人の痛みがわかる人

 いったい誰が信じるだろう?

 私が感じていたこと、見たことを話したとして、誰が信じるというのか。


『偉大なる神』イータセヴァリスは、死んだ。


 彼は跡形もなく世界から姿を消した。


 全世界が彼の不在を悲しむのに、どうして言えるだろう。


 彼は表向きは偉大な『神』のような存在だったけれど、本質は世界を破滅に導く化け物だったのだと。


 私は感じていた。私にはわかっていた。

 彼が邪悪の存在であると。


 でも、誰に言えただろう。誰が信じただろう。


 なぜなら、彼は偉大なる力をもって、幾千年もの間人々に恩恵をもたらし続けてきた『神』なのだから。

 彼の正体に気付いた私は、彼に比べれば無に等しいような存在だったのだから。


 結局真実は、彼は彼自身の野望を果たす前に倒された。

 しかも彼を倒したのは、一見何の変哲もない旅の子供だった。


 だなんて。そんなこと、誰が信じるというのか。


 私だけが知っている。

 ほとんど誰も知らない間に、世界は危機に陥って、救われたことを。


 私はあのときあの場にいて、あの人によって救われたのだから。


 あれからしばらく経った。今になって思うところがある。

 ただ一つの世界の中で生きている私には、たぶんあの事件の全貌を理解できる日は来ないだろう。

 この世界と私が救われたことの価値を真に理解することはないだろう。

 それでも巨悪はきっと、何か大きな流れの中で。

 立ち向かう人の意志の前に敗れた。


 それだけはわかるような気がする。


 あまりにも強大な力の前では、私たち人間の力なんてちっぼけなもので。どうしようもない。

 それでも私は、負けたくなかった。

 でも到底力及ばず、助けを心から願ったとき。


 あの人は現れた。


 海のように深く、清浄なる青に輝く光の衣を纏い。

 まるで本物の神か救世主のように。


 けれどあの人は紛れもなく人間だった。私の意志を代行する者だった。


 そして私たちは、『神』を殺した。


 ……たぶん、私だけではないのだろう。


 意志はあっても力のない私たちに代わって、あの人は「どうしようもないもの」たちと正面から向かい合って、戦い続けてきたに違いない。

 一見今の私とさほど変わらない、むしろあどけなさすら思わせる身に、私には及びも付かない凄まじい経験を宿し。

 それでもなお、人の道を外れることなく歩み続けてきたに違いない。


 でなければ。いったい何があれば。


 どうして人は。

 かくも壮絶な『痛み』を抱えながら。

 敵する者への鮮烈かつ残酷なほどの厳しさをも併せ持ちながら。

 なおも人らしく、誰かの側に立ち、そして優しくあれるのだろうか。


 この世界に神はない。

 けれど私は、あの人こそ奇跡の存在だと思った。


 あの人は、今もどこかで戦い続けているのだろう。

 なら私は、あの人のために祈ろう。

 この世の何よりも厳しく、優しい力を持つあの『青の旅人』のために祈ろう。


 旅の無事を。


 そして願わくば、私のような人間を一人でも多く救ってくれることを。



 ――惑星ドルトリア とある女性の手記より



 ***



 私だけがおかしいのだと思っていた。


 みんなはよく笑っているのに、私だけが普通に笑うことができない。


 でもいつも思っていた。


 どうして私だけみんなとは違うのだろう。


 どうして私だけ『幸せ』ではないのだろう。


 両親も近所の大人たちもみんな『幸せ』だという。

 確かにどこを見ても笑顔が絶えない。

 でも私の目には、不気味な笑顔にしか見えなかった。

 だっていつも笑っている彼らの胸には、何か黒っぽいもやのようなものが付いていて。それはとても嫌なもののような気がしたから。

 黒いもやが貼り付いていないのは、赤ちゃんや当時の私のような小さな子供だけのようだった。

 ほとんど『幸せ』な人たちばかりに囲まれていた私は、子供心ながらに気味が悪くて、だから普通に笑うことができなかったのだ。


 そしてどうやら、黒いもやが見えているのは私だけのようだった。

 他の誰にも見えない、私だけの世界だった。


『幸せ』はどこからやってくるのか。

 そのうち、私より年上の子供が『幸せ』になってしまった。私のことを暗いといつもからかっていたあの子も、まったく棘のない笑うだけの人間になってしまった。

 知らない誰かになってしまったようだった。

 怖かった。

 私もいつか『幸せ』になってしまうのだろうか。

 それが素敵なこととはとても思えなくて、私は一人で眠れない夜を過ごしていた。


 誰にでも怯えていた私を慰めてくれたのは、動物たちだ。人懐こい野良のタータルたちは、自然のままに生きているように思えた。

 彼らは決して笑うことができないが、私からパンくずをもらうとき、胸のところにはピンク色のもやがかかっていて、態度からも喜んでいるのは明らかだった。

 それは『幸せ』な人たちとは違って、とても温かいもののように感じられたから。

 私は彼らの前でだけ自然と笑うことができた。


 ある日のことだ。

 いつものようにタータルたちにパンくずをあげようとしていたとき、一匹がふらついているのを見つけた。


「痛むの……? 何かに襲われたの?」


 よく見ると、タータルは深い怪我を負っていて。

 そして胸のところには、黒いもやがかかっていた。

 人々に貼り付いているそれよりはずっと薄い。だけどタータルはすごく苦しんでいた。


「待ってて! 今手当の道具持ってくるからね!」


 慣れないながら必死に手当てをして、タータルはどうにか一命を取り留めることができたらしい。

 私にすり寄って手を舐めてくるくらいには元気になっていたから、私もほっとした。


 だけど、まだ胸のところには黒いもやがかかり続けている。痛いのを我慢しているのだ。


 痛い。痛い……?


 そのことに気付いたとき、私は幼心にとてつもない衝撃を受けた。


 ああ。わかっちゃった。

 黒いもやが何なのか。わかってしまった。


 これは……みんなが『幸せ』だと言っていたものの正体は――『痛み』だった!


 この子がやられた傷よりもずっとタチの悪い、自分たちですら傷付いているのだと気付かないほど、真っ黒な『痛み』を抱えている。

 私はどうして『幸せ』を怖いと思ったのか。そのとき、はっきりとわかった。


『痛い』のなんて好きになるはずがない。『痛い』のが良いもののはずなんてない。

『痛み』がみんなを不気味な誰かにしてしまった。みんなを変えてしまった。


 ……だとしたら。


 どうしてみんな『痛い』のか。痛くなかった周りの子供たちまで、どうしてみんな『痛く』なってしまうのか。


 何か、とんでもないことが起きている。


 大人たちは知らないうちに、とんでもない何かに『痛み』を受けて、そして変わってしまった。


 私だけだ。私だけがたった今、このことに気付いた。

 いつの間にか私は泣いていた。

 両親とみんなの苦しみを思えば、駆け出さずにはいられなかった。


「パパ! ママ!」

「どうしたの? セリア」


 二人とも、造りものの笑顔を貼り付けている。

 原因がわかったから、もう怖いとは思わなかった。ただただ可哀想だと思った。

 でもどうしたら『痛み』をなくせるのか、わからなくて。


「パパ、ママ、痛いんだよね? ほんとは泣きたいほど痛いんだよね? どうしよう。どうしたら……」

「変な子ね。ママはどこも痛くなんかないわよ」

「あはは。いつも変わったことを言う子だね。セリアは」


 ぽんぽんとあやされる。子供の戯言だと思われていた。

 あやしながら、両親は頭の上で会話している。


「色々と根拠もなく不安になる年頃なんだろう。俺も小さい頃はおばけが怖かったからな」

「私はどんなだったかしらねえ。でも大丈夫よ。セリア」


 そしてママは私にこう言った。


「もうすぐ8歳の誕生日になったら、『神様』に『祝福』してもらうからね」

「……え? なに……それ?」

「『神様』から『祝福』を受けると、とても温かい気持ちになれるのよ」

「俺たちも8歳になるときに受けたんだよ」

「不安なことなんて何もなくなるからね」

「あ……う、あ……」


 私はとても怖くなって、咄嗟に家から飛び出してしまった。


「セリア! 待ちなさい!」

「どこ行くの!?」


 小さい足で懸命に表通りを駆けていく。

 嫌な予感しかなかった。

 その『祝福』とは、本当に『祝福』なのだろうか。本当は呪いか何かではないのか。

 確かめなくちゃいけないと思った。


 私の暮らす街は、『神様』の住まう大神殿のお膝元だ。

 大神殿は街のどこからでも見えるほど大きかったし、子供の足でも十分歩いて行ける距離にあった。

 私はもうすぐ8歳になるけれど、今日でちょうど8歳になる子供もいるはず。

 彼らがどうなってしまうのか。確かめなければと思った。


 そして辿り着いた先で私は、見てしまった。


 神殿に入っていく子供たち。神殿から出ていく子供たち。

 その前後で、あの真っ黒な『痛み』が生まれているところを見てしまったのだ。

 あまりの恐怖に、その場でへこたれてしまった。


 ――ああ。『神様』。


『神様』は、神様じゃなかったの? 悪魔だったの?

 みんなの暮らしを良くしてくれた『神様』だって、両親は言っていたのに。どんなおとぎ話だって、みんな彼を称えていたのに。

 なのに。

 深い傷よりも黒い『痛み』は、他ならない『神様』によって与えられていた。


 また涙が出てくる。人々を自覚もなく苦しめるおぞましい力を目にして、小さな体は震えていた。

 けれどそれだけではなかった。やがて湧き起こってきたのは、理不尽に対する怒りだった。


 お前か! お前がやったのかッ!


 パパやママだけじゃない。みんなを。世界中のみんなを!

 傷付けられたことさえ気付かせることなく、苦しめている。歪めている。


 それは彼に信頼を寄せる人々に対する――世界に対する裏切りだった。

 そのことを、難しい言葉の意味を知らなくても、私は理解した。


 パパとママと、みんなを助けなくちゃ。悪い『神様』の手から助けなきゃ!


 幼い心は、使命感に燃えていた。


「みんな! 『神様』の『祝福』なんか受けちゃダメ!」


 とにかく神殿の前で喚いた。小さな私にはそれが精一杯の抵抗だった。

 けれど、子供の言うことなんて誰が信じてくれるだろうか。

 ましてや相手は『神様』だというのに。


 あんまり騒ぎにしてしまったから、そのうち大人の警備員が私を引っ張り上げてしまった。


「やだ! 離して!」


 必死にもがいていると、


「――いったいどうしたのですか」


 耳が蕩けるような、甘い声がした。

 私は声の主が『神様』だと直感した。

 振り向いて彼を直視したとき、「ひっ」と情けない怯え声が喉に引っかかるだけだった。あまりの怖さに叫ぶこともできなかった。


 ――これのいったいどこが『神様』なのか。


 彼は人の形をした化け物だ。私は確信した。

 

 だって……真っ黒なのだ。


 この人を覆うものは、『痛み』しかない。

 最も幸せとはほど遠い、絶望でしかないような存在だった。


「はっ。それが……この子があなた様を悪者だと喚くものでして」

「子供の戯言ですよ。離してあげなさい。怯えているではありませんか」


『神様』は警備員に手を離させると、人払いをして私に近付いてきた。

 私は必死に逃げようとしたけれど、足がすくんで動かなかった。

『神様』が私を抱き上げる。

 何をされるのか理解したとき、私は無我夢中で叫んでいた。


「……っ……いや! いやあああっーーー!」


 黒いもやを纏った手が伸びてくる。


 嫌だ! やめて! 『幸せ』になんてなりたくないっ!


『痛み』が入り込んでくる。あまりの『痛み』に私は泣き喚くことしかできない。

 けれど「いつまでも止まない」『痛み』に耐えていると、不意に彼は手をかざすのを止めたようだった。

 どうして止めたのかはわからない。私は『幸せ』にはなっていなかった。


「ほう。そうか――お前は。そうか。そうか」 


 まるで面白いものを見つけたかのような底冷えする瞳に。悪意のこもった笑みに、私は心底怯えた。

 そのまま殺されてしまうのではないかと思ったけれど、意外にも彼は私をそっと下した。

 それは余裕からだった。彼は明らかに侮蔑の混じった声で言った。


「お嬢さん。お前はどうやら知ってしまったようだね」

「あ、あ、やっぱり……! パパを……ママを……みんなを元に戻してよッ!」

「ははは。無駄だ。お前は何者にもなれない。お前は誰も助けられない。誰もお前を助けない」

「う、ううう……!」

「殺すなどと野蛮なことはしないさ。どうせあとわずかだ。精々無力に打ちひしがれるといい。たった独りだけでな」


 そうして「無罪放免」で放り出された私は、私を憐れむ無数の造りものの笑顔に囲まれていた。

 私は逃げ出した。どこにもいたくなかった。誰にも見られたくなかった。

 身も心も打ちひしがれて、街外れの誰もいないところまでやってきて、私は泣き崩れた。


「う、ああ……あ、ああ、ああああああっ!」


 無力な自分を呪った。小さな自分を呪った。


『神様』の言う通りだ。


 誰に言えるだろう。誰が信じるだろう。

 みんな、誰も私に味方なんてするはずがない。世界は彼の手に落ちている。


 私は……ひとりぼっちだ。


「助けて……誰か……助けて……!」


 そのとき、その人は現れた。


「ごめんね。もう少し来るのが早ければ、君に辛い思いはさせなかったのに」


 ひょいと抱き上げられて、わけもわからないまま頭を撫でられていた。

 きょとんと見上げると、知らない男の人の顔が映る。どこかあどけないお兄さんという感じ。

 本当は警戒しなくちゃいけないのに、そのときはそんな余裕もなくて、ただされるがままになっていた。

 それにこの人からは、不思議と安心するような、温かい感じがして。


 けれど胸元に顔を埋めようとしたとき、私は心底驚いた。

 涙も引っ込んでしまうほどに。

 だって。

『神様』が真っ黒なら、この人には数え切れないほどの透明な傷がたくさん付いていたから。


 この人、おかしいよ……。

 どうして平気なの……? どうしてまともに生きていられるの……?


 不思議でならなかった。とても信じられなかった。

 この町のすべての人の『痛み』を足し合わせても、まったく足りないくらい。

 普通の人なら気が狂って当然なほどの『痛み』を一身に抱えて、それでも平然としていたから。


「あの……大丈夫……?」


 思わず間の抜けた声で聞いてしまった私に、お兄さんは首を傾げた。


「大丈夫って? ――ああ。大丈夫大丈夫。こう見えてまあまあ強いからね。お兄ちゃんは」


 まるで私の心配の中身が通じたような答え方をするお兄さん。

 それからお兄さんは愛おしげに目を細め、私の目線に顔の高さを合わせて言った。


「君は優しい人だね。自分が苦しいことよりも人の心配をしてしまう。君は人の痛みがわかる人だ」


 その言葉に、不意に心を突かれた。

 私の不思議な力を理解していなければ、出てくるはずのない言葉だったから。

 誰にもわからないと思っていたことを。

 私にしか理解できなかった世界を、初めて理解してもらえたと思ったから。


「わ、たし。私ね……あのね、みんな……っ……痛くて……苦しんでて……!」

「うん。うん」


 タガが外れたように泣きじゃくり、とりとめもなく経緯を話す私を、お兄さんはずっと黙って聞いてくれていた。



 ***



「俺はユウ。旅をしているんだ」

「へえ。旅人さんなんだ」

「あと、趣味で人助けをしている」

「それで私のところに?」

「うん。君が泣いていたからね」


 さも当然のように言うけれど、街外れの片隅で泣いている私をどうして見つけられたのだろうか。


「……さて、セリア。君もよく知っている通り、世界は危機に陥っている」

「あの神様は、何をするつもりなの?」

「ちょっと理解するのが難しいかもしれないけどね」


 お兄さんは小さな私にもわかるよう、丁寧に説明してくれた。

 要するに、あの悪い『神様』はまず最初に人の暮らしを便利にして殖やす。

 だから人から見るととても善いことをしているように見えるけれど、本当の目的はその先だった。


「実は殖やした人に『幸せ』を貼り付けて、たくさん育ててからそれを全部食べてしまう怖い生き物なんだよ」

「えっ!? なにそれ!?」

「『幸せ』を抜かれた人間は、心を失って死んでしまう。みんなそうやって殺されてしまうから、このままだと世界は滅びてしまうんだ」

「そんな……!」


 話を聞いて、なんて恐ろしいことをするのだろうと身がすくむ。


「そんな化け物、どうやって倒したらいいの?」

「そうだね。俺も正直、かなり大変な相手かもしれないと思っていた。君の言う悪い『神様』は、世界中の人々の心を操っているからね。『神様』を敵に回すことは、世界中の人々を敵に回すことになってしまうから」

「そっか……」


 パパやママが敵になってしまうなんて、そんな恐ろしいことは考えたくない。


「でも何とかなりそうだよ」


 ユウは私を見つめて、温かく微笑んだ――それは初めて見た誰かの自然な笑顔だった。


「ほんと?」

「うん。いいかい。よく聞いてね。君はパパやママや、みんなを助けたいと思うかい?」

「もちろん!」

「よし。ならどうか、その大切な気持ちをずっと強く持っていて欲しい。悪い『神様』なんかに決して負けないように」

「そうしたら、どうなるの……?」


 わからなかった。気持ちだけでどうにかなるなら、私がとっくに何とかしていたと思う。

 私だって、か弱い子供が化け物の相手にならないなんて道理はわかっている。

 でも、そのことが――負けない気持ちを持つことが本当に大切なことであるように。

 ユウは笑ってウインクした。


「そうしたら、俺は君をほんの少しだけ手助けしよう。君がみんなを助けられるようにね」

「私が、みんなを……?」

「そうとも。この世界を救えるとしたら、それは他でもない、みんなを助けたいと望む君の意志なんだ。世界の運命は君にかかっているんだよ」

「本当……? 私が……本当に私が、みんなを助けられるの……?」

「大丈夫。君は立派なヒーローになれる。君はみんなを助けられるよ」


 根拠なんて何にもないのに。出会ったばかりなのに。どうしてだろう。

 私は、この人なら信じられるような気がした。

 温かい気持ちと、同時に強い勇気が湧き上がってくる。


 一足先に立ち上がったユウは前を向いて、秘めた想いを噛み締めるように呟いた。


「もう一人で怯える必要はないんだ。この世界は理不尽な運命なんかに負けやしない。明日もその先も変わらない日常が続いていく――そのために俺は来たんだ」


 そして私に向かって手を伸ばし、優しく引っ張り上げてくれた。

 相手が私みたいな子供なのに、まるで対等な立場の戦友に向かってそうするかのように。


「さあ行こうか。ちょっと世界を救いにね」



 ***



 そして私たちは『神』を殺し、旅人は風のように去っていった。


 ……ただ一つの世界の中で生きている私には、たぶんあの事件の全貌を理解できる日は来ないだろう。

 この世界と私が救われたことの価値を真に理解することはないだろう。


 けれど。それでも巨悪はきっと、何か大きな流れの中で。

 立ち向かう人の意志の前に敗れた。


 それだけはわかるような気がする。



 ***



「……誰だ?」

「通りすがりの旅人さ。お前を倒しにきた」

「どこの誰かは知らないが、大きく出たものだな」

「お前のことは調べさせてもらったよ。星級生命体――《星喰い》イータセヴァリスだな」

「ほう。私のことをご存知とは。ダイラー星系列にでもデータが残っていたかな?」

「……なあ。もうこの辺りでやめにしないか」

「何をやめろと?」

「かつてお前と同じような、人を喰らう化け物がいた。そいつは生まれつきの化け物だった。どうしたって人とは相容れない存在だった。だから何をしてでも止めるしかなかった」

「何が言いたい?」

「お前は違ったはずだ。お前はかつて人間だった。知っているぞ。こんな形じゃない。お前がどれほど多くの人間を本当の意味で幸せにしてきたのかを」

「下らん。昔の話だ」

「何も別に『幸せ』を喰らい尽くす必要はないだろう。ほんの少し分けてもらうだけでいいじゃないか。お前ならそういう生き方もできたんじゃないのか? 今からでもできるはずだ!」

「……ふん。何を言うかと思えば。どうにも永く生きると刺激が足りなくてな。退屈で退屈で……もうこのくらいしか愉しみがないのだ」

「そうか……。なら、お前はここで終わりだ――先はない」

「人間風情が。そうやって挑んできた身の程知らずを私がどれほど……!? なっ……そのオーラ……まさか! お前は……!?」

「……いくぞ」

「あり得ん……! お前の能力なら知っているッ! この世界はとっくにすべて掌握しているはずだ!」

「違う。すべてじゃない」

「はっ!? まさか……! そこの小娘かッ!」

「お前はたった一人の少女の決意を見過ごしてしまった。それがお前の敗因だ!」



 ――――――――



「……あ、あ。これで、終わりか。やっと、終われる、の、か……」

「……バカだな。本当にどうしようもなくバカだよ。お前は……」

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