第40話 エピソード2 シウマイ弁当と卵焼き(16)

「この子の頭を撫でるのなんてどのくらいぶりだろうね?」

 自分の胸の上で涙に顔を濡らしたまま寝息を立てる先輩の金色の髪を母親は優しく撫でる。

 看取り人は、パイプ椅子に座り、いつものようにパソコンを開いて母親にと向かい合う。

 時刻はもうすぐ深夜の12時を過ぎようとしていた。

 窓から見える景色は星すら見えない程に暗く、冷たい。

 母親は、弱々しい光を灯す切長の目を細めて先輩の顔を見る。もう首を持ち上げることは出来ず、ベッドのジャッジアップを負担のこない程度に持ち上げることでなんとか先輩の顔を見ることが出来ている。

 看取り人は、いつものようにパイプ椅子に座り、膝の上でパソコンを立ち上げ、三白眼を細めて母親と、その胸で眠る先輩を見る。

「どんな気持ちですか?」

「溜まったもんじゃないよ」

 母親は、浅いため息と一緒に吐露する。

「これじゃあ一芝居打った意味ないじゃないか」

 母親は、先輩の髪をクシャと撫でる。

 昏睡状態に陥ったように見えたのは母親の芝居であった。看取り人に協力を願い、先輩を騙そうとした。

 目的の為に・・。

「本当はこの子に私のことを蔑んでもらうはずだったんだ。恨みを吐き、怒りをぶつけ、死体と変わらないこの身体を殴りつけて欲しかった。私がしたように」

 母親は、先輩の寝顔を見る。

 綺麗に閉じられた切長の右目の横で醜く開いた赤い瞼が呼吸するように痙攣する。

「人は親しい人間の死を目前にした時、あらゆる感情の殻が剥がれます。先輩にとっての殼は貴方への恐怖だったんでしょうね」

 看取り人は、パソコンのキーボードの上に指を添える。

 しかし、その指は欠片も動かず、三白眼は画面すら見ずに母親と先輩を見ていた。

「私は親しい人間なんかじゃない」

 母親は、吐き捨てるように言う。

「この子が最も憎み、最も忘れなければいけない人間だよ」

「それを決めるのは貴方ではありません。先輩です」

 看取り人は、紙を切るようにはっきりと言う。

 母親は、切長の目で看取り人を睨みつける。

 しかし、その両手は優しく・・優しく先輩の頭を撫でていた。

「・・・それじゃあ・・この子はどうなるんだ?」

 看取り人は、眉を顰める。

「どうなるとは・・・?」

「私は、もう思い残すことはない。1人で誰にも見送られることのないまま地獄に落ちるつもりだった」

 母親は、先輩の顔を見る。

 愛しげにその寝顔を見る。

「それなのに私はこの子から最高の言葉を貰えた。大好きと言って貰えた。それだけで私の心は満たされている。それなのに・・・」

 切長の目が薄い涙が力なく落ちる。

「この子には何も残らない。大好きな母親に大嫌いと言われた記憶を残したまま長い人生を歩んでいくんだ」

 涙が溢れ、呼吸が乱れる。

「こんな拷問があるかい?こんな地獄があるかい?本来ならその拷問も地獄も私が味あわなければいけないのにこれじゃあアベコベじゃないか・・」

 母親は、誰に向けたものでもない恨み辛みを痛々しく吐き出す。

「それともこれが私への罰なのかい?この子を苦しめたまま死ぬことが私への罰なのかい?死んでこの子が苦しむ姿を何も出来ないまま見ていることが罰なのかい⁉︎だったらやめてくれ!罰は私1人にだけ与えてくれ。この子を巻き込まないでくれ!」

 母親は、天井を仰ぎ、そこにいない誰かに必死に訴えた。天にいる釈迦に許しを得ようと叫ぶ罪人のように涙を垂れ流して力のない声で弱々しく叫んだ。

 看取り人は、その母親の苦しむ様を冷徹な表情を浮かべたままじっと見ていた。

「なら・・・伝えてください」

 看取り人の声が岩を打つ清水のように母親の耳に届く。

「えっ?」

 母親は、涙に濡れた目で呆然と看取り人を見る。

「今からでも遅くありません。伝えてください。先輩に。大好きだ、と」

 母親が看取り人の言葉を理解するまでに数拍の時を要した。そしてその言葉が衰えた脳に行き渡り、理解してすると力なく笑う。

「駄目だよ。そんなこと出来ないよ」

「何故ですか?」

 看取り人は、三白眼をきつく細めて睨む。

「そんなことしたら・・この子はまた、恐怖で泣き叫ぶよ」

 母親は、切長の目を閉じ、ふうっと浅く息を吐く。

「そして私もこの子を罵ってしまうに決まってる」

 母親は、先輩の髪を優しく優しく撫でる。

「私達はお互いを意識しない、この瞬間でしか親子でいられないのさ」

 母親は、諦めたように乾いた笑いを浮かべる。

 看取り人の目に小さな怒りが灯る。

 眉が釣り上がり、唇をきつく噛み締める。

「なら、今、伝えてください」

 看取り人の言葉に母親は切長の目を大きく広げる。

「人は死ぬ寸前まで耳は機能してます。声は聞こえています。それは眠っていても一緒だ」

 看取り人は、母親の胸で眠る先輩を見る。

「話してください。語りかけてください。先輩に貴方の気持ちを。貴方の心を」

「でも、それじゃあ夢と変わらないじゃないか」

「夢の何が悪いんです!」

 看取り人は、静かに、殴りつけるように声を発する。

「先輩はずっと貴方に怯えていた。怖がっていた。ならせめて夢の中でくらい優しい、愛に満ちた貴方と一緒にいさせて上げて下さい!」

 看取り人は、パソコンの上に載せた両手を弾けるくらいに握りしめ、三白眼が剣のように母親を突き刺す。

「それが・・・貴方のこの世での最後の仕事です!」

 涙に濡れた母親の目が大きく震える。

 酸素チューブの空気が鼻から弾かれ、口から一つ息が漏れる。

 母親の目が先輩を映す。

 子どものように安らかに眠る先輩の右目から涙が一筋流れる。

 母親は、枯れ木のような指先で先輩の涙を拭き取る。

「・・・私は・・もうすぐ死ぬ」

 母親の言葉に看取り人は反応しない。

 ただ、冷徹にその顔を見ていた。

「この子のこと・・・頼んだよ」

「・・・はいっ」

 看取り人は、小さく頷いた。

 母親は、先輩の顔を見る。

 優しく優しく先輩の髪を撫でる。

 その表情は今まで見せたことのないくらいに穏やかで、優しいものだった。

「・・・ちゃん」

 母親は、か細い声で先輩の名前を呼ぶ。

「生まれてきてくれてありがとうね」

 母親は、優しく先輩の髪を撫で、優しく語りかける。

「大好きだよ・・・大好き・・・」

 母親は、窶れた身体を屈め、先輩の白い頬にキスをする。

「幸せになってね」

 その行為は、夜が明けるまでずっと続けられた。

 看取り人は目を逸らすことなく、瞬きすら忘れてずっと見ていた。

 窓の外が白み、鳥の声が微かに聞こえる。

 先輩の目がゆっくりと開く。

 頭の上に乗った冷たく、固い感触に戸惑う。

 先輩の切長の目が動く。

 そこに映ったのは記憶の中でしかない穏やかに優しく微笑んだ母親の顔。

「ママ?」

 先輩が小さく呟き、身体を少し動かすと母親の身体はかくんっと崩れ落ちて先輩の身体に覆い被さる。

 まるで抱きしめるように。

 先輩は、一瞬でも何が起きたのか分からなかった。

 しかし、徐々に頭が目覚め、思考がはっきりしてくる。

 母親の冷たい感触が、白く穏やかな死に顔が全てを伝えてくる。

 先輩の嗚咽が居室の中に響き渡る。

 看取り人は、その様子をただじっと見届けた。

 慟哭が駆ける。

 悲しみが広がる。

 看取り人の乾いた唇がゆっくりと開く。

「どうぞ安らかに。ご冥福をお祈り致します」

 そう呟いた看取り人の目から一筋だけ涙が落ちた。

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