第2話 我が田に水を引く

「しっかりして下さい! 意識を強く持って! 救急隊はすぐに来ます!」


少女、月松円佳は自らの命を救ってくれた男に胸骨圧迫をしながら救急隊の到着を今か今かと待っていた。


「お嬢様! AEDを持って参りました!」


「ありがとう影島。すぐに処置を」


「承知しました。お嬢様もお怪我をなされております。後は私に」


円佳の家に仕える影島がAEDの処置を引き継ぎ、男の命を断たせないようにと奮闘する。


「(私なんかを助けてくれた......。神様、あの方を助けて下さい......!)」


円佳は祈るように男の無事を願い続けていた。





「じゃあまた明日ねー月松さん〜」


「うん! また明日! 奈々達も部活頑張ってね!」


藤ノ宮高校に通う女子高生、月松円佳は大手自動車メーカーの社長を父に持つ社長令嬢だ。幼少の頃から英才教育を受け成績優秀、そして恵まれた容姿も併せ持つ、まさに最強の存在だった。学校でも大きな問題などこれまでに経験した事がなかった。......数十分前までは。

彼女は聞いてしまった。自らへの陰口を。先ほどまで自分と仲良く談笑していたはずの──クラスメイト達の口から。


「月松さんってさー何か調子乗ってない?」


「わっかるぅ〜。ていうかさ、そもそも社長令嬢じゃなかったら近づきすらしていないというかさ」


「私も。ってか月松さんのせいで私、彼氏と別れたし」


「やっぱ調子乗ってるわー」


「............」


円佳は放課後、忘れ物を取りに教室に向かい──偶然その会話を聞いてしまった。彼女達は教室でも円佳と仲がいい、所謂友達と呼べる関係。普段は円佳に対して笑いかけてくれる存在。だがそんな彼女達の本心は──自分にでなく自分の家に向けられていたようだ。


「(そうか。所詮私に近づいてくれる人は私じゃなくて......)」


物心がつく時から円佳は自らが恵まれた存在だと自覚していた。それで優越感を抱く事も──まだ幼少で物事を知らなかった時はあった。

恵まれた家に生まれた者には打算で近づく者がいる、という事はドラマやアニメなどでは定番の展開で、円佳もそういった作品を見た事はある。

しかしこれまであまり共感する事ができなかった。そんなのは虚構フィクションだから──否、自分は交友関係においても恵まれていたと本気で思っていたから。

だが、その幻想はたった今崩された。


「(......もしかしたら、今までの友達も皆そうだったのかな......)」


学級クラス替えする前の友達、中学の友達、自分に良くしてくれている使用人の人達など......。自分が月松の人間でなければ今までの関係などあり得なかったのでは? 彼ら、彼女達も心の底ではあの友達だった人達のように思っているのではないか? 

誰も自分を見てくれない。自分が「月松」という、大きすぎる家名を背負っている限り、月松家の人間としか見られないのではないか? 

他人を信じる事が怖い。自分に近づく人間が怖い。自分の近くにいる人間が怖い。

誰も自分を見てはくれない。円佳はこの瞬間、他人に対して決して癒える事のない猜疑心を刻み込まれた。





「お帰りなさいませお嬢様」


結局忘れ物を教室に取りに行く勇気は円佳にはなく、彼女は校門をくぐった。校門をくぐれば彼女の家の使用人、円佳が生まれるより前から月松家に雇われており、既に白髪が見え隠れしている影島が車の脇に控えている。

毎日、彼女が車に乗るためにドアを開け、円佳が乗った事を確認した後にドアを閉めるだけのために、影島は円佳の下校を車の外で直立して待っていてくれる。

その行動は主人に対する忠義を表す、称賛されるべき行動と言えるだろう。しかし事相手が円佳であれば──否、今日この瞬間の円佳にとってその行動は──地雷を踏み抜く悪手だ。


「(......影島さんも、私の事をお父様の娘としか見ていない......。誰も、私の事を見てはくれない)」


円佳の心は弱っていた。次々と悪い考えが彼女の中に浮かんでは侵食してくる。


「......ごめんなさい影島さん。今日は、歩いて帰りたいの」


「それは困りますお嬢......様......」


影島は、円佳を安全に自宅まで車で送り届けるといった職務を遂行できない事から声をあげたが──円佳の顔を見て目を見開かせる。


「......分かりました」


影島は目を伏せ、円佳の願いを聞き遂げた。影島の決断は後に彼女の父親から叱咤され罰を課せられるに留まらず、最悪解雇の可能性すら孕む危険な行為であったが──円佳の目を見て影島は彼女の願いを拒む事はできなかった。

これは影島が円佳の事を雇い主の娘としてではなく『月松円佳』として見ていた何よりの証跡だったのだが──今の円佳にそれに気づけるほどの精神的余裕はなかった。





円佳は一人、自宅に戻るために歩き始める。


「(私は......)」


短い人生ながらも他人に対して抱いていたものが全て壊れたような気がしていた。


「(影島......ごめんなさい)」


一人で暫く歩いたからか、円佳は先ほどの自分の行動について客観的に見る事ができていた。自分の自己中心的な行動が、影島にどれだけの危険を負わせる可能性があったのかという事を。


「(......だから私は皆から受け入れられないのでしょうね......)」


円佳は自嘲的に笑う。そして生まれた初めて円佳の中に......


「......消えたい」


死神が生まれた。


「......ん?」


ふと何かを感じ、足元に向けていた視線を無意識に上げてみる。

円佳の眼前に乗用車が迫っていた。それも運転手に座る男は急病なのだろうか意識を失い、直線的に歩道を歩く円佳の方に向かっていた。護輪軌条ガードレールはなく、このままだと間違いなく円佳に衝突するだろう。

しかしまだ十分な距離がある。走って横に逃れれば乗用車に撥ねられずに済むだろう。しかし......


「もう、いいかな」


今の心身共に疲れ切った円佳に、走り出す気力など残っておらず──


「これでサヨナラ、かな」


彼女の中の死神が、彼女の生存本能を阻害していた。円佳はゆっくりと目を閉じ、歩道に突っ込んでくる乗用車から受ける衝撃に備える。刹那──


「間に合え!」


男の絶叫が耳に届いた後に自身を突き飛ばす感触が。そして目の前で彼の輪郭がブレる。待ち構えていた強い衝撃は──いつまでたっても届かなかった。


──────

「知らない天井だ」


死ぬ気で乗用車に飛び込んでいった男は、円佳による適切な処置、円佳が心配で後をつけていた影島によるAED、そして迅速な救急隊の到着により一命をとりとめた。


「い、意識が! すぐにお医者様を呼んで参りますね!」


そして天井と同様、知らない少女が横たわる男の側に座っていた。


「(いや、あの時の少女か。腕に絆創膏が貼ってあるけど......良かった。大怪我はしていないようだな)」


男は少女の顔を知っていた。それと同時に、この世に対して、自らに対して絶望していた自分が、誰かのために何かできた事が──嬉しかった。





「打撲と擦過傷が目立ちますが、命に別状はありません。この腕の傷は残るかもしれませんがその他には後遺症も何も残らないでしょう」


少女が呼んできた医師が男に対して診断結果を告げていく。

男の全身の傷の中でも最も深いのが右腕の傷だ。円佳を突き飛ばし、乗用車からの衝撃を受けた際に地面に転がっていたガラスで右腕の前腕外側をざっくりと切ってしまった傷だ。その傷跡は消えない可能性があるらしいが──しかし命を落とす可能性もあっただけにそれだけに留まった事は幸運と呼べるだろう。


「そうですか」


男の返答には、何か特定の感情が籠められたようには見えず、機械的な物のように感じられる。自らの生命を心配する必要がないという吉報だったにも関わらず。──それは、元々死ぬ気で飛び込んだ男にとっては興味関心の外だったから。


病状説明とその他の必要事項を述べ、仕事を果たした医者は病室から去っていった。後に残されたのは男と少女の二人のみ。


「えっと、君は......」


「すみません申し遅れました。月松円佳、と申します。あなたに命を救われた者です。その......その傷、すみませんでした」


円佳は自己紹介をした後、男に対して頭を下げる。その所作はとても洗練されているようで、男は目の前の少女に一種の別世界のようなものを感じていた。


「あなたが助けてくれなければ私は──今頃死んでいました」


彼女も男と比べれば軽傷だが右腕に傷を負い、無傷とは言えないものの、男が助けてくれなければ命を失っていた。

先に宿った死神は受けた衝撃と共にどこかに飛んでいってしまったようで、故に現在円佳に宿っているのは罪悪感と、自分が死んだかもしれないという遅ればせながらの恐怖感。


「別に。君じゃなくても俺はそうしただろうから、謝らないで」


「そうはいきません。本来なら私もあなたも......怪我をする事はなかったからです。私が......つまらない感傷さえ抱いていなければ」


円佳が乗用車の接近に気づいた時、まだ余裕はあった。彼女がいち早く避難していれば彼女はおろか、彼女を庇った男がこうして大怪我を負う事もなかっただろう。


「あなたが怪我をしたのは......私のせいなんです」


円佳のその表情に、男は既視感を覚えた。その表情の中に、かつて鏡に写った自分の表情と似たものを見出したから。


「何か、あったの?」


男が突然円佳に踏み込んできたものだから円佳は目を見開いて驚く。


「(あれ? この人に私の家の事話したっけ?)」


まだ円佳の父の事は話していない。つまり目の前の男は正真正銘、円佳の家名ではなく彼女自身を見て踏み込んできたという事になる。


「別に無理して話さなくてもいいよ。ただ、ありきたりだけど人に話したら楽になるからさ。......俺もそうだったし」


ここまできて彼は自覚する。誘者と話した事によって、彼の中のが小さくなっていた事を。


「俺はさ、本来なら君に謝られる筋合いもお礼を言われる資格もないんだ」


「そんな事は──」

「俺は君に会う前、死のうとしていたんだ」


「......えっ?」


そんな事はない! と息巻いていた円佳であったが男から出てきた「死」という言葉に思わず息を呑む。


「だからあの場面で俺が命を落としたって結果は大きく変わらない。実質ノーリスクだったんだ」


「そ、そんな事なんて!」


ない! と否定したかった円佳だったが、男の顔を見て、何も知らずに安易な事は言えないと悟る。


「(私だって、影島にあまり言えない事が......)」


男と同様に、彼女も男の表情に自らと重なる部分を見出したから。


「(でも、だとしても。私はこの人の事を知りたい!)」


「その理由を......聞かせてはくれませんか?」


円佳は男に対して一歩を踏み出した。

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