麻薬と媚薬

@tatukiti1002

第1話

「ハナトリカブトの生薬はお持ちでしょうか。修治は危険ですので、お気を付けください。明日、お持ちいただけると助かります 華紫」

 俊充は菜々緒からの手紙を握りしめ、野次馬から遠く離れた山に立ち、騒動を見ていた。上野公園で起こった数百人の大規模な共産党集会。先日、共産党の若きリーダーが拷問の末、虐殺されたこともあり、集会は異様な熱気だった。会場周辺には私服警官が取り囲み、幹線道路には特高警察が待機している。

 1925年4月、関東大震災の混乱を治めるために制定された緊急勅令は、加熱する社会運動を取り締まる為の治安維持法へと姿を変えようとしていた。一触即発の雰囲気は、一人の青年が西郷隆盛像へ向けて火炎瓶を投げつけたことによって暴動へと変化し、数十人が逮捕される騒動へと発展した。

 同時刻、権力の象徴である国会周辺でも共産党員による暴動が起こった。鉄パイプや爆弾などを使い、国会議事堂を破壊するという行動は警察、軍隊と揉みあいになり、100人以上が逮捕された。菜々緒からの手紙がなければ自分も逮捕され、特高による取り調べと拷問を受けていただろう。俊充は知り合いが逮捕されるのを、遠くから、苦虫をかみつぶしたような顔で見つめるしかなかった。


 二年前にも同じような事があった。菜々緒の父であり、社会学者の堀辻幹雄が妻と共に逮捕された。その場に居合わせた俊充も連行され、神奈川県警察部特高課労働係長、有松修から取り調べを受けた。

「松岡俊充、薬屋の跡継ぎで父親は陸軍大尉か」

 有松は卑下た笑みを浮かべ、顎髭を触りながら、調書と俊充を交互に見ていた。上等なスーツに身を包み、シルクハットに腕時計をはめた姿は特高の幹部とは思えないが、その冷たい蛇のような目と、物言わずとも周囲を圧倒させる雰囲気は、一般人とはかけ離れていた。

 髪の毛を掴まれ、上を向かされた俊充の顔は腫れあがり、開けた襟裳から見える背中には無数の傷がついていた。唇から流れでる血を拭うことも許されず、まな板に乗せられた魚のように、鈍い音と共に取調用の机に頭を押さえつけられた。

 窓からは春らしい爽やかな風が入ってきていたが、無機質な取調室には人間的な温かさは皆無だった。時々聞こえてくる何かが倒れる音と、人のうめき声と怒鳴り声、その後に訪れる不気味な静寂は、この部屋でも確かに行われていた。ただ人が苦しむだけの音、身に覚えのない言葉を投げつけられ、何も答えることができない。自分の運命は有松の一言で決まることは、その場にいた全員、暗黙の了解だった。殴られた傷の痛みよりも、押さえつけられた顔に唾を掛けられるという屈辱よりも、この死神のような男の一言の方が恐ろしく感じたのは俊充だけではなかった。彼の部下も微動だにせず、上司である有松の言葉を待っていた。

 自分は共産党員でもなければ、政治思想もない。2年前に甲種薬学校を出て、実家の薬屋を手伝っている23歳の男だ。堀辻先生とは横浜の遊郭で、酔った友人を介抱しているときに出会った。遊郭に上がったものの、お金がなくて楼主に怒鳴られていたところを、先生がお金を払ってその場を収めてくれたのだ。それから研究室や実家にお邪魔するようになったが、先生はアメリカへの留学経験もあり、社会学を研究しているだけで赤ではない。だが先生の発言や研究内容、そして資料などが国家転覆を図っているとみなされたのだ。

「お前はともかく、あの男は赤だろう?お前も赤になるように勧められたのだろう?」

 ゆっくりと獲物を品定めするような目つきと、侮蔑をこめた言い方で有松が問いかけてくる。

「先生は赤ではない、何度もそう言っている」

 俊充がそう答えると、横にいる部下によって無理やり立たされ、殴られる。もうこのやり取りが何度も続いている。その度に頭が働かなくなり、何と答えたらいいのかわからなくなるのだ。

「では教え子でもない薬師のお前が、なぜ堀辻の家に出入りしていたのだ?」

 先生の話は刺激的で勉強になり、時には人生の指南もしてくれていた。薬師になるのを反対し、軍人か警察になるように言われていた父親とどう向き合うか、薬師としてどうあるべきか、今後の世界情勢など、先生との話は尽きなかった。だがそれだけではない、一番の目的は菜々緒だった。


 俊充は菜々緒と出会った時を思い出していた。ちょうど夏休みで、堀辻の家を訪れていた時、お茶を出してくれたのが菜々緒だった。まだ幼さは残りつつも、これから大輪の花を咲かせようとする蕾のような、煌びやかな可能性を秘めた女性だった。姿勢をまっすぐ伸ばした袴姿の凛とした雰囲気は、頭の良さ、気の強さも持ち合わせており、俊充は一目で菜々緒に心を奪われた。

「娘の菜々緒だ。良妻賢母型の学校ではなく、喜んで働く、独立心をもった女性を育てる教育方針の学校に通わせている。英語も習っているんだよ。僕の研究は、この可愛い娘がこれからどう生きていくかを考えた時から始まっている。近代的自由主義、つまり政府の介入を容認しつつ、個人の権利を積極的に認めていくことが必要だ。政府は力で制度を作り、教育を支配して個人を弱らせることができる。そのために強烈かつ独創的な考えを持った人が立ち上がりにくくなっている。それは人間の力を発揮する機会を奪う事であり、ひいては国にとっての損失だ。国はもっと自由主義を尊重するべきだと思う」

「だから先生は外国で勉強をしているのですか?」

「ああ、自分の国を知るには海外に出るのが一番だ。常識や習慣など、確固たるものを疑問視することができる。敵を倒すには、敵を知らなければならない。好きな女を嫁にするには、父親を知らなければならいのと同じだよ」

「お父様、世界や国と、女子の話を混ぜるのはどうかと思いますが」

 冷やかす様に笑う堀辻に、菜々緒は戸惑った様子を見せたが、堀辻は意に介することもなく続けた。

「俊充君も海外の高い技術には驚かされるだろう?研究者は皆、自分の信念、志、そして社会の役に立ちたいと願い、研究をしてきた。それらは彼らの志を曲げなかった結果だ。この国がもう少し、各々の志を認められたら、もっと素晴らしい成果が上がるだろうに。薬の知識を深めるためには、外国の知恵が必要だ。海外の優れた知識を得て、独自に開発、発展させるのは歴史の常だ。そう言った意味では、僕も君も同じだよ。特に今はドイツから薬を輸入できなくなったから、国産の薬の開発が進んでいる。君も研究してみたらどうか?菜々緒は英語も学んでいるし、いい助手になると思うよ」

「お薬の勉強をなさっているのですか?」

 菜々緒は好奇心溢れる目と、優雅な仕草で俊充にお茶を差し出したが、お茶の味などわからなかった。ただ全ての感覚器でこの女性を感じたい、その思いで一心に見つめていた。

「あの、どうかしました?」

「いえ、何でもありません」

俊充のぎこちない答えにも関わらず、菜々緒は優しい笑顔で受け止めてくれ、堀辻は二人の様子を微笑ましく思いながら見ていた。それからは堀辻の助手、勉強を教えてもらうという口実で、足しげく通い始めたのだ。


「さっさと答えろ!」

 力任せに椅子に座らされ、頭を机に押し付けられる。菜々緒の事を思ったお陰で、正気を取り戻した。だが菜々緒の事を話す訳にはいかない。菜々緒はどうなっただろうか。たまたま留守だったので連行はされなかったが、帰ってきたところを特高に捕まったのではないかと思うと気が気ではないが、むやみに彼女の存在を伝える訳には行かない。

「先生の家の裏には、漢方に仕える薬草が多く生息している。それを摘ませてもらっていただけだ」

「ほう・・・」

 有松は口角を上げ、馬鹿にしたように笑った。次は何で殴られるのか。棍棒か、パイプか、ムチでも持ち出すのか。一瞬の静寂の後、有松は部下を部屋から退出させた。予想外の出来事は、逆に恐怖心を煽る。何をされるのかと直視すると、有松はゆっくりと顔を近づけてきた。

「俺はお前を馬鹿ではないと思っている。お前の態度次第で家族や大先生もどうなるか、考えたことがあるか?」

「先生は無事なのか?」

「無事で済むかどうかは、お前が決めろ」

「どういうことだ?」

「なに、そう難しいことではない。薬屋であるお前にしかできない、とても簡単で国の役に立つ仕事だ。そうすることで、お前の家族は救われる。堀辻という学者も助かるかもしれん。あいつの命はワシが握っている、お前はどのみち、ワシからは離れられん」

「俺にお前らの仲間になれというのか?」

「まあそういう事だ。お前も日本国民なら、日本国の警察に従うのは当然だ。そうしなかった奴が、どんな目に遭うか、社会勉強でもするか」

 有松は部下を呼びつけると、部下は俊充を一瞥した後、敬礼をして取調室から連れ出した。取調室が並ぶ廊下からは、先ほど自分が受けた怒号や鈍い音、何かが壊れる音が聞こえてくる。ここを通るだけで人の精神が壊れ、自らを罪人と認めるには十分だ。その効果を見通しているのか、部下はゆっくりと歩を進めると、ある部屋へと俊充を入れた。

 窓越しに一人の男が取り調べを受けている様子が見えた。だが俊充と違い、椅子に座っているのではなく壁に立たされ、棒で殴られていた。顔は変形して皮膚が腫れあがり、いつも穏やかで笑っていた顔は、苦悶に満ち、今にも呼吸が止まりそうだった。

「先生!」

 俊充は窓に張り付き、近くにいた部下に叫んだ!

「やめさせろ、今すぐやめてくれ!」

 だが部下は俊充の言葉など聞こえていないような態度で、笑いながら拷問の様子を見ていた。俊充は近づき、再度、やめさせるよう叫ぶと罵声と共に腹を殴打され、床に蹲った。一度止まった空気が一気に喉から出てきて、咳き込む。腹の痛さよりも、体の自由が利かない苦しさに悶絶するが、先生の苦痛はこの何倍もあるだろうと必死で耐え、立ち上がる。

「俺が了解したと有松に伝えろ!今すぐに先生への取り調べを中止するんだ!」

 部下は怪訝な顔つきで俊充を見ていたが、「有松」の名を出したためか、窓を開け、やめるように伝えた。警官の手が止まった途端、堀辻は倒れ込んだが、誰も気にすることなく部屋を後にした。俊充は取調室に走り込もうとしたが、すぐさま取り押さえられ、元の取調室へと連れていかれた。

 歩く間、俊充の心は震えていた。あの聡明で、国や個人の事を第一に考えている先生にあんな仕打ちをするなんて狂っている。同じ国民に、しかも刑が確定もしてない段階で私刑のような拷問を与えるとは。これが国か、国にたてつく可能性があるならば、どんな事をしても正義なのか。権力を盾に、国民を思うがまま操り、甚振るのが特高のやり方なのか。丸一日続いた取り調べの疲れと、堀辻先生への拷問、そして菜々緒がどうなっているのかを思うと、心を砕かれたようになる。もしかして、もう捕まってしまったのだろうか、菜々緒、菜々緒!心の中で名を叫ぶことしかできなかった。

 窓一つない、薄暗いコンクリートの作りの取調室で、再び相まみえた有松は上機嫌だった。

「社会見学はどうだったかね、薬屋。国に背いた奴の行く末を見ただろう?あんな非国民につける薬があったら、教えてほしいものだ」

 奴のいう事を聞くということが伝わっているのだろう。だが本当にいいのか?こんな奴の言う事を信じていいのか?俊充は自問自答をしていた。先生の姿をみて咄嗟に出した答えが、本当に先生の安全を保障してくれるのか、確信が持てなかった。あんなに酷いことを平気でする、この目の前の男を信じていいのだろうか。だが俊充は、有松の次の一言で完全に決意した。

「そういえばあの男には一人娘がいるそうだな。どこにいる?」

 有松は獲物を捕らえ、甚振るような目で顔を近づけた。形の整った口髭が威厳を増し、威嚇しているように感じるのは、俊充の泣き所が菜々緒であることを知っているからであろうか。

「知らない」

 言葉短く言い放った俊充をじっと見据え、瞬き一つも見流さないような目つきで、有松は言った。

「まあいい。今の所、娘は見逃してやろう。だがお前の働きぶり如何では、草の根を探し分けてでも捉えてやる。若い女とくれば、むさ苦しい男ばかりの職場で働く連中も、喜んで探すだろう。女を知らない俺の部下に『研修』させてやってもいい。部下の指揮も上がるだろ」

 俊充は初めて殺意というものを知った。誰かを殺したくなる衝動が腹の奥から湧き出てきて、手に伝わって有松の襟首をつかみ、言葉として吐き出た。

「この野郎、何を言うんだ!」

 だが大きく振りかぶった右手は部下に取り押さえられ、頭を思い切り机に沈められた。ドカッという鈍くて大きな音だけが室内に響き渡り、頑丈な机からは脳天に響くような痛みが送られた。

「俺を殴るか?薬屋ともあろう者がやる行為ではないぞ」

 ニヤリと笑い、髭を触りながら、獲物が衰弱する様を楽しむように見ると、部下を部屋から出し、耳元で囁いた。

「お前には合法的な社会民主主義政党、いわゆる労農派として動いてもらう。赤の党員になると、軍人であるお前の父親も困るだろうから、お前は家を出て、名前を変えろ」

「労農派とは何だ?」

「赤とはいかずとも桃色、といった組織だ。赤と違い、合法的なやり方で活動をしているから、捕まることはないだろう。赤の奴らは合法の組織にも絡んでくるはずだ。お前はただの薬屋として奴らに貢献し、信用を勝ち取り、情報を引き出せ。それよりももっと重要な仕事がある。まずは麻薬取扱者の登録をして、薬屋を開け」

「麻薬取扱者だと?」

「ああ、それがあれば公に麻薬に関われる。商売はもちろん、研究もできる。いい話だろう?」

「何の為にそんなことをさせる?」

「なに、ちょっと使いをしてもらうだけだ。お前は渡されたものが本物の麻薬かどうかを確認して、指定された場所で金と引き換えに渡せばいいだけだ」

「俺に麻薬密売の加担をしろというのか?特高のお前がそんなことをしていのか?」

「黙れ!」

 勢いよく飛んできた有松の拳が頬骨に当たり、骨が砕けたような激痛が走り、床に倒された。木製の汚れた床に口が付き、目の前に有松の上等な靴が見える。這いつくばった背中を足蹴にされ、苦痛と屈辱が同時に襲い掛かる。

「これは立派な仕事だ。お前は運び屋と同時に赤へ潜入して情報収集をする。薬は少し分けてやるから、赤の連中に流行らせればいい。金も儲かり、赤の連中も廃人になり、一石二鳥だ」

「そんなことできるか!」

 俊充は顔を上げ、有松を睨みつけた。人々の病気を治すために薬師の資格を取ったのだ、誰かを狂わす薬に手を貸すわけには行かない。

 背中を踏みつけていた有松の足が、頭の上へ動き、頭と床を密着させる。力を入れながら左右に足を回すたびに、髪の毛が抜けるのを、目を閉じてただ耐えていた。舌打ちと共に、有松の唾が頬に飛んでくる。自分が人間だということを忘れるような扱いの中で、有松の苦々しい声が聞こえた。

「協力をしたら、お前にも粗製モルヒネが回ってくるぞ。そうすれば金も手に入るし、監獄にいる学者にも分けてやれる。頭しか使ってこなかった、机の上で絵空事を語る軟な学者先生には、取り調べは耐えられんだろう。我々の部下は手加減というものを知らない。勤務時間中は痛めつけるのが仕事だ、死のうが苦しもうが関係ない。だがワシの口添えがあれば、『勤務時間』を短くすることもできるし、薬で楽にしてやることもできる。看守に小遣いでもやれば、面会もできるぞ。いいことづくめだ。さあ、どうする?薬を扱うお前だ、バカではないだろう?こうしている間にも、学者先生が苦しんでいるぞ?」

「先生をどうするつもりだ?」

「どうするも何も、お前の返事次第だ。先生に痛い思いをさせたくないのなら、今すぐ店の開店準備と麻薬取扱者の準備をするんだな」

 有松は椅子に座ると、俊充にも座るよう指示した。ふらりと立ち上がり、口から流れる血を手で拭き、正面に座ると、有松は顔を近づけた。

「山下居留地の近くに『佐伯商会』という卸問屋がある。そこの主人に『越智が来た』と言え。いいか、取次の奴には俺の名を出すな。あくまでも主人を呼び出してもらえ。お前も名乗るな。後の手はずはそいつに聞け」

 有松はそう言うと、部屋を出て行った。


 一日ぶりに見た太陽は既に西に傾き、春から夏へと刺のある眩しさに変貌しつつあった。無機質な警察署にも自分にも平等に降り注ぐ夕日を見ながら、俊充の目には涙が溢れていた。殴られた頬の痛みも、机に押し付けられた頭の痛みも、踏みつけられた屈辱感もすべて飲み込むほどの喪失感に飲み込まれていた。

 夕日は昨日と大して変わらないのに、なぜこんな状況になり、鬱々たる波に押しつぶされそうになるのか。なぜだ、何が起こっているのか。一日、わずか一日経っただけだというのに、自分の世界はバラ色から暗黒の闇へと落とされてしまっていた。つい昨日、堀辻先生といつものように談笑し、菜々緒への思いを口にしたばかりではないか。菜々緒が留守と聞いたから、帰ってくる前にお邪魔して、緊張しながらも思い切って、菜々緒との婚姻を申し込んでみたのだ。

 あの時、先生は両手を袖に入れ、「まさか君が婿になるとは思わなかったなあ」、と大声で笑っていた。普段から先生、先生、と親しみを込めて呼んでいた人が自分の義父になるのだと思うと妙に気恥ずかしく、また更なる親近感を得ずにはいられなかった。二人して菜々緒の帰りを待っていた時、急に特高警察に押し入られ、奥様共々、問答無用で連れていかれたのだ。菜々緒の行方も分からない、とにかく菜々緒の家に向かわなければ。

 堀辻家は静まり返っていた。大通りから離れた、小高い山の麓にある菜々緒の家は、先生が静かに研究するためには最適の場所だった。俊充にとっても、裏山にある薬草を摘むという名目で何度も菜々緒を連れ出し、誰にも邪魔されずに逢瀬を重ねることのできる、最適の場所だった。

 玄関のカギが開いていたので、ゆっくりと戸を開け「ごめんください」と声を掛けるが、応答はない。裏にも人の気配がないので、もう一度玄関に戻り声を掛け、奥へ入ると、部屋は荒れていた。泥棒でも入ったかのような散乱振りに驚き、整理整頓され趣のあった部屋の変わりように、暫し立ち尽くす有様だった。

 捜索とは名ばかりの強奪振りに、身の毛がよだつ。引き出しはひっくり返され、先生の机も書類が散乱し、神棚まで落とされている。台所の茶碗も全て割られ、自分たちの目的物以外はゴミのような扱いだ。家がこんな状態では益々、菜々緒の安否が気になる。警察にはまだ逮捕されていないようだが、うまく逃げたのか?だとしたらどこにいる?もしや自分を頼ってきたのではないかと、急いで自宅に戻った俊充を待っていたのは、菜々緒ではなく陸軍大尉の父親だった。

 父親は居間に正座していた。その荘厳さは軍人特有のものだろうが、俊充はその厳格な父が苦手だった。小さな頃から喧嘩は強かったが、どちらかと言えば山で草を取るほうが好きで、母の実家である薬屋にもよく出入りし、手伝っていた。そんな俊充を父は快く思っていなかったが、母親の理解と堀辻先生の助言もあり、何とか甲種薬学校を卒業できた。薬師の資格があれば、陸軍薬剤少尉にもなれるだろうと考えていた父親と、薬師として独立を考えていた俊充とは何度もぶつかっていた。そんな経緯もあって、菜々緒との縁談もすぐに報告ができていなかったのだ。

「馬鹿野郎、よりによって特高に目を付けられるとは!大日本帝国軍人であるワシの顔に泥を塗る気か!今後一切、あの家族とは関わるな!」

 開口一番がその言葉か、相変わらずだな、と俊充は父親を見つめた。母親はすぐに傷の手当てを、と言ったが、父親が止めた。

「薬の勉強などをさせたのが間違いだったな。初めから軍人か警察の道へ進んでいれば、非国民と関わることなどなかったのに。学者風情が、外国人に取り込まれおって」

 事あるごとに薬を否定する父親は、軍人こそが栄誉ある仕事だと思いこんでいる。最近は特高や海軍との主導権争いをしているのだろう、俊充が特高に逮捕されたことは、父親にとっては許しがたい事だった。だがそんなことはどうでもよかった。

「外国を知って何が悪いのですか?薬だって、医療だって、海外の進んだものを取り入れて発展しているじゃないですか」

「たかだか薬と国を一緒に捉えるな!今、我が国は外国から狙われている。そんな時に騒ぎを起こすなんて、夷狄の片棒を担いでいるのと同じことだ!男ならば力をもて、力を持ってこそ、発言ができるのだ」

 菜々緒がいないのなら、今はこの家に用はない。ましてやお決まりの説教など、聞いている時間はないのだ。こうしている間にも、菜々緒が特高の手に落ちるかもしれない。だが菜々緒の行方や今後の事は、軍人である父親の情報網が役に立つかもしれない。

「父上、お願いです。何とか堀辻先生が警察から出られるよう、口添えをお願いできませんか?」

 気持ちを落ち着かせ、父親に頼む。有松とかいう特高の言うことを聞くくらいなら、父親の方がよほどマシだ。

「我が国が今、最も力を入れているのが政治犯を取り締まることだ。外国のコミンテルンから資金を受け、わか国を赤化しようという輩は容赦しないという特高の意向は、国の意向だ。そんな輩を救う必要はない。それに特高は内務省直属の組織で、軍とも一線を画しており、部外者が関与できる余地はない。お前はたまたま釈放されたが、特高は白を黒にもできるんだ。口添えなどできるか!」

「先生にはずっとお世話になっていますし、先生は赤でもなんでもない、一学者だ。守るべき家族だっているし、先生はずっと国の為にと研究を続けてきた。何とか力を貸して頂けませんか?」

 俊充の哀願に父親は目を合わせることもせず、舌打ちをした。

「自分の家族も守れないくせに、何が国の為だ。世界は学校や机の上で語れるような、簡単で生易しいものではない。戦場に出ることもせず、安全な場所で理想を語るのなら、酒場のオヤジでもできる。国が必死で強くなり、外国の侵略から国民を守ろうとしている時に、平等だの外国の在り方を説くなど非国民だ。戦場でどれだけの血が流れていると思っているのだ。くだらない理想を語り、この国を混乱せることは、反逆罪に匹敵する」

「僕はただ、先生を救いたいだけなのです。ずっと一緒に学んできたのです、簡単に割り切れるはずがない!」

「あの家族はもはや、日本国民ではないのだ。我々は国民の為になら手を伸ばし、働く。だが奴らは我が国を滅ぼそうとする異国の手先となった。わかるか?飼い犬に手をかまれたんだ。お前はその犬に施しを与えるのか?そんな事をすると、今度は我々がやられるぞ。お前は今後、一切あの家と関わるな。そうでないと、我が松岡家は終わる。お前はその責任の大きさをわかっているのか?」

 俊充は言葉に詰まった。家族が共産党員だということは、社会的に抹殺されることを意味するのだ。だが見て見ぬふりなど、できるはずがない。何としても助けなければならない。正座し、握りこぶしを震わせる俊充を見て、父親は抑揚のない声で言った。

「薬屋など弱った人間しか助けることはできないが、国の機関にいてみろ、生かすも殺すも、官僚次第だ。どちらに力があるかなど、考えるまでもない。力が欲しければ、力を持っている奴の側にいて、尽くせ。そうすれば力が手に入る。全ては力を手に入れてからだ。お前がやっていることは子供の喧嘩だ」

「力を持っている奴の側にいればいいのですね?」

 俊充の静かな返答に父親は黙って頷いたが、二人の解釈には相違があることを、父親は気づいてはいなかった。そして俊充は静かに家を出た。


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