3 決断

事故から三年目の冬が静かに訪れようとしていた。

初美は21歳になった。

両親は家に戻って来なさい。と、数回言ったけれど、初美は音楽教師になりたいという、自分の夢をどうしても捨てきれなかった。

しかし大学へ足を運ぶ勇気が未だにない。同じ道を通ると、あの時の事故が脳裏に焼き付いていて怖くなり、フラッシュバックをおこしていた。だが、そのことは両親には隠している。

初美はあの事故以来大学には行かず、第一発見者の福島のカフェの手伝いをしていた。

そして事故を忘れたくて、アルコールを飲み始め、事故を思い出す度ビールの量も増えていった。

さすがに大学休学が三年目になると、初美はもう夢を諦めなければならないという事実と、向き合うようになっていた。

「マスター、私このままじゃダメですよね。大学…ケジメつけた方がいいですよね…」

訊くまでもなく答えはわかっていたが、初美は訊かざるを得なかった。誰かに背中を押してもらいたかった。

「そうだね。ケジメはつけた方がいいとは思う。でもその先も考えなくてはいけないよ。このまま東京に残って何をするのか、ご両親に心配かけない為に田舎へ帰るのか、ちゃんと考えた方がいい」

「私、まだこのままこのお店で働きたいんです。やりたいことも挫折したし、他にはまだ思いつかないし…。マスターに甘えることになるけど、それじゃダメですか?」

「ウチとしてはこのまま働いてもらうのは助かるよ。でも給料も安いし初美ちゃんはまだ若い。それでいいのかい?」

「はい。まだあの事故のことが忘れられない。マスターから離れるのが怖いんです」

「そうかい?それじゃあご両親の許可をもらわないといけないね。ちゃんと納得してもらわないと…」

「はい。きちんと話してみます」

その夜初美は、母親に電話をかけた。

「もしもし、お母さん?私、初美」

「どうしたの?何かあった?」

「うん…。大学のことなんだけど…。私ずっと休学していたけど、辞めようかと思って…」

「音楽の先生はいいの?夢だったんでしょ?」

「うん…。まだ横断歩道とか見ると事故のことが忘れられなくて、怖いんだ…」

「そう。初美がそうしたければお母さん反対しないわ。この際東京のアパートを引き払って、こっちに帰って来ない?」

「ううん。このまま東京で頑張る。真琴もいるし、マスターのお店居心地がいいんだ。カフェでしばらく働くつもり…」

「そう…。初美が決めたのならお母さん何も言わない。お父さんだって同じ気持ちだと思う。お母さんからお父さんに話しておくわね。辛くなったらいつでも帰ってらっしゃい」

「ありがとう、お母さん…」

初美は安堵した。

そして一週間後、書類を提出し大学を辞めた。

ある日マスターは、誰も弾くことのないピアノのカバーを外し、ドの音をポーンと鳴らした。

そして次の日ピアノの調律師がきて、一音一音丁寧に音の確認をした。

初美は不思議に思ったが、マスターには訊きにくかったから、何も言わずにピアノを懐かしく見ていた。

「古いピアノですけど、調整しましたから、また復活できますよ。大事に使ってやって下さい」

調律師はそう言い、コーヒーを一杯飲み干すと店を出て行った。

マスターはピアノのフタを開け、ドレミファソラシドと、指先でゆっくり弾いた。

「なあ、初美ちゃん、良かったらこのピアノ、使ってやってくれないか?」

「え?」

「このピアノは、ボクの亡くなった妻が弾いていたピアノなんだ。亡くなってから七年になる。もう、音色を聴くことはないだろうと思っていたが、もし初美ちゃんさえ良ければ、弾いてやって欲しい」

「そんな大事なピアノ、私なんかが弾いてもいいんですか?」

「ああ、その方がピアノも女房も、きっと喜んでくれると思うんだ」

「ありがとうございます。私も大学行かなくなってから、ずっと弾きたいと思っていました。大学にしかピアノはないから、嬉しいです」

「そうか。これからは初美ちゃんの好きな時に弾いてやってくれ。お客さんがいる時でも構わないよ」

「ありがとうございます。本当に嬉しいです。早速いいですか?」

「どうぞ」

初美は赤い丸い椅子に座り、しばらくぶりに弾くピアノをドキドキしながら、ピアノと向き合った。

初美はショパンが好きだ。仔犬のワルツや、雨だれ、別れの曲を続けて優しく静かなタッチで弾いた。

マスターの瞳には光るものがあった。それを初美に悟られないように、マスターはそっと瞳を閉じた。


初雪が降りずいぶん寒くなった。クリスマスも過ぎ、今年がまた終わろうとしていた。

初美は相変わらず黄色いエプロンを身に付け、カフェ、カランコロンで働いていた。



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