双色の祓 -フタジキノハラエ-

軍艦 あびす

第1話 アメノウズメ

 姉は、よく笑う人だった。何か嬉しい事があろうとなかろうと、いつでも明るく笑っていた。顔見知りしかいないような過疎の街で生まれ育った姉は、巷ではまるでアメノウズメの様だと囁かれていた。

 そんな姉への対抗心、と言うわけではないが、人付き合いの下手な私は精一杯の努力をその一点に注ぐ。最も、何か得られたかと言われて仕舞えばそれまでなのだが。

 当然か。笑顔の神と揶揄やゆされた逸材に凡作が近づこうなど、無駄に等しいと。私はそう、諦めて吐き捨てた。

 

 

 ※

 

 

直姉なおねえ、弁当忘れてる」

 窓から鋭利に差し込む朝の陽が時計のアクリルを反射して、八時の十分だか二十分だかを不確定に表す。昨年高校を卒業し、そのままに職を手につける十九の女が慌ただしく一人。使い古された弁当箱をトートバッグに詰め込み、玄関へ向かう。

「ありがとーマガリ、んじゃいってきます‼︎」

「ん、いってら」

 波ヶ咲直はがさきなおの顔は、今日もアメノウズメだった。高校三年の年にしばらく家を空け、資格だのなんだのを手にした彼女は現在街の役場に勤めているらしい。心配をかけたくないのだろうか、身内のマガリにさえ詳しいことはあまり話してくれないが、新たな生活の環境にはまだ慣れないのだろう。

 だというのに、その笑顔はいつもと変わらず姿を保ち続けていた。マガリはいつしかその姿を自身に重ねたいと願ってみたが、やはり届かぬと投げ捨てたのだ。

「……んじゃ、私も行ってくる」

 高校二年目の、少し汚れが目立ち始めた制服。暑くも寒くもない秋の気象に当てられて、マガリはどっちつかずなセーターを纏った。少しざらつく玄関の床に陣取った鞄を持ち上げてから、母へ向けて笑う。

 どうせ、姉とは雲泥の笑顔だろう。そう、自嘲した。

 

 

 教室は、狭いひとつの箱。人口の過疎という原因から二十人ほどしか居ないが、通常は二倍までもがこの狭い箱に押し込められるというのだ。小さな椅子に収まる今でさえ、彼女は窮屈を感じている。

 それぞれが、等間隔に詰められるように。よく聞いた簡素な不協和音が、この場の人間を統制する。一日の始まりを告げた単純の音色は、二十秒程度を支配して去っていった。

 軋む戸の開く音と共に、いつもの影が姿を見せる。しかし何故か。その光景に一つ、いつもと非なる存在を携えていた。その光景へと、整えられた静寂は揺らぐ。

 転校生、というやつだろうか。通常なら、学期の初日に現れるであろう存在が特に何か特別など無いような今日に姿を見せていた。

 特徴的に、雪景色に似た銀のセミロングを揺らして笑う。その顔も、アメノウズメには届かないか、などと。名も知らぬ人を評価しようなど、陰湿な思考が過ったことに、マガリは首を振る。

 高い声、担任に促されるよう向き直る銀の少女はゆっくりと口を開いた。淡々と、素性を語る。

黒柴阿弥陀くろしばあみだです。短い間ですが、どうかよろしくお願いします」

 加え、家庭の事情により長くは滞在できないと語った。転勤族というやつだろうか、なんでも無いような日に現れたのも、少しは納得だった。しかし、この過疎地域に何の用があるのか。卑下するつもりはなくとも、ここがそうと語って相違ないドがつくほどの田舎である事は明白である。

 

 

 

 夏休みが明けてから一か月ほどが経ったか。堕落した生活に魅入られたマガリの身体は平凡な一日の生活にすらも悲鳴をあげ、身体中の関節がぴきぴきと泣いている。無論、一向に元の生活に戻れそうな気はしていない。

 机横に吊るされ、だるだると今にも千切れそうな鞄へと、手を伸ばす。眠気に目を擦りながら、マガリは外の空気を求める。

「ねぇ、あなた」

 背後から、語る声。本日の印象を掻っ攫った人物、黒柴阿弥陀くろしばあみだが少し鋭利な声をマガリへ向ける。

「はい……?」

波ヶ咲はがさきさん……だよね。それじゃあ行きましょう」

 咄嗟の言葉に、マガリの理解など遠く及ばず。疑念を垂れ流す間など与えられることもなく、黒柴阿弥陀くろしばあみだはマガリの腕を握り歩みを進めた。

「ちょ……何、なんですか……⁉︎」

「何って、本部から聞いてるでしょう?」

 言葉の真意を理解できないまま、疑念を垂れ流して脱出を試みる。しかし、一端の少女とは思えない力がマガリを拘束して離れなかったのだ。

 一切の理解も及ばぬまま、マガリの脳はあれでもないこれでもないと唸りを溢す。おかしな奴と思われただろうか、などと、考えるよりも先に、自体を飲み込めないばかりだった。

 いつしか辿り着いた旧校舎の薄汚れた床を軋ませて、薄暗い光景に視界を向ける。周囲に人間が黒柴阿弥陀くろしばあみだのみとなった頃、ようやく、マガリは声帯に踏ん切りがついた。

 黒柴阿弥陀くろしばあみだ、不思議な少女に、おそらく人違いと告げるよう息を吐く。

「あ、あの‼︎多分人違いじゃないですか⁉︎ほんとに何も知らないし、確かに波ヶ咲はがさきは私しかいませんけど……」

 想像以上に、大きな音を反響させた。その声は、彼女がマガリに向けた第一印象を狂わせたようだ。

「え、どういうこと……」

「こっちのセリフですよ……」

 ゆるりと離れていく黒柴阿弥陀くろしばあみだの掌。その圧迫から解放された右腕は、拍子抜けしたようにぶらぶらと揺れる。マガリは困惑する彼女の表情に向けて首を傾げ、何故か苦笑いを溢した。

「それじゃあ、失礼しますね」

「あっ……ちょっと‼︎」

 振り返り、来た道を視界に。相変わらず軋む床に不穏を覚えて、蜘蛛の巣が張った角を曲がる。すると、何やら黒い障壁がマガリの進行を妨げていた。先程まで存在しなかった謎の行き止まりに、またしても疑念のまま首を動かす。

 三十五度くらい上の景色。てかてかと黒光りする障壁の上層に、幾重とも重なる異形の唇が佇む。直に植え付けられた瞼のない眼球が十、二十と、数えることも放棄させる姿。

 ひゅっ、と、喉の奥を中心に、マガリの全身が凍る。どんな本や液晶の中でも見たことのないような、明らかなる創作でないとあり得ないこの世のバグめいた存在がマガリを見下ろしていた。人間、いざという時に声は出ないものだ。本当なら、声帯が千切れる程までに叫んでいてもおかしくはない。

 

 などと脳内がぐちゃぐちゃと荒れ狂う最中の瞬間、マガリの視界を遮るようにして立ちはだかる黒の異形が吹き飛び、後方のアルミ扉に衝突した。

 衝撃は、古き良き旧校舎を震わせた。いつの間にか、制服を脱ぎ捨てて全身を黒で包み込んだ黒柴阿弥陀くろしばあみだが現れる。彼女が異形を殴り飛ばしたのだろうか。

「あなた、本当にはらえじゃないの⁉︎」

 差し込んだ夕の光に照らされた黒柴阿弥陀くろしばあみだは、左の手を差し出す。マガリは迷いなく、一言を発することすら恐れたままにその手を借りて立ち上がった。

 はらえ。彼女の語る単語が何を意味するのか。そして、何が起きたのか。マガリの思考は未だ、一切の理解が出来ていない。

 ふと、マガリは視界を逆の方向へ。かつて一度たりとも耳にしたことのないような、狂ったような嗚咽が、そちらの方向から耳をジリジリと軋ませる。

 先程の黒壁と、幼児に似た形態の黒い塊。七だか八だか、その数が段々と二人へ迫る。学校の七不思議をバカに出来そうな容姿をした怪物の群れに、はっとした瞬間からマガリの喉が恐怖に震える。

「いやっ……何な何何これ⁉︎」

 いつしか機能を失った脚を無理やりに叩き起こし、走る。マガリの脳は語りかけるのだ、今すぐこの場から逃げろと、命の危機だと。

「ちょっと、勝手に動いたら危な……‼︎」

 黒柴阿弥陀くろしばあみだの忠告が飛ぶ最中、マガリは脱出口を求めて近くの『旧二年四組』の扉に手を掛ける。勢い良く開け放ち、その先に見えた窓へと飛び込むために、前傾姿勢でアルミサッシを飛び越えた。

 が、何故か。教室へ踏み入れたマガリの爪先は、意味もわからないまま土を踏み締めていた。乾きに乾いた、栄養の行き届かない腐敗の土である。さも当然と言わんばかりに、その光景に教室らしき姿は一つすらも存在しなかった。

「……は?」

 荒廃した世界の先は延々と、粘度を帯びた汚い油のような空に支配されている。朽ち果てたビルの残骸や、いびつに歪む鉄骨の群れが気味悪く聳える。

 そんな光景に意味も分からず、一呼吸。マガリは空気を鼻から体内へ、その刹那、壮絶な拒否反応が五感を蝕んだ。

 その場の土へ座り込むようにして、唇に手を。言葉にならない嫌な感覚が、昼食の有象無象を外へ追い出そうと試みているらしい。無惨にも、マガリを包む制服は吐瀉物に塗れて黄ばんでゆく。

「ゔぇっ……ゔぇぇ」

 マガリの普段の生活では、嘔吐など伴わない健康を過ごしていた。久しい逆流に、酸の香りに、催促されるようにしてスカートを染める。舌の先からぼたぼたと、米粒を捻り落とした。

 ふと顔を上げ、マガリは虚虚の意識に歪む視界の先を捉える。そこには、先ほどと同じ黒の異形がぼやけた視界に映り込んでいた。見間違いなどでは無い。明らかに、そこに存在しているのだ。先程まで居たはずの旧校舎どころか、もはや現実世界なのかすら疑わしい光景に、ただ夢ならばと願っていた。

 まるで地獄のような空気に侵されたマガリの身体は動くことを拒否しているようだが、一心に立ち上がり走れと歯を軋ませた。しかし、そんな事では汚物まみれの身体は言うことを聞かない。

 錯誤するマガリを捉えたようで、段々と異形は迫る。赤子のような塊、無数の眼と層を重ねる唇、蛇に似た姿。どれもが、吸い込まれそうな漆黒を携えていた。

 結局、マガリの身体は行動を放棄したようで、迫る異形との接触へと至る。座り込んで動かない身体を登るよう、赤子の拙い手で肌が圧迫されていく。絡みつく蛇は螺旋を描きながら、胴をクルクルとよじ登る。

 恐怖、またしても声帯までもが動きを止めた。どうしようもないままに、マガリは漆黒の肉の群れに溺れていく。

 

 途切れかけた意識の中、呼吸を諦めた身体が、途端に軽くなる。視界の漆黒が弾け、マガリを蝕んでいた諸々が形を失ったのだ。

「……リ、大丈夫⁉︎」

 両肩を掴まれ、揺らされる感覚。脳が揺れ、もう一度、正常へと意識が移行していた。眼前の顔、その笑顔に、彼女は安堵か何かを得たのだろうか。

 見たこともない、服とも言えない何かに身を包んだ、その顔。笑顔で手を振り、今朝以来の再会である。

 波ヶ咲直はがさきなお。焦りに任せた顔が、ゆっくりと微笑に変わる。相も変わらず、アメノウズメである。

直姉なおねえ……なんで……」

「それは後で、とにかく帰るよ‼︎」

 波ヶ咲直はがさきなおは吐瀉物まみれのマガリを抱え、走り出す。ここがどこなのか。どこを目指しているのか。それすらもわからないまま、ただひたすらに、淀んだ空気を進んでいく。

 ふと、マガリの視界がゆらりと歪む。その中心から、波ヶ咲直と同じ格好をした黒柴阿弥陀くろしばあみだが現れた。

波ヶ咲はがさきさん‼︎」

 駆け寄る黒柴阿弥陀くろしばあみだの切羽詰まった表情と、乱れた髪の毛。旧校舎の異形と戦っていたのだろうか。

「ん、マガリの友達?」

「そう……かも?」

 マガリは掠れた声で、二つ返事を投げる。未だ何一つ飲み込めない状況では、仕方ないだろう。そんな事を考えながら、波ヶ咲直に抱えられた身体をずり落ちるよう重力をなぞり、ゆっくりと、マガリは自分の脚で身体を支えた。

「そっか。んーじゃ、マガリはとりあえず現界に……」

 

 ぱっ、と。違和感すら感じさせない瞬間の出来事だった。

 先程までマガリの身体を抱えていた、波ヶ咲直の右腕が根本から消滅した。少し遠くの土に転がっていた、先程までなかったものが何なのかを理解するまで零点四秒も掛からなかっただろう。

「……マガリ連れて逃げてくれ」

 波ヶ咲直の一言。黒柴阿弥陀くろしばあみだは、汗に塗れて、数分前と同じようにしてマガリの腕を握る。踵を返し、走り出した。

「なっ……直姉なおねえ⁉︎」

「喋らないで‼︎舌噛むよ‼︎」

 遠ざかる視界の向こう側。立ち尽くした、四肢が三肢になった姿を覆うようにして、巨大な異形が地から生えてくる。巨大な影に、波ヶ咲直の腕を切断したのは奴だと瞬間的に悟る。

 ふと、波ヶ咲直はがさきなおは走り去る二人の方向を向いた。残った一本の腕を向け、ピースサインを示している。

 

 ただしっかりと。彼女の顔は、アメノウズメだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る