 掴んだ骨は、いつも見ているものよりずっと太く、大きく、そして長かった。ずるずると兄の口から出てくるそれは、決して魚の骨のような、なんて形容できるものではない。到底人の口には収まりきらない、特徴的な形のその骨は……、


 おそらくは、兄の背骨だった。


 文字通り芯の抜けた兄の身体を眺めて呆然としていると、ゆっくりと優しく兄の骨が僕の手を離れる。先ほどまで徹底して無視を貫いていたはずの父が、暗い顔をして骨を抱えていた。


「ついてこい」


 父に言われるがまま、家の裏手にある物置小屋へと向かう。大きなベニヤ板やサーフボードをけると、暗褐色の扉が姿を現した。

 そういえば、小さい頃に物置小屋で遊んでいたらひどく怒られたっけ。扉をくぐると、そこにあったのは人間の頭部のミイラらしきものだった。

 父は覚束ない手つきで骨をミイラの頸部けいぶに差す……いや、繋げる。


「戻るぞ」


 それだけだった。兄の背骨を繋がれたミイラの目が光るということもなかったし、何か嫌な空気が辺りに満ちるなんてこともなかった。

 母と妹は相変わらず食事を続けていて、兄の血がついたカニを美味しそうに食べている。僕が洗面所に駆けこんでいる間、父は電話しながら、どこからか大きな寝袋のようなものを引っ張り出してきていた。


「世話をしてやってくれ」


 兄の身体を袋の中に寝かせながら、父が言う。


「私たちはもうじきけいのことを忘れてしまう。だから、あの部屋や蛍の掃除はお前にしてほしい」


 体のおさまった袋を玄関先に置いた後、ようやく僕は知りたかったことを教えてもらえた。

 今のように本家と分家に分かれるよりもずっと前、一族の誰かがこのに手を出したのだそうだ。親から子へ、子から孫へと連綿と続く呪いの形。かつてはもっとだったそれを、本家といくつかの分家に分割することによって、子供のうち誰かが次の"依り代"になり、残った子の中で最も年長の者に継承する今の形へと変化させていったのだと父は言った。

 だが子の中でも"維持役"——つまり僕には継承権がない。間違いなく父と母の間に生まれた僕は、しかし2人とは何の血縁関係も無いのだという。依り代にならない代わりに記憶が失われることもない維持役は、継承が行われるまでの間、依り代の世話をし続けなければならない。


 呪いを解く方法はないのか、という問いに父は黙ったままだった。これは末代まで続く呪いだ。俺には無理だった。そんな呟きが口の奥から聞こえた気もした。




 そんな話をしたのも、もう20年以上前だ。妹はとっくに家庭を持ち、兄の骨も妹の新居に移された。依り代の継承が行われた時に、妹は全てを思い出したようだ。きっと自分の子供にも上手く伝えてくれるだろう。

 維持役の務めはとうに終わっていたが、それでも僕は理由をつけては兄の骨と向かい合っていた。自分を戒めるために。


 "依り代を祀る限り、決して大きな事故や不幸には見舞われず、安寧の日々を送ることができる"


 これが儀式の効果だ。事実、妹とその夫は若くして始めたビジネスをうまく軌道に乗せ、勢いは無いながらも安定した経営を続けている。一方の僕は勤めている会社の業績が芳しくなく、この前は遠回しな退職の打診も受けてしまった。


 もし自分が依り代を受け継いでいたのなら……そんなおぞましい考えがこれ以上脳裏をよぎらないように。妹が子供を産んでから急速に朽ち始めた兄の骨を、今日も僕は湿ったタオルで拭いている。

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